「教師いろいろ」



私が中学一年の放課後の教室のことだった。
その日は、球技大会で私のクラスは決勝戦まで残った。
そのために、負けてしまったクラスは帰宅し,校内は閑散としていた。
私たちは、決勝の相手がわかるまで、運動場で待機していた。
私とクラスメート数人が、誰も居ない室に戻った。
その教室の教壇の上に、一冊の「教務手帳」が置かれてあった。
生徒の成績や、遅刻の回数、休みの回数、職員会議の備忘録になっていた。
私たちは、恐る恐るいたずら心に教務手帳を開いた。
あるページに目がとまった・・・・・
そこには、数日前の日付けが記入されており、同学年の友人たちの名前が書かれていた。
私の名前もその中にあった。
その名前を見て私たちは、直ぐに共通点がわかった。
その生徒の名前は、被差別部落の地区から通学する生徒と、在日韓国人、朝鮮人の生徒
福祉施設から通学する生徒の名前だった。
ひとりひとりのコメントが記入されており、私たちはショックだった。
その名前の生徒たちは、確かに劣悪な環境で生活し、通学している生徒も多かったし、
低学力、問題行動を起こす生徒たちもいた。
しかし、そのコメントは「気を使って見守ってあげよう」「注意して見守ろう」といった風でなく
明らかに、不良分子のような書込だった。
なぜなら、全然目立たない生徒も記入されていたし、その3地区の生徒以外は載っていなかった。
警察の「見込み捜査」のように感じられた。
その時、持ち主の私たちの担任が血相を変えて、教室に入ってきた。
「何を見てるんや」そう怒鳴って教務手帳を取り上げた。
そう言って教室から出ていった。
私はその教師に不信感を持った。
案の定、その教師は1年後、授業中に私を呼びだした3年生に、私を売ることになるのだが・・
 
 
私は教師時代、生活指導や職員会議の記録は殆ど取らなかった。
ただ、日付けや時間は記入したが、内容は他人が見ても分からないように工夫したし、
厳重に保管した。自分自身の体験から保管には気を使った。
また、悪いことは絶対に書かなかった。
それは、良いところを伸ばし、見ることが仕事だと考えていたからだ。

私は通知表の評価を付けたことがあるが、内申書は書いたことがない。
短い教員生活だった為に書く機会がなかったのだった。
私は教師になっている大学の先輩や、同級生に内申書の事を聞いたことがある。
中には「書きようのない」生徒もいるだろう、いったいどう書いているのか?
すると、返答は「良いことしか書かない」だった。
無理をしてでも、良い風に書くのだった。
本当のことを書けば、進学の芽を摘むことになる。
環境が変わり人生の「指針」を見いだすかもしれない、そんな期待をこめて内申書を書くのだという。
しかし、受手の高校の教師もプロであり、出席日数や、受験日の態度なので、内申書の裏を読むのだった。
 
ある生徒がいるとしよう。
教師の見た本音は、「恐喝、窃盗、学校懈怠は日常茶飯事である。おまけに不良グループのリーダーである。」
これが、内申書に変わると・・「活発で、行動力がありリーダーとしての資質も兼ね備えている。」になるのだが、
しかし受験日の茶髪や、服装、面接態度、遅刻や欠席の回数で受手(高校側)は総て見通すのである。

私の知っているかぎりの教師は、内申書に悪いことを書いたことがないと言う。
ほんの小さな希望でも良い、高校に進学し何かを感じ、立ち直ってくれれば・・・と考えるのだ。
それが、教師としての最低限の良心であり、職業意識なのだと・・・・・・・・・・・
 


俺はある高校の体育教師である。
子供の頃は、近所でも有名な悪ガキだった。
父親は俺を連れて、何度もご近所に謝りに出掛けた。
小学校から不登校で、海や山に遊びに行っては学校を、サボルガキ大将だった。
中学の頃、仲間の同級生が、隣町の中学校に喧嘩に出掛けた。
その頃、自分の行動に悩んでいた俺は「行かない」と答えた。
俺が行かなければ、みんなも行かないだろうと思っていたが、他の連中は喧嘩に出掛けた。
大変な騒ぎになり、俺の父親にもその話が伝わった。
父親はてっきり、俺も仲間に入っていると考え「辞表」書いていた。
メンバーに入っていないと聴き、父親はホッとした顔で私にこう言った。
「もし、お前があの中にいたら・・・父さんは、仕事やめるつもりだったよ。」
と悲しそうな顔をした。
俺はその時の顔が忘れられない。
俺は心を入れ替えて勉強しだした。
しかし、錆付いた頭、授業の遅れはどうするもなく、高校受験に失敗した。
当時めずらしく中学浪人をし、翌年進学校といわれる高校に受かった。
進学後、俺は柔道部に籍を置いた。
ある日、ラグビー部の同級生からメンバーが足りないからといって試合に駆り出された。
ラグビーはおもしろく、その魅力に取り憑かれた。
大学もラグビー部に入り、体育の教員免許も取得した。
そして数年間、中学の講師の後、ある私立高校の体育教員として採用された。
それが今、俺が勤務している高校だ。
私立の高校は、小子化の為に経営が苦しく、どこも特色を出そうと必死だ。
進学率、スポーツの宣伝効果・・・・色々とやっている。
ラグビー部も例外ではなく、推薦枠がありテストの点数が足らない生徒も「一芸入試」で
受け入れている。
途中で退学する生徒もたしかに多いが、ある大学の監督の目に留まり、大学進学する生徒もいた。
俺が中学の講師時代の同僚の先生から、学力不足の生徒を「推薦で・・・・」と頼まれる。
まともに受験すれば、進学する高校がないのだ。
俺も一つまちがえば、大学どころか高校さえ危ういかったので、極力生徒と保護者と面談し、
受け入れる姿勢でいた。
その生徒達は、最低限度の常識もない生徒も多く、担任からの苦情や生徒指導の依頼も多く、
大変だったが、仕事のうちと苦にはならない。
 
ある日、知り合いの中学の進路指導の先生から電話があった。
ある生徒がいるという。その生徒は学力不足で進学する高校がないという。
保護者も本人も進学を希望し、やんちゃ坊主を引き受けている俺に、最後の望みを託してきたのだ。
俺は、本人と保護者と進路指導の先生と会うことにした。
ご多分にも漏れず、茶髪でツッパリ生徒だった。
保護者は、卑屈なくらいに俺に何度も頭を下げた。
俺は心のなかで生徒に対し(今の両親の姿を忘れるなよ)と言っていた。
俺は色々と、条件を出した。
髪型、髪の色、服装・・試験日までに直すように・・・・・・
学校に書類を提出し,入学の内諾も貰った。
その生徒の担任とも会い、内諾の旨を伝えた。
担任も「よろしくお願いします」と俺に頭を下げていた。
後は、試験日を待つばかりだった。
当日その生徒は、言われた通りやってきた。
俺は内心ホッとしていた。
試験、面接も終わり最終判定会議になった。
その生徒のところで、ある教師からクレームが付いた。
何度も、「ラグビー部で面倒見ますから・・」と言ったがダメだった。
今までこれくらいの生徒は面倒見てきたのに・・・・なぜ?
理由は簡単だった。
内申書は、その生徒の悪いことしか書いていなかったのだ。
今まで、教師をしてきたが、あんな内容の内申書は初めてだった。
俺はその担任の良心を疑った。
俺が3年間面倒を見ますと言ったのに・・・・・
その生徒と担任の人間関係は知らない。
しかし、最後に生徒の立直る「芽」を摘むことはないだろう。
 
判定会議も担任がここまで書くには余程のことだろう・・と、なりその生徒には不合格通知が出された。