全国大会優勝監督は元常勤講師


私は、高校生の頃、練習がオフのとき、卒業した中学に練習に行った。
もう、その中学は、荒れ放題だった。
顧問の先生も、大学時代に同好会で少し噛った程度で、年間の練習メニューを組み立てる。
といったような事は出来なかったし、生徒の適性ポジションを見極めることなんて、とうてい出来なかった。

私が、高校2年の時に、「めちゃめちゃラグビーのうまい」先生が赴任してきたと聞いた。
名前は、解らなかったが・・・・・・
夏合宿の前にホンの少しのオフがあった。
私は、夏合宿に向けて、体を動かそうと思い中学校に、練習道具を持って行った。
私は、新しく赴任してきたその先生を見てびっくりした。
なんと、関西大学ラグビー界のスター選手Tさんだった。
「なんで、Tさんが、こんな中学にいるの?」
高校時代には、全国大会に優勝し、関西Aリーグでも優勝し、大学選手権でも大活躍した選手だった。
「その先生は、私に近寄り、太陽のような笑顔でXXさんですか?」と尋ねた。
「あっ、ハイ、○○高校ラグビー部のXXです。」と緊張して答えた。
「生徒から、たまにあなたが来て、練習を教えてくれるって聞いていたんです。」
「一度お会いしたいなと思っていたんですよ」
と高校生の私に丁寧に言葉をかけてくれた。
私から見れば、雲の上のラガーマンで、なんで田舎のこんな荒れた中学にTさんがいるのか?
不思議だった。
練習が終わり、Tさんが、「もし良ければ、今度OBを集めて中学生に教えて上げて下さい。」
と私に言ってきた。
私は、承諾し中学の同級生に電話をした。
ラグビーを続けていた者や、やめてしまったが、久しぶりに楕円形のボールを持ってみたい者が
10名程集まった。
練習が終わり、Tさんが「少ないですけど、みんなでお茶でも飲んで」と5千円差し出した。
私たちは、頑なに辞退したが、無理やり5千円を押しつけられた。
私たちは、ちょっと困惑したが頂いた。
今では、このTさんの5千円を、私たちに渡したことが理解できる。
大体、OBが、練習にくると、監督やコーチは、OBを連れ、飲みに行く風潮がラグビー界にある。
地方の大学に散ったOBが、オフになると高校の練習に来て、「今日は、焼肉食いたいなーー」
と聞こえるように呟くのである。

それからも私は、ちょくちょく中学校に練習に行くようになった。
そして、Tさんの事情が少しづつ解ってきた。
Tさんは、大学卒業時、有名企業から就職の勧誘は山ほどあったが、どうしても教師になりたくて、
教員採用試験を受けたが、不合格で講師として採用されていたのだった。
Tさんの先輩や、大学の監督から「社会人ラグビーをしたらいいのに・・・・」と何度も言われたがどうしても、
教師になりたかったのだ。Tさんは、その荒れた中学では太陽のような存在だった。
やんちゃ坊主も、Tさんの事はよく聞いたし、無くてはならない存在になった。
しかし、3年間その中学で講師をし、採用試験を受けたが受からなかった。
その3年の功績は、大変なものがあった。しかし、採用されなかった・・・・・・・・・

講師は、所詮アルバイトである。なんの身分保障もないのだ。
学校を変えるだけの、情熱とパワーとカリスマ性があるのに、たった1枚のペーパーテストが
立ちふさがったのだ。
その後、Tさんは、Tさんの母校から、監督要請の話があった。
待遇は、「事務職員」しかし身分保障はされる。
そして、教員の空きが出れば、教員に切り替えるという約束だった。
年令も26歳になるのに、講師のアルバイトもないだろうと考えても不思議でない。
また、付き合っている彼女や、結婚を考えている人がいる講師は、この年令になると悩むのだ。
教師になりたい!しかし生活が・・・・・・・・
この悩みの狭間の中で、何人の優秀な講師が消えて行ったか・・・・・・・

その後、Tさんは、母校の監督になった。
その高校は、古豪であったが低迷していた。
なんとか、全国大会には、出場するのだが、1回戦,2回戦で消えていった。
ある年、小兵ながらよく走る(フットネスの高い)チームとして全国大会に出場してきた。
「試合巧者」「小兵」「タックルの良いチーム」といった前評判だったが、精々ベスト8止まりの前評判だった。
しかし、その巧みな試合運びと、忠実なタックル、何よりも15人が20人にも思える、そのフットネスは
花園のラグビーファンを唸らせ、決勝戦まで駒を進めた。
相手チームも、九州地方の名門古豪チームだった。
ゲームは、二転三転し、白熱したシーソーゲームだった。
終了間近、Tさんのチームは、トライされ2点差に詰め寄られた。
時間は、ロスタイムに入っており、トライ後のゴールが決まると、同点試合終了だった。
相手のエースが蹴ったボールは、ゴールポストを大きくそれた。
試合終了!!、
Tさんのチームの選手は、喜びを爆発させた、ゴールを蹴った、選手は泣き崩れた。
その試合を、観戦していた松任谷由美が「ノーサイド」を発表したのは、暫くしてからだった。
ゴールを蹴った選手は、その後「体育教師」になったと聞いた。

その後、Tさんは、名選手を育て、幾多の名勝負を花園で、見せてくれた。
全国優勝を2回、準優勝が1回、押しも押されぬ名監督になった。


本当に、もったいない話である。
教育委員会は、一人の優秀な人材をみすみす手放したのである。