嗚呼「落下傘部隊」教師


俺は今、疎外感に包まれている。
新任で、赴任したこの中学は、荒れ放題だった。
教師集団は、無気力で1日を無事に過ごすことだけを考えていた。
俺は自分の役割は十分理解していた。
そのために、採用されたようなものだから・・・・・・・
この年、ラグビーの指導できる体育教師が優先的採用された事は、競技種目別で比べても
ラグビー経験者が群を抜いていた。
マスコミは、校内暴力のすさまじさを、連日シリーズで報道していた。
ラグビーで学校再生、教育委員会の方針だった。

あれから10年、無我夢中でこの学校に勤務してきた。
ラグビー部を作り、大きな大会にも出場出来たし、社会人や、大学の有名選手も育てた。
赴任した頃、年休なんか取れなかった。
取ろうとすると、他の先生が「XX先生休むのですか?」と 不安そうに聞いてきた。
俺が、休むと学校が落ち着かず、いつ生徒が暴走しだすか?気が気でなかったのだ。
俺は、体のいい用心棒代わりだったのである。
俺は、お前たちの「用心棒」ではないぞーーーーー!!!!
っと何回叫びたかったか?。

赴任して、3年ほど経ったある日、校区内で噂が広まった。
不登校の生徒が、俺の面識の無い卒業生に声を掛け、俺を襲撃するという噂だった。
暴走族のメンバーや暴力団の準構成員に声を掛けているらしく、日程まで決まったいた。
在校生にまで、その噂は広がり、管理職はその日俺に休むように言ってきた。
俺は、休めなかった。なぜなら在校生もこの噂を知っている。
もし休めば・・「逃げた」になり、俺自身の教師としての命は終わるからだ。
ある、先輩体育教師が俺に言った言葉がある。
「生徒と喧嘩するときは、100戦100勝100KO勝ちやー1敗でもしたら終わりや」力で、
押してきた教師の宿命だった。
別に殴りたくて殴っているのではなかったが、現場は甘くなかった。
もし、殴られ殴り返さなければ、殴り返さなかった教師にますます生徒の暴力はエスカレート
しただろう。
1度、弱みを見せたらそこで教師としての命は終わりだった。
その日いつも通り、俺は出勤した。
職員室の空気は、すこぶる悪かった。管理職は、空き時間の教師を学校周辺の巡回に当てた。
「XX先生、もしそれらしき者が学校周辺に集まりだしたら、出ていかないでください。」
と念を押した。本音は休んでほしかったのだろう。
管理職は、警察権力導入をまだ迷っていた。
しかし、最悪は通報しただろう。
その日、何事もなく1日が終わった。
しかし、明日かもしれないし、明後日かもしれなかった。緊張した日々がしばらく続いた。
何事もなく、日は過ぎてゆき何事もなかったように通常の学校生活に戻った。

後から聞いた話だが、本当に俺を襲撃する話は出ていたらしかったが、後のことを考え立ち消え
になったらしく、その後そんな噂は出なくなった。

こんな、学校だったので転勤希望者は、数多くいたが勤務希望者は殆どいなかった。
そのために、俺が転勤しなければいけない年数が経っても、俺は転勤しなくてよかった。
後がまの、教師が見つからなかったからだ。
しばらくして、学校が落ち着いてくると転勤希望者が出てくるようになった。
その頃には、もう少しづつ落ち着きを取り戻した、学校になっていたので転勤希望者が
出てくるようになって来たのだった。

荒れていた時代から、一緒にやってきた教師が1人、2人と転勤していった。
落ち着いてから、転勤してきた教師は荒れている学校から、俺の勤務する学校に逃げていたのだ。
(自分達が無気力、力不足で荒れたのに、言う事だけは一人前の教師達だ。)
俺は、この10年、力で押さえてきただけではない。
学校を活性化させるためにあらゆる行事を企画、立案し生徒に自信を持たせるためにやってきた。
この中学校の卒業生でこんな人が先輩にいるんだ。と教えるために
有名な、元プロ野球選手を講演に呼んだり、修学旅行もスキー実習に切り替えたり
初めての試みは、大変な労力を要した。

しかし、逃げ組転勤族は自分たちの仕事がふえる事を嫌い、ことごとく行事はなくなっていった。
『こんなことをしていたらまた荒れだすぞ』と思いながら俺は、転勤を決意した。
勤務年数が過ぎていたが、地域の「XX先生が転勤したらまた学校が荒れる」の声で2年間
延長したがもうそれも限界だった。
俺は、転勤願いを提出し受理された。(しなくても強制転勤だった。)

3月23日辞令がおりた。
次の転勤先は、またも荒れた学校だった。
人は、私のような教師をこう呼ぶ「落下傘部隊」と・・・・・・・・・・・・・