ВЫСТАВКА

 2004年3月16〜18日(実質的には二日間)、神戸と高松、倉敷を訪ねた。ここに書くのはその備忘録である。それがどうして(半ば強引ではあるが)ロシア旅行記の一部に組み込まれることになるのか、読んでいただければ分かるかも?? いや、どうにか分かっていただけるようにする他あるまい(笑)

 四国に行った目的は高松に友人を訪ね、なにかと濃い話しをしたいためである。そこで過ごした時間は本当に有意義なものであった。
 高松の来訪の前に、私は今月の28日まで神戸・三宮で開催されている「第九の怒涛展」に立ち寄った。瀬戸大橋から三宮までは遥かに遠いので移動の面で少し無理をしたが、『第九の波涛』はどうしてももう一度見たかったので、足を運んだのである。(上のВЫСТАВКАとは展覧会の意です)


И・アイヴァゾフスキー『第九の波涛』(1850)

 開館前に行くぐらいで丁度よかった。まだ空いていたので、混雑する前に作品をじっくりと見れたのである。19世紀ロシアの画家たちの作品からは、いい意味でとても刺激を受けたと思う。とにかく圧倒され、相変らず素晴らしかった。(ただ少し残念だったのが、ロシアから借りていることもあって、展示方法を派手に仰々しく演出しすぎたことだ。かつ厳重にしすぎたのだろう、作品に分厚い透明のプラスチック板が被さっていて自分の姿が反射していたことと、大きい『第九の波涛』にはプラスチック板につなぎ目があって、どうしても縦線が二本入っているように見えてしまうことだった。)
 『第九の波涛』の前では妙な光景に出くわしたので、少し書いておきたい。絵の回りには、作品から大体1メートル以内に人が近づき過ぎないように、足許に鉄の枠が設けられていた。その鉄の枠と平行するように、空港などでよく見る行列の管理用の簡単な仕切りが置いてあった。つまり、鉄の枠と行列管理用の仕切りの間に通路ができていたわけで、その通路は混雑時に近くで『第九〜』を見れるよう、順々に並ぶことを促すためのものだろう。
 でもそれが必要になるのは、あくまで混雑時であって、まだ空いているときには、鉄の枠までなら自由に近づいてもよい≠ヘずだ。だが、ここが何というか七不思議の一つで、比較的空いているというのに、作品を見に来ている人々は行列管理用の仕切りが「最前列」だと思い込んでいて、そこであれこれ絵のことをしゃべっているのだ。展示場のスタッフや警備員も何をするわけでもなく、黙ってその光景を見つめているだけだった。
 何故、こんなことを書くかというと、展示場を訪れた人々の中には車椅子を使用していた人もいて、その人とその連れが「最前列」に気を遣い、作品を満足に鑑賞できないでいたからである。会場にいた時の私は、(いやらしいようだが)半分周囲をからかってやるつもりで、堂々と鉄の枠の前に立ち、マストにしがみつく乗組員たちの姿や、波の部分の筆づかいをじっくり見つめた。そのあとで離れた位置から全体を見て、満足して会場を後にしたが、今から思い返してみると、なんだか残念なようなやりきれない場にいたような気がしてならなかった。町なかで行列でないものを行列だと勘違いして並んでしまい、笑い話になる程度のことだったらいいんだけれども、今回のことは、やっぱりおかしいものはおかしいと言わざるを得ない。

 ロシアの絵画の他にも東京富士美術館コレクション「西洋絵画の巨匠たち」展も同時開催していたので、そちらも楽しめた。ドラクロワに『書斎のドン・キホーテ』(1824)という作品があるなんて知らなかったし、クールベの『水平線上のスコール』(1872-73)、ジェームスの『波』(1895)など、関東に住んでいない人間にはなかなか見れない作品があったので、貴重な体験だったといえると思う。また、ジャン・フランソワ=ミレーの『鵞鳥番の少女』(1866-67)や、ブーダンの『ベルクの海岸』(1878)などは、昨年の「ミレー三大名画展」を彷彿とさせてくれて、どこか懐かしい気がした。
 ロシア絵画もよかったのだが、今回、ひょっとするとそれよりも印象深かった作品たちがあった。それは、ドラクロワのエッチングと、ミレーのリトグラフ、そしてターナーの銅版画であった。特にターナーの銅版画(ほとんどが海の自然に翻弄される船と乗組員をテーマにした作品群)は『雨・上記・速度』『吹雪』『ブライトヘルムストーン』『コーンウォールのサント=マイケル山』『カレーへの脱出』など、私にとってはこっちの方も珠玉だと主張したくなるような作品も多かった。『カレーへの脱出』の前で、作品を見ていたある二人連れがカレー(フランス北部の港町Calais)のことを「食べ物のカレー」のことだと真剣に思っていたのには、少したまげた。
 展には2時間近くいれた。外に出ると、素晴らしい作品があったとはいえ、正直、少し脂っこかった感懐を抱いたのを否めなかった。鑑賞者の嗜好の違いなのだが、一定のプロットのない展示というのは、どうも私には少し合わないことを自覚した。私の勝手な見方だが、昨年の「ミレー三大名画展」は、ミレーを中心としたその時代のフランス美術史とその影響についての展示だったので、すぐさまオルセー美術館に行きたくなるほど非常に有意義なものがあった気がしたし、「カンディンスキー展」は画家の変遷や、具象から抽象への移行の過程を漠然とでも感じれるようになっていた。そういったテーマがある展示からすれば、やはり作品の一つひとつの個性が強く感じられる展示方法は、少し濃いように思えたのである。
 しかし、目的の絵画はしっかり待っていてくれたし、これまで知らなかった素晴らしい作品にも出会えた。またこういう機会があればと思う。

(2回シリーズの@)


一期一会につづく】     【もくじ】     【Contact