Москва

モスクワ眺望
雀が丘からクレムリンの方角を眺める。白いスタジアムはレーニン中央スタジアム。
 旅行者が多く宿泊するホテルゆえ、朝の食堂はロシア以外の国から来ている人も多い。バイキング形式だから、食べ物を皿に盛るのにいろんな国の人々からなる列ができる。
 英語をもっと頭に入れておけば、そして自分から話せる勇気があればと、少し後悔した朝食だった。私の前の列にいたアメリカから家族連れで来ていた男性が私に話し掛けてきてくれたのだ。その男性は、お姉さんの家族がポーランドに住んでいて、バケーションを利用し家族全員でポーランドに行く途中の滞在なんだよ、といろいろ教えてくれた。私は幾つか返事をしたが、もっと勇気を出して、できるなら朝食に同席したいと下手な英語でも言えばよかったと後悔している。ロシアの美術・作家が好きだとか、いろいろ言えることがあるのに…。
 私が座った席にはメキシコから来た御夫妻もいた。少ししか話せなかったし、私が知っている言葉といえば、「グラシアス」と『ドン・キホーテ』の最後の語句「バーレ!(さらば!)」ぐらいだったが、いい体験だった。さらに私の隣に親子三人連れのロシア人家族が座った。会話を聞き取るのに必死で、結局話す事はできなかったが、若い娘さんが日本人が珍しいのか、私をじっと見ているのには、なんだか少し照れた。

 この日の午前から昼過ぎにかけてはモスクワのグム百貨店と主な観光地を徒歩とバスで巡った。

たまねぎ形の屋根の上には、ロシア正教の十字架が。入場は100ルーブル。 個人的にはこの塔が一番綺麗だと思う
 ポクロフスキー大聖堂(聖ワシリー大聖堂)はロシア帝国≠フ始まり(成立ではない)と密接に関係がある。16世紀半ば、1552年にイワン四世(雷帝)はカザン・ハン国を征服することを決意する。困難な戦、そしてカザン・ハン国が完全に従属するまでは歳月を要したが、戦の結果モスクワ国家は帝国としての地位を確立した。イワン四世はその戦勝記念としてポクロフスキー大聖堂の建築を命じ、建築が開始されたのは1555年だとされる。
 この大聖堂を設計したのがポスニクとパルマという二人の建築士だといわれる。現在ではその説に異論もあるそうだ。
 有名な、イワン雷帝が二度と ↑ の美しい聖堂を建てられないように、ポスニクとパルマの目をくり抜いた話だが、それを裏付ける証拠はないし、今では誰にも分からない〜♪
 それにしても、←の大聖堂は、修復・補修工事の途中とはいえ、やっぱり美しい。東洋風の印象を受けるが、モチーフや装飾はすべてまぎれもなくロシアの伝統に適ったものだ。

 ↑↓ はクレムリンを囲んでいる8つの塔の一つであるスパスカヤ搭。クレムリンが城塞としての意義を失いはじめた17世紀はじめに時計が取り付けられた。文字盤の直径は6.12mもあり、鐘楼からは15分ごとにきれいな鐘の音が鳴る。ちなみに天辺の星は1.5トンのルビーとか。
 すぐ横は「赤の広場」で、この場所で鐘の音を聞くと、モスクワに来たという実感がわくと思う。

クレムリンの風景
 スパスカヤ搭の後ろに見える黄色い建物はロシア連邦大統領官邸。
 中央下に見える白い円筒上のものはロブノエ・メストと呼ばれる、皇帝が全国に布令を読み上げたり、重罪人を処刑したりした場所。イワン雷帝の最初の妃をだしたロマノフ家の若い後継者であったことから、1613年皇帝の座にすわったミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフの息子アレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフ帝(在位1645〜76)の治世下に起こった反乱、ステンカ・ラージンの反乱の首謀者ラージンの処刑もここで行なわれたという。
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 日本に大和朝廷の頃から後継ぎや嫡子問題による戦や動乱があったように、ロシアにも動乱の時代があった。とりわけすさまじいのが、イワン雷帝の死後の1584年から1613年にかけてである。なんと、1610〜13年にかけては空位期間でさえあったのだ!
 この動乱の時期に関係した人物のうちで有名なのは、ボリス・ゴドゥノーフとかフョードル2世とか偽ドミトリー1世とか、聞いた事があるなぁと思える人物たちである。この頃は後継ぎ問題をめぐって、皇帝の家族や貴族らが対立を繰り返し、混乱に乗じて大衆の中から王族僭称者まで現われ、情勢に応じて貴族が偽者を帝位に就かせたりしている。ちなみに偽ドミトリー1世とは、既に死んでいるはずのイワン4世の遺児ドミトリーを名乗った僭称者である。
 偽者をめぐってはすごい話もある。偽ドミトリー1世は捕まったあと火葬にされ、故人の灰は大砲に詰められてポーランドの方向に発射されたのだが、イワン4世の遺児ドミトリーの実母マリヤと、偽ドミトリー1世の妻マリナは、まもなく現われた偽ドミトリー1世にすら似ていない偽ドミトリー2世の主張を受け入れているのだ! さらに偽ドミトリー1世の妻マリナは、偽ドミトリー2世と一緒に暮らし、息子までもうけているのである。

 話が逸れてしまったようだが、そんな動乱状態にある国を他国がだまって見ているはずがない。1610年の秋には、スウェーデン軍がロシア北西部に、ポーランド軍がモスクワに駐屯した。まさに、モスクワ国家は崩壊寸前の危機にあったのだが、こうした状況の中で再びロシア人を結集して国難に立ち向かわせた人物がいた。ゲルモゲーン総主教である。
 間もなくゲルモゲーン総主教が牢獄からひそかに送った回状に答え、1611年の秋に全国から国民軍が集結し始めた。この第2次国民軍の指導者が、↓ の記念像になっている二人、ニジニ・ノヴゴロドのポサード民、商人クジマ・ミーニンと、ドミトリー・ポジャルスキー公爵なのである。第2次国民軍はスウェーデン軍とポーランド軍を打ち破り、臨時政府を設置した。この後、モスクワは解放され、国民軍の指導者たちはツァーリ選出のための全国会議を召集した。この二人は動乱時代の英雄なのである。

制作したのは、イワン・マルトス(1754〜1835)ローマで芸術を勉強し、新古典主義様式を身につけた。
ミーニンとポジャルスキーの記念像
手前には道路元標がある
 金色の文字には「ロシアより市民ミーニンと公爵ポジャルスキーへ感謝をこめて。1818年」と記されている。
 動乱を乗り切ったことで、専制政治による平和と安定を志向するロシア人の国家意識が生まれたという歴史家もいる。

 赤の広場の入口の一つであるヴァスクレセンスキー門の中央にあるイベルスカヤ礼拝堂。再建されたものだが、祈りを捧げに来る信者も多い。礼拝堂の前にロシアの道路元標があり、よくカペイカ硬貨が置かれている。
 バスはモスクワ市内を一望できる雀が丘に向かった。途中、革命≠ニいう名のチョコレート会社の工場や、船に乗ったピョートル大帝のデッカイ像が目に入った。
 雀が丘からの眺めは、このページの一番上の写真。雀が丘に行く前に、ノヴォジェヴィチー修道院の前の人工湖の前で下車。
 ノヴォジェヴィチー修道院は、現在は女子修道院で、もともとクレムリンの出城だった。ボリス・ゴドゥノーフが皇帝に選ばれた場所でもあり、攻め込んできた敵軍を砲撃した場所でもある。また、ピョートル1世(大帝)が、摂政ソフィヤを幽閉したり、大帝の最初の妻エウドキヤ・フョードロヴナが送り込まれたところでもある。
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タ〜♪ タラララ、ラ〜ララ〜♪『白鳥の湖』のつもり…
 なんでもこの人工湖(池?)からチャイコフスキーが『白鳥の湖』のイメージを得たとか。そういわれれば、そうなのかも…。チャイコフスキー音楽が大好きな人には憧れの場所でもあるようだ。(少ししか写っていないが、左側にノヴォジェヴィチー修道院)

 この人工湖のあたりには記念切手や絵葉書を売りに来るロシア人もいるし、雀が丘ではお土産の露店がたくさん出ていた。


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