Москва

構内の人の流れ 地下鉄駅構内 ← モスクワの朝の地下鉄(メトロ)の様子。駅はプーシキンスカヤ駅。看板の表示は、乗り換えの表示。

 翌朝、6時過ぎに目を覚ました私は、早速朝の散歩に出掛けた。
 昨日見かけたプーシキン広場のプーシキンの記念像と、レフ・トルストイの家の外観だけでも見ておきたいと思った。そして、ロシア製のタバコを売店で買うことが目的といえば、目的だった。

 モスクワの地下鉄は1935年に一号線が開通、スターリンの指導で建設がなされていった。現在10号線まである。地上から地下鉄の駅までのエスカレーターは相変わらず深く長いのだが、これは政府が戦争に備えたシェルターとしていつでも臨時利用できるようにしようとした名残りだそうだ。

 地下鉄の利用の値段は1回券7ルーブル(2003年6月現在)。去年より2ルーブル値上がった。5回券を買うと、30ルーブル。回数が多い券を買うと割引率もよくなる。私は5回券を買った。
 地下鉄は一度改札を通過すると、駅を出るまでは何度でも乗り換えができるし、またどこまで乗っても7ルーブルである。

朝の聖ワシリー聖堂
朝のクレムリンのスパスカヤ搭と、クレムリン傍の聖ワシリー大聖堂(ポクロフスキー大聖堂)
 「クレムリン(Кремль:クリェムリ)」とは城塞を意味する。モスクワが最初に文献に登場するのは1147年だが、戦いから身を守るための城塞はロシアの古い都市ではあちこちにあって、それら城塞の中には1147年よりも古い時代の住居跡も発見されているそうだ。
 モスクワで有名なクレムリンは、1156年ユーリー・ドルゴルーキー公が濠や土塁で囲った要塞都市が始まりとされる(その頃はまだモンゴルの支配が及んだタタールのくびき≠キらおとずれていない)。当時の城塞都市の面積は約1.5haだったそうだ。
 その後も、支配者が変わったり戦のたびに城塞は増築改築されたので、現在のモスクワのクレムリンが昔の形そのままというわけではないのだ。(ちなみに今の城壁のレンガの表面には色が塗られている)。
 今の城壁ではないものの、昔の城壁も残されている。それが右の写真。
プーシキン広場のプーシキン像  地下鉄に乗ってプーシキンスカヤへ。地上に出ると ← プーシキンの像 の後姿があった。

 プーシキンは19世紀前半のアレクサンドル1世やニコライ1世の治世時代に活躍したロシアの天才詩人で、当時の政府は彼の死亡後も彼の名声がもたらすものを警戒していたようだ。詩人が死んだのは1837年で、ニコライ1世は詩人の借金を精算し、遺族が暮らしていけるようにしたが、国家事業としてプーシキンの記念碑を建てることを認めなかった。
 モスクワでプーシキンの銅像の除幕式が行なわれたのは、1880年のプーシキン祭の機会を待たねばならなかった。この詩人の彫像はアレクサンドル・オペクシン(1838−1923)の手によるもので、その除幕にはプーシキン祭に招待されたドストエフスキーやツルゲーネフらも参加した。彫像は最初はプーシキン広場(当時はトヴェールスカヤ広場)の反対側にあった。

プーシキン像2
夕方になると、プーシキン広場や像の前は待ち合わせや夜を楽しむ多くの人で賑わう。
私の後姿が全ロシアに?? テレビリポートの様子  プーシキンスカヤの売店の開店一番にタバコを買い、地下鉄を乗り継いでパールク・クリトゥールィ駅で下車。この駅の近くにトルストイが『復活』を執筆した「トルストイの家博物館」があるのだが、そこまで向かう途中やたら軍人とすれ違った。目上の軍人を見ても敬礼しない人もたくさんいた。
 出勤途中の人に博物館の場所を訊くと、「ベトナムからですか?」などと訊かれてしまった! ロシア人には私がどうしてもベトナム人に映るのか??? 毎度の歩くのに楽な服装がそう見えたのかもしれぬ。
 レフ・トルストイ通りまで来たが、ホテルの朝食の時間の関係で引き返した。のちのちバスで通ったので大した痛手ではなかった。
 再び地下鉄の駅に向かう途中、朝のテレビ中継現場に遭遇した!(←) この日の朝、私の後姿が、ロシアのテレビに流れたかもしれぬ…。ホテルに戻ると8時半だった。

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