極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
仮装巡洋艦「トール」に拿捕された商船のその後
1942年11月30日13時46分、横浜港新港埠頭に停泊中のドイツ海軍高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)で爆発事故が発生し、仮装巡洋艦「トール」(Thor)、貨物船「ロイテン」(Leuthen)と日本の貨物船「第3雲海丸」の3隻が炎上、放棄されました。この事故で失われた仮装巡洋艦「トール」はインド洋でオーストラリア船の「ナンキン」(Nankin)、ノルウェー船の「ペオブルグー」(Perborg)、同じくノルウェー船の「マドロノ」(Madrono)の3隻が相次いで拿捕しており、この3隻は日本に回航された後ドイツ船として運航されました。この3隻はその後どのような運命をたどったのでしょうか?
□貨客船「ナンキン」(Nankin)
□タンカー「ペオブルグー」(Herborg)
□タンカー「マドロノ」(Madrono)
「ナンキン」は1911年にスコットランドの造船所で建造されました。1942年5月10日に仮装巡洋艦「トール」に拿捕されたとき、「ナンキン」は5月5日フリーマントルを出港しコロンボに向かっており、38名の女性と子供を含む162名の乗客と180名の乗組員、そしてイギリス軍向けの肉、コンビーフ、パイナップル等の缶詰、食料が貨物として満載されていました。これらの食糧は遠い異国で戦うドイツ海軍将兵の貴重な食糧となりました。「ナンキン」の乗客と乗組員は封鎖突破船「レーゲンスブルク」(Regensburg)に移乗され、その後一部は封鎖突破船「ドレスデン」(Dresden)に移乗したものもいましたが、7月18日と6月23日に両船は横浜港に到着し、終戦まで日本の捕虜収容所に収容されました。
日本へ回航された「ナンキン」は1942年7月18日に横浜港に入港して新港埠頭に接岸し、搭載した貨物を下すとともに「ロイテン」(Louthen)へと改名され、8月19日に横浜港に来航した封鎖突破船「ドッケルバンク」(Doggerbank)の乗員から運航要員が転属となり、ドイツ船として運航する準備が進められました。しかし、11月30日に発生した封鎖突破船「ウッカーマルク」(Uckermark)の爆発事故に巻き込まれて炎上し放棄されました。またこの爆発事故により「ドッケルバンク」から「ロイテン」の乗員として転属した1名が死亡しました。
「ペオブルグー」は1931年にノルウェーのコペンハーゲンで建造されました。太平洋戦争が勃発すると、メルボルンに在った「ペオブルグー」はバタビアからできるだけ多くの石油をオーストラリアに持ち帰る作戦に参加し、日本軍の攻撃が迫る中を2月14日にバタビア港に入港し、石油を積載して無事オーストラリアに帰還しました。
1942年6月19日に仮装巡洋艦「トール」に拿捕されたとき、「ペオブルグー」は原油11,000トンを積載してアバダンからフリーマントルに向かっていました。拿捕の際には乗員38名は全員救命ボートで脱出しましたが、すぐに「トール」に収容され、機関長と機関員7名は船に戻され、「トール」から移乗した回航要員とともに日本に回航されました。途中バタビアに寄港後1942年10月9日に横浜港に到着した「ペオブルグー」は「ホーエンフリートベルク」(Hohenfrieberg)と改名されドイツ船として運航されることとなり、ノルウェー人船員の数名はそのまま乗船を継続することを選択しました。
「ホーエンフリートベルク」は1942年11月11日に横浜港を出港し、封鎖突破船としてフランスのボルドーを目指しました。インド洋~南大西洋を無事突破し、1943年2月20日には北太平洋上で護衛役のUボート3隻と会合することに成功しました。しかし、Finisterre岬の南西500マイルの地点でアメリカ軍のB24リベレーター爆撃機に発見され、2月26日にはついに英海軍の軽巡洋艦「サセックス」に追いつかれ撃沈されました。
なお「ホーエンフリートベルク」の最後については自沈としている資料もあり、はっきりとしていません。「ホーエンフリートベルク」の護衛をしていたU264は「サセックス」を狙って魚雷を発射し、命中しなかったものの「サセックス」はUボートを警戒して長居をせず退避しました。U264は「サセックス」が去ったあと脱出した「ホーエンフリートベルク」の乗員全員を収容してサン・ナゼール港に帰投しました。
「マドロノ」は1917年にノルウェーで建造されました。1942年6月16日、メルボルンを出港しアバダンへ向かって航海中、7月4日にインド洋上にて仮装巡洋艦「トール」に拿捕されました。拿捕の際には3名の船員が負傷し、7月20日にバタビアに寄港した際にはこの3名は下船しました。8月5日に横浜港に到着しましたが、ここで船員のうち6名が仮装巡洋艦「トール」に移乗しました。
「マドロノ」はドイツ船として「ロスバッハ」(Rossbach)へと改名され、その後ヨーロッパへ持ち帰る大豆油を積載するため大連に回航されました。しかし1回で満載にできなかったため、10月24日には一旦神戸港に戻りました。11月末に元の「マドロノ」の乗組員20名(インド人9名とノルウェー人11名)が日本の収容所から解放されて乗船し、12月には再度大連に回航されて大豆油を満載しました。
1942年11月12日、「ロスバッハ」は神戸港を出港し、1943年1月18日にはバタビアを出港しましたが、2月以降封鎖突破船3隻が南米沖で相次いで撃沈される事態となってヨーロッパ行きは急遽中止となり、1943年4月8日にはバタビアに引き返し、数日後にはシンガポールに入港、その後マニラ港経由で神戸港に帰還しました。「ロスバッハ」はその後ヨーロッパへ向かうことはなく、1944年4月末に神戸港を出港してバリクパパンへ向かいましたが、5月7日に紀伊水道から室戸岬沖を南航中、アメリカ潜水艦「ブルフィッシュ」(Burrfish)の魚雷3本が命中して沈没しました。
2019.2.25 新規作成