極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
高速給油艦「ウッカーマルク」の爆発事故

 1942年11月30日13時46分、横浜港新港埠頭に停泊中の高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)で爆発事故が発生し、「ウッカーマルク」に横付けして補給物資や弾薬の積み込み作業中だった仮装巡洋艦「トール」(Thor)の弾薬に誘爆し、13時48分には大爆発が発生しました。この爆発により同じ埠頭に停泊していた貨物船「ロイテン」(Leuthen)と第3雲海丸も炎上するとともに、埠頭の倉庫も炎上、倒壊しました。この爆発は約1,000m離れた横浜市街でも窓ガラスが破れるなどの被害が出る大規模なもので、爆発によりドイツ兵62名、中国人船員36名、日本人5名の合計103名が死亡しました。

 爆発事故の原因は「ウッカーマルク」で油槽の清掃作業中に揮発性ガスに何らかの火気が引火したものと考えられましたが、火気が何であったかは不明のままです。また戦時中に発生したドイツ艦の爆発事故であり、被害の甚大さに鑑みこの事実は徹底的に秘匿され、新聞ではごく小さく「商船の火災」と報道された他は、港湾関係者にも厳しく緘口令が敷かれました。

 高速給油艦「ウッカーマルク」は1942年9月9日、フランスのボルドーを出港し、封鎖突破船として連合軍の監視の目を潜り抜けて大西洋~インド洋を突破して日本に向いました。途中バリクパパンで陸軍の要請により搭載された6,000トンの軽油は、11月24日に川崎港で陸揚げされ、11月28日には横浜港に回航され新港埠頭の第8号岸壁に接岸しました。空になった油槽では貨物船「ナンキン」(Nankin)の中国人船員41名を使役して清掃が行われており、作業には先端に鉄片を付けた棒が使用され、油槽内には電灯が設置されました。「ウッカーマルク」の艦長は軽油と思っていましたが、積載時の説明の行き違いにより実際にはガソリンが積まれていた可能性が高く、油槽には危険な揮発性ガスが残留しているのに誰も気が付きませんでした。爆発の原因は煙草の火ではないかと思われますが、作業中の中国人船員に煙草が吸えるとは思えず、実は監視役のドイツ人水兵が吸った煙草の火の不始末が原因ではなかったのかと思われます。

 この爆発により「ウッカーマルク」では48名の乗員が死亡しましたが、接弦していた仮装巡洋艦「トール」への補給物資の積み込みのほか、貨物船「ロイテン」からの貨物の搬出や新しい補給物資の積み込み等が同時に行われていたと思われ、これも多数の死者を出す原因となったと思われます。一方仮装巡洋艦「トール」は11月19日から横浜造船所の1号ドックに入渠して修理していましたが、11月30日に修理が完了し補給物資の積み込みのため「ウッカーマルク」に横付けして作業を開始したばかりでした。このため、乗員の大半は上陸休暇中で、船には修理・回航作業と補給作業を監督するための乗組員しかいなかったものと思われますが、それでも13名が死亡しました。また貨物船「ロイテン」では元封鎖突破船「ドッケルバンク」(Dogerbank)の乗員から転属した1名が死亡しましたが、積載していた貨物は荷下ろしされた後であったため、死者が少なかったものと思われます。
 事故による負傷者は横浜市内の病院やホテルに収容されましたが、この事故により一瞬で乗艦を失ったドイツ海軍将兵約500名が発生したわけで、その身の振り方に関係者は大いに悩んだものと思われます。上陸中で事故にあわず、すぐに軍務に復帰できるものの多くは1942年12月に横浜港を出港した封鎖突破船「ドッケルバンク」に便乗して本国を目指したようで、仮装巡洋艦「トール」と高速補給艦「ウッカーマルク」の多くの乗員が便乗したほか、1943年4月に神戸港に来航した仮装巡洋艦「ミヒェル」の交代要員にも元「トール」の約100名が転属しました。事故による負傷者の多くは火傷を負っており、爆風による難聴や失聴のもの、また現代でいうPTSDの兵もいたものと思われます。これらの回復に時間がかかりすぐに軍務への復帰が難しい主に「トール」の乗員を中心に約75名は1943年4月から箱根芦之湯の松坂屋旅館に収容されることとなり、これには仮装巡洋艦「ミヒェル」から休暇で下船した乗員20~30名も加わりました。

 ここでは高速給油艦「ウッカーマルク」と爆発に巻き込まれた仮装巡洋艦「トール」、貨物船「ロイテン」の乗組員のその後と、関係した艦船の運命について簡単に紹介してゆきます。

高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)
仮装巡洋艦「トール」(Thor)
仮装巡洋艦「ミヒェル(Michel)
封鎖突破船「ドッケルバンク」(Doggerbank)
封鎖突破船「オゾルノ」(Osorno)
貨客船「ハーフェルラント」(Havelland)
封鎖突破船「ヴェーザーラント」(Weserland)
封鎖突破船「シャルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)


1.高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)

 高速給油艦「ウッカーマルク」は1937年から1939年に建造されたドイツ海軍の高速給油艦5隻のうちの3番艦で、1938年に「アルトマルク」(Altmark)として建造されました。総排水量10,690トン、最大速力23ノットの高速を誇り、燃料のみならず戦闘航海に必要なあらゆる物資を供給する能力を持ち、同型の高速給油艦として下記の5隻が建造されました。

□「ディットマールシェン」(Dithmarschen)
□「ノルトマルク」(Nordmark)
□「アルトマルク」(Altmark)/「ウッカーマルク」(Uckermark)
□「フランケン」(Franken)
□「エルムラント」(Ermland)

 1939年8月「アルトマルク」は来るべき開戦に備えてポケット戦艦「アドミラル・グラフ・シュペー」の補給艦として大西洋に出撃しましたが、1939年12月17日に「アドミラル・グラフ・シュペー」がモンテビデオ港外で自沈すると、撃沈した商船のイギリス人船員303名を乗せたまま本国を目指しました。中立国ノルウェー領海に入ると1940年2月15日にノルウェー当局による臨検を受け、領海内の航行を許されましたが、イギリス駆逐艦「コサック」(HMS Cossack)は追跡を続けており、2月16日にイェッシングフィヨルドに逃げ込んだものの、駆逐艦「コサック」の臨検を受けました。
 乗り込んできた「コサック」の乗組員との間で銃撃戦となり、「アルトマルク」の乗組員7名が死亡し12名が負傷してイギリス人船員を奪還される事件(アルトマルク号事件)が発生しました。「アルトマルク」は逃走中に岩に乗り上げて船尾を損傷しており、イギリス側は拿捕をあきらめたため「アルトマルク」は本国に帰還することができました。

 1940年8月6日からは「ウッカーマルク」と改名され、1940年9月12日には再び北大西洋に出撃しましたが、この時は機雷により損傷してキール港に帰還しました。その後1941年1月18日~3月23日の間に「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」により展開された「ベルリン作戦」でも「ウッカーマルク」は補給艦として参加しており、1941年3月22日には救助した捕虜船員200名を乗せてラ・ロシェル(La Rochelle)外港のラ・パリス港(La Pallice)に帰還しました。
 1942年8月15日から16日にかけて、高速給油艦「ウッカーマルク」は封鎖突破船「ヴェーザーラント」とともに水雷艇T4とT10に護衛されてボルドー出撃しました。しかし8月17日にオルテガル岬沖でイギリス軍機3機による攻撃を受け、対空砲火により2機を撃墜し、3機目は撃退しましたが一旦スペインのフィニステレ岬沖に退避した後、出撃を中止してボルドーへと引き返しました。
 1942年9月9日、「ウッカーマルク」は水雷艇T10、T13、T14の3隻に護衛されて再度ボルドーを出撃し、ビスケー湾を突破しました。途中仮装巡洋艦「ミヒェル」への補給を行なった後、バリクパパンを経て11月24日に無事横浜港に入港しました。

 「ウッカーマルク」の乗員数は正確にはわかりませんが、英語版Wikipediaには94名-208名との数字があり、運航に必要な要員は94名で、任務により208名まで便乗可能で、長期間の作戦に備えて拿捕船の回航要員や交代要員も乗っていたのでは?と思われます。
 爆発事故による乗員の死者は48名で、乗艦を失った乗員は大部分が1942年12月17日に横浜港を出港した封鎖突破船「ドッケルバンク」(Doggerbank)に便乗して本国を目指したようですが、同時に便乗した仮装巡洋艦「トール」の乗員ともども海の藻屑と消えてしまいました。また、副官のスピリッツ海軍少尉は数名の水夫とともに日本に残り、横浜や鎌倉で残留組のドイツ海軍将兵のための食糧確保に奔走しました。少尉は1943年9月に高速補給艦「オゾルノ」(Osorno)の交代要員としてシンガポールまで航海し、その後さらに潜水艦Uit24(なんと!)の乗員へと転属しており、他にも残留組から他の艦の交代要員となった者は多くいたものと思われます。Uit24は1945年2月に修理のため神戸の三菱神戸造船所に入渠しており、少尉は日本に舞い戻って箱根の松坂屋旅館で以前の乗員たちと再会することになりました。


2.仮装巡洋艦「トール」(Thor)

 仮装巡洋艦「トール」の前身は1938年に建造された総排水量4,740トン、速力16ノットの貨客船「サンタ・クルツ」(Santa Cruz)で、1939年にドイツ海軍に徴用されて1940年に仮装巡洋艦へと改装され「トール」と命名されました。日本への来航は2回目の出撃時で、ギュンター・グンプリッヒ艦長の指揮下、1942年1月14日にジロンド河口の泊地を出撃し、大西洋で5隻を撃沈し、インド洋ではオーストラリア船の「ナンキン」(Nankin)、ノルウェー船の「ペオブルグー」(Perborg)、同じくノルウェー船の「マドロノ」(Madrono)の3隻を拿捕して日本へ回航しました。
 このうち「ナンキン」にはイギリス軍向けの肉、コンビーフ、パイナップル等の缶詰、食料が満載されており、日本に滞在したドイツ海軍将兵の貴重な食糧となりました。また「ナンキン」は「ロイテン」(Leutfen)へと改名され、ドイツ船として運航される計画であったようですが、「ウッカーマルク」の爆発事故で炎上し放棄されました。
 1942年11月、横浜港に入港した「トール」は11月19日から30日まで横浜造船所1号ドックに入渠して修理が行われ、11月30日に修理が完了し補給物資の積み込みのため「ウッカーマルク」に横付けして作業を開始したばかりでした。
 「トール」の乗員は351名で、事故により13名が死亡しました。無事な乗員のうち半数の約170名が1942年12月に横浜港を出港した封鎖突破船「ドッケルバンク」(Dokerbank)に便乗して本国を目指したようですが、同時に便乗した封鎖突破船「ウッカーマルク」の乗員ともども約200名が海の藻屑と消えてしまいました。また、1943年4月に神戸港に来航した仮装巡洋艦「ミヒェル」(Michel)には老獪なルクテシェル艦長に代わりグンプリッヒ艦長が約100名の元「トール」乗員とともに乗船し、最後に「トール」の乗員を中心に回復に時間がかかりすぐに軍務への復帰が難しい約75名は1943年4月から箱根芦之湯の松坂屋旅館に収容されました。また「ミヒェル」の乗員で休暇の必要な約20~30名が箱根の松坂屋旅館で「トール」の一行と合流しました。


3.仮装巡洋艦「ミヒェル」(Michel)

 仮装巡洋艦「ミヒェル」は1939年4月にグディニア-アメリカ航路(GAL)の貨物船「Brielsko」であり、ダンチヒで建造されました。第2次世界大戦の勃発により海軍に徴用され、病院船となり「ボン」(Bonn)と命名されましたが、1941年夏には仮装巡洋艦「Widder」の代艦として再び改装されることとなり、仮装巡洋艦「ミヒェル」(Michel)として9月7日に就役しました。「ミヒェル」は11月末までには出撃準備を完了する予定でしたが、改修と修理に手間取り1942年3月まで出撃はできませんでした。
 艦長には仮装巡洋艦「Widder」から老獪なヘルムート・フォン・ルクテシェル(Helmuth von Ruckteschell)海軍大佐が着任し、英仏海峡を突破してフランスに移動後、1942年3月20日に大西洋に出撃しました。仮装巡洋艦「ミヒェル」は大西洋からインド洋を横断してシンガポールに寄港するまでに15隻合計99,000トンを撃沈し、途中収容した船員を下船させてから日本に向かい、1943年3月2日に神戸港に寄港して、なんと1年間に近い長期の作戦航海となった1回目の出撃を終えました。

 「ミヒェル」の乗員は385名で、約2割にあたる20~30名が日本で休暇をとることとなり、代わりに艦を失って横浜で待機中であった元「トール」(Thor)の乗員約100名が交代要員として乗船しました。さらに「トール」を失ったギュンター・グンプリッヒ艦長が艦長を引継ぎ、ヘルムート・フォン・ルクテシェル艦長は日本で大使館付き武官となりました。
 1943年5月1日、仮装巡洋艦「ミヒェル」は神戸港から2回目の作戦航海に出撃し、一路インド洋に向かい6月14日と16日には連続して2隻を撃沈し、その後は更なる獲物を求めて太平洋へと移動しました。8月29日にはペンサコラ級巡洋艦とみられる艦影を発見したため、一旦北方へ退避しましたが、この巡洋艦はアメリカ海軍の軽巡洋艦「トレントン」(Trenton)であり、この時約15分間に渡ってレーダーで怪しい艦影を探知したのですが、詳しい調査は行われなかったため、「ミヒェル」は危うく難を逃れていたのでした。
 その後に9月10日には「ミヒェル」は3隻目の獲物であるノルウェーのタンカー「India」を撃沈し、その後は一路日本に向かいましたが、10月16日父島沖でアメリカ潜水艦「ターポン」(Tarpon)の雷撃をうけて撃沈されました。救命艇に分乗して漂流していた生存者116名が10月20になって救助され、10月24日早朝には別の救命艇に乗った生存者7名が八丈島に漂着しましたが、軍医のオットー・ブッチンガー博士は夕方には死亡し、他に1名の遺体が漂着しました。
 仮装巡洋艦「ミヒェル」の正確な乗員数は不明ですが、英語版Wikipediaによると385名との記載があり、生存者122名に対して戦死263名となります。また日本側の捜索・救助活動も遅れたようで、以後日独間で気まずい空気が流れることになった模様です。生存者は松坂屋旅館には合流せず、意図的に収容先を変更した可能性も考えられます。


4.封鎖突破船「ドッケルバンク」(Doggerbank)

 封鎖突破船「ドッケルバンク」の前身は1926年4月にイギリスのグラスゴーで建造された貨物船「スペイーバンク」(Speybank)であり、1941年1月31日にインド洋で仮装巡洋艦「アトランティス」(Atlantis)により拿捕された時はインドのコーチン(Cochin)からニューヨークに向かっており、茶、マンガン鉱石、チーク材を積載していました。なかでも貴重なマンガン鉱石を積んでいたことは「スペイーバンク」にとっては幸運であり、「アトランティス」の回航要員が乗船してボルドーに回航されることになりました。あやうく命拾いした「スペイーバンク」は3月21日に「アトランティス」から分離し、5月10日には無事ボルドーに到着しました。
 イギリスで建造された「スペイーバンク」には18隻もの姉妹船があり、これは封鎖突破船として身元を偽装するのには好都合で、その後ドイツ海軍に編入され各種機雷280基を搭載する機雷敷設艦としての設備も追加され、「ドッケルバンク」(Doggerbank)と改名されました。

 1942年1月、封鎖突破船としてフランスの港を出港し、途中3月~4月の間に南アフリカ沖で2回に分けて計155基の機雷敷設の任務もこなしましたが、EMF型磁気機雷の欠陥が見つかり搭載していた55基を投棄するというアクシデントもありました。6月21日には南大西洋で仮装巡洋艦「ミヒェル」及び随伴タンカー「シャルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)と会合し、補給を行うとともに、「ミヒェル」の撃沈した商船の船員128名を移乗させ、その後バタビアを経由して8月19日に無事に横浜港に入港しました。
 横浜では三菱重工業横浜船渠に10月23日~29日、11月9日~14日の2回にわたり入渠修理し、また敷設しなかったTMB型機雷は日本側に譲渡され、ドイツ海軍の新型機雷を入手した海軍は大いに喜び、「仮称三式機雷」としてテストされたようです。
 「ドッケルバンク」の乗員の一部は仮装巡洋艦「トール」が拿捕して日本に回航してきた貨物船「ロイテン」(旧「ナンキン」)の運航要員として転属しており、11月30日の「ウッカーマルク」爆発事故で1名が死亡しています。

 1942年12月10日、封鎖突破船「ドッケルバンク」はフランスへ向けて出港し、その際には艦を失った封鎖突破船「ウッカーマルク」(Uckermark)と仮装巡洋艦「トール」(Thor)の乗員合計約200名も便乗したようです。「ドッケルバンク」は神戸、サイゴン、シンガポールを経由して1943年1月10日にはバタビア(ジャカルタ)に到着し、1月15日にはバタビアを出港してインド洋に乗り出しました。順調に見える「ドッケルバンク」の航海でしたが、予定より早く航海していたことが悲劇の遠因となったようです。1943年3月3日の夜、北大西洋上で哨戒中のU-43はイギリス貨物船らしき船影を捕らえました。予告を受けていた封鎖突破船はまだ数日分離れた海域にいるはずであり、この目標に発射された魚雷の3本が命中し、目標は21時53分に沈没しました。U-43はあたりを捜索しましたが、暗闇のため救命艇などは発見できず、現場を離れました。

 「ドッケルバンク」の乗員は108名で、氏名まで判明しているので間違いなさそうです。「ウッカーマルク」と「トール」の乗員の便乗者は合計約200名と言われますが、内訳を含めて実際の人数ははっきりしません。英語版Wikipediaでは便乗者257名で「捕虜」と記載されています。「ドッケルバンク」は2分で沈没したことから脱出した乗員は少なく、15名が救命艇に乗って漂流しましたが、3月29日にスペインのタンカー「Campoamor」が1隻の救命艇を発見したときには1名の乗員が生き残っているのみでした。この乗員は後に捕虜交換でドイツに帰国できましたが、情報秘匿のため軟禁状態に置かれました。
 一方、やっちまったU-43は引き続き哨戒任務に従事しており、7月30日にアゾレス諸島南西でアメリカ軍機により撃沈され、結局「ドッケルバンク」を撃沈したとは最後まで知らなかったようです。


5.封鎖突破船「オゾルノ」(Osorno)

 「オゾルノ」は1938年12月にハンブルクで建造された貨物船で、1939年1月6日からは南米西岸航路への処女航海を行い、8月からは定期航路へと就航しました。1939年9月、南米で大戦の勃発を知った「オゾルノ」は一旦中立国であるチリのタルカワノ港(Talcahuano)に寄港しましたが、これは予定外の長期寄港となりました。1941年春、「オゾルノ」は同港に寄港していた「Tacoma」と「Portland」の積荷である鉱石、羊毛、豚毛を引き受け、日本へ向かうこととなりました。1941年6月18日、「オゾルノ」は機械故障のため太平洋上で操船不能となりましたが、チリのコキンボ(Coquimbo)から日本へ向かっていたドイツ貨物船「ボゴタ」(Bogota)に曳航してもらい、7月3日に横浜港にたどり着くことができました。
 1941年8月11日から12月2日にかけて、「オゾルノ」は三菱重工横浜船渠で3回にわたり入渠修理を受けて復旧し、ヨーロッパへ帰る準備に取り掛かりました。イギリス海軍の監視に目を逃れるため、船の外観は船員の手により合板、防水シート、塗装を使って目立たないように偽装されました。1941年12月23日、日本が参戦したことにより太平洋でもアメリカ海軍の監視の目が強化された中、横浜港を出港した「オゾルノ」は太平洋を横断して南米のホーン岬を回り、1942年2月19日にボルドー港に無事到着しました。

 「オゾルノ」の2回目の来日は1943年で、3月28日にボルドーを出港すると大西洋~インド洋を突破して無事バタビア(ジャカルタ)に到着し、6月4日には再び横浜港に入港しました。帰路は神戸港でドイツ向けの貨物として生ゴム:3,944t、錫:1,826t、タングステン:180tが搭載され、同時に8月に呉に来航して日本へ譲渡された元U511の乗員47名と1942年11月30日の爆発事故で艦を失った元「ウッカーマルク」の乗員数名もシンガポールまで便乗することとなりました。
 1943年10月27日、「オゾルノ」は横浜港を出港し、途中シンガポールで便乗者を降ろした後、インド洋を横断すると11月15日には喜望峰を回り南大西洋に入りました。「オゾルノ」はお得意(?)の偽装を行い、イギリス貨物船「Prome」に偽装して北上したようです。12月16日~17日にはアメリカ~ジブラルタル航路を、12月19日にはアメリカ~イギリス航路を横切り、12月21日~22日にはアゾレス諸島北方で進路を東に取り、一路ビスケー湾をめざしました。
 12月25日朝、ついにサンダーランド飛行艇に発見されましたが、正午にはボルドーから第8駆逐戦隊と第4水雷戦隊が護衛として出撃して「オゾルノ」を迎えました。12月26日、「オゾルノ」はジロンド河河口に到着しこれで一安心と思われた直後、河口に沈没していた機雷原突破船21号「Noster」の残骸と衝突しました。このため船体は大きく破損して12mの破孔ができ、積載した貴重な貨物を救うためには船体を海岸に乗り上げるしか選択肢はありませんでした。その後一部の貨物を降ろして軽量化した「オゾルノ」はボルドーへと回航され、貴重な貨物はなんとか救われました。イギリス空軍は12月31日、爆撃により「オゾルノ」の完全破壊をもくろみましたが、これは視界不良により成功しませんでした。

 1944年8月25日、満身創痍の「オゾルノ」はボルドーからジロンド川河口に運ばれて閉塞船として沈められ、こうして2回に渡り日本からの帰還し、成功した最後の封鎖突破船となった歴戦艦「オゾルノ」の波乱万丈の航海は終了しました。

6.貨客船「ハーフェルラント」(Havelland)

 「ハーフェルラント」は1921年にハンブルクーアメリカラインの貨物船として建造されました。1939年9月、大戦の勃発により日本に退避しましたが、帰国の機会がないまま日本への滞在は長期化しました。1942年9月、日独伊三国軍事協定により「ハーフェルラント」はドイツ人船員乗組みのまま日本海軍に傭船されることとなりました。
 1942年11月30日、横浜港での封鎖突破船「ウッカーマルク」爆発事故の際には隣の3号岸壁に係留中であったため少なからぬ損傷を受けたものの難を逃れ、横浜船渠で修理が行われました。1943年12月26日22時頃、串本沖を西航中の「ハーフェルラント」は樫野埼灯台東方でアメリカ潜水艦「ガーナード」(USS Gurnard)の放った魚雷4本のうちの1本が命中して損傷したため串本港に緊急避難し、曳航されて神戸港へと退避しました。「ハーフェルラント」はその後は自力航行不能となっていたようで、神戸港で宿泊船として利用されました。
 1945年5月7日、ドイツの降伏に伴い日本側に接収され「竜宮丸」へと改名したとされますが、明確な記録はのこっていないようです。1945年6月22日、触雷のため損傷して座礁し、終戦後の9月には台風によりさらに損傷したため、船腹不足の折でしたが復旧は放棄され1946年1月には解体処分されました。


7.封鎖突破船「ヴェーザーラント」(Weserland)

 「ヴェーザーラント」の前身は1922年に建造されたタンカー「エルムラント」(Ermland)であり、第二次大戦勃発時には高雄港に停泊していました。その後1年近く高雄港に留まったあと、1940年7月28日に高雄港を出港し8月5日には神戸港に到着しました。
  1940年12月29日、「エルムラント」は神戸港を出港し、太平洋日本信託統治領の海域を利用しながら航行して一路ボルドーを目指しました。途中1941年1月5日にはマーシャル諸島のマウグ島(Maug)に到着し、仮装巡洋艦「オリオン」(Orion)、随伴タンカー「オーレ・ヤコブ」(Ole Jacob)と会合し、「オリオン」から拿捕船員183名(ノルウェー人を含む)を移乗させました。1月9日にマウグ島を出発した「エルムラント」はウラジオストク発のロシア貨物船「トビリシ」(Tbilisi)に偽装して太平洋を横断し、ホーン岬から大西洋に入りました。大西洋では「ノルトマルク」(Nordmark)と会合し、拿捕船員148名を移乗させ、その後中部大西洋では装甲艦「アドミラル・シェアー」(Admiral Scheer)と会合し、拿捕船員56名を移乗させ合計387名の捕虜を乗せて、1941年4月4日に無事ボルドーに到着しました。

 「エルムラント」は「ヴェーザーラント」(Weserland)へと改名され、再び日本へ向かう準備が行われました。1942年8月15日から16日にかけて、「ヴェーザーラント」は高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)とともに水雷艇T4とT10に護衛されてボルドーを出発しましたが、8月17日にスペインのオルテガル岬沖でイギリス軍機3機による攻撃を受けました。対空砲火により2機を撃墜し、3機目は撃退しましたが、一旦スペインのフィニステレ岬沖に退避した後、日本行きを中止してボルドーへと引き返しました。
 1942年9月19日、「ヴェーザーラント」は再びボルドーを出発し、スペイン沖でイギリス軍のショートサンダーランド飛行艇に発見されたものの、これを撃墜しさらに搭乗員2名を救助すると、今回はビスケー湾の警戒線突破に成功して大西洋へと乗り出しました。その後大西洋~インド洋を突破して1942年12月1日には前日に「ウッカーマルク」の爆発事故があったばかりの横浜港に入港しました。
 1943年1月5日、横浜港を出港した「ヴェーザーラント」はバタビアへと向かい、ドイツ向け貨物として生ゴム、錫、タングステンを積載すると2月6日バタビアを出港しましたが、輸送は中止となりバタビアへと引き返した後、横浜港へと帰還しました。
 1943年10月26日、「ヴェーザーラント」は再度横浜港を出港すると、今度は順調にインド洋を突破し、大西洋ではイギリス貨物船「グレンバンク」(Glenbank)に偽装しながら大西洋を北上しました。

 1944年1月1日アセンション諸島を発進したVB107の哨戒機は7時40分に北上する不審な貨物船を発見し、アメリカ海軍の駆逐艦「Somors」が情報により直ちに現場海域に急行しました。貨物船はケープタウンからモンテビデオに向かうイギリス船「グレンバンク」と名乗りましたが、B24(ブラボー9)が接近すると対空砲火を開始し、B24は損傷して基地に帰還しなければなりませんでした。9時30分には別のB24(ブラボー12)が再び貨物船を発見して接近しましたが、再び対空砲火で損傷して基地に引き返しました。
 1月2日、4機のB24が前日の貨物船を発見し攻撃を開始しましたが、今回も激しい対空砲火によりこのうちの1機のB24(ブラボー12)が被弾し基地に引き返しました。ブラボー12は昨日ほど幸運ではなく、エンジン3基が停止するなど大きな損傷のため基地の手前でついに墜落し、搭乗員9名は全員戦死しました。
 再三にわたり強力な対空砲火で哨戒機を撃退し、暗闇に紛れて姿をくらますかと思われた「ヴェーザーラント」でしたが、1月3日22時にはアセンション諸島~ブラジルのほぼ中間の海域でアメリカ海軍の駆逐艦「USS Somors」がついに「ヴェーザーラント」を発見しました。「Somors」は23時に砲撃を開始し、翌1月4日の0時30分に撃沈しました。対空戦闘で戦死した5名の乗員を除き、133名(士官17名と水兵116名)は全員救命ボートで脱出し、4時には駆逐艦「Somors」に救助されモンテビデオ港に運ばれました。


8.封鎖突破船「シャルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)

 「シャルロッテ・シュリーマン」の前身は1928年にデンマークで建造されたタンカー「Sirkarl Knudsen」で、1939年にハンブルクの海運会社に売却され、「シャルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)へと改名されました。
 1941年末の時点で出撃中のドイツ海軍の仮装巡洋艦と封鎖突破船がすべて沈没し、Uボートへの洋上補給に支障が出ることが懸念される事態となりました。「シャルロッテ・シュリーマン」は第二次大戦開戦時からスペイン領カナリア諸島のラスパルマスに停泊しており、「コリエンテス」(Corrientes)と共に1941年7月までは港内でUボートへの補給任務に従事していました。このため、「シャルロッテ・シュリーマン」が1942年2月20日付けで南大西洋での洋上補給船に指定され、2月23日にはラスパルマス港を出港しました。
6月4日までUボートへの補給任務に従事した後、仮装巡洋艦「ミヒェル」(Michel)の随伴タンカーとなり、6月21日には封鎖突破船「ドッケルバンク」(Doggerbank)と会合するとともに、「ミヒェル」に収容されていた撃沈商船の船員68名を移乗させました。その後8月27日には仮装巡洋艦「シュティーア」(Stier)にも補給を行い、9月1日にはすべての積載燃料を補給し終わり「ミヒェル」から分離して喜望峰~インド洋を横断してシンガポールへと向かいました。ラスパルマスを出港後8カ月ぶりのシンガポール寄港でしたが、乗組員は休む間もなくガソリンを積載すると日本へと向かい、10月20日に横浜港に到着しました。

 「シャルロッテ・シュリーマン」には自衛用として日本製の75mm砲×1門、ドイツ製の37mm機関砲×1門、20mm機関砲×4門が搭載されるとともに、補充の乗員も乗船して乗組員は合計90名となりました。横浜港停泊中の11月30日には新港埠頭に停泊中の高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)の爆発事故がありましたが、「シャルロッテ・シュリーマン」は離れた埠頭に停泊しており、また消防隊の活躍もあり危うく難を逃れました。
 1943年3月、「シャルロッテ・シュリーマン」はフランスへの回航命令を受け、一旦はシンガポールで椰子油を満載しましたが作戦は中止となり、椰子油を積んだまま神戸港に入港しました。その後再びシンガポールに寄港し、さらにバタビアに回航されて燃料を搭載すると1943年7月までインド洋でのUボートへの補給任務に従事し、バタビア~シンガポール経由で1943年8月には神戸港に入港しました。神戸港には12月まで留まり、その後シンガポールに向かうと12月24日にはシンガポールに到着し、Uボート用の補給物資を搭載してバタビアに向かいました。
 1944年1月、「シャルロッテ・シュリーマン」は再びインド洋での補給任務に出発し、Uボートへの燃料補給、新しい暗号装置の引き渡しを行うため90日間活動しました。しかしこの補給活動は連合軍による無線傍受と方向探知(HF/DF)により探知されており、モーリシャスからの哨戒機とイギリス駆逐艦「リレントリス」(Relentless)が現場海域に急行していました。

 1944年2月11日、「シャルロッテ・シュリーマン」はモーリシャスの東方900マイルの海域でU532と会合しているところをカタリナ飛行艇に発見されました。U532は急速潜航して現場を離れ、無事ペナンに帰還しました。一方「シャルロッテ・シュリーマン」は夜の暗闇を利用して全速で東に向かいましたが、11日~12日の真夜中には追跡してくる軍艦が視界に入り、船長は船の放棄と脱出を決断しました。追跡艦は駆逐艦「リレントリス」と軽巡洋艦「ニューカッスル」(Newcastle)であり、「ニューカッスル」の砲銃撃と「リレントリス」が200mの距離まで接近して放った魚雷が船体中央部に命中し止めの一撃になりましたが、乗組員の脱出時には自沈用の80kg爆薬にも点火されており、船は急速に沈没しました。
  脱出した乗組員のうち40名が「リレントリス」に救助されましたが、真夜中の海上には他に40名~50名が4隻の救命艇で漂流していました。救命艇のうち1隻は2月26日に10名を乗せてマダガスカルの東海岸に漂着し、もう1隻は3月1日に12名を乗せてやはり東海岸に漂着しましたが、残りの約20名が乗っていた2隻の救命艇は行方不明となりました。


2019.5.8 新規作成


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