極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
終戦前後に舞鶴港周辺に在った外国商船

 舞鶴港は舞鶴海軍工廠が置かれるなど日本海側の主要港として機能しており、終戦直前には朝鮮半島や大陸の港への連絡港として生き残った多くの商船が集まっていました。
 日本の沿岸航路を封鎖するB29による機雷の空中投下は1945年3月に関門海峡を皮切りに開始されましたが、若狭湾の敦賀、舞鶴海域でも実施されており、関門海峡とその周辺海域に投下された2,586トンに続く1,605トンの機雷が投下されていました。またアメリカ・イギリス海軍の空母艦載機による空襲も繰り返されており、特に1945年7月30日にはアメリカ第38任務部隊の空母「ワスプ」、「カウペンス」搭載機とイギリス第37任務部隊の空母「ビクトリアス」搭載機による若狭湾の敦賀港、舞鶴港に対する空襲が午前10時30分からと午後2時からの2回にわたり実施され、在泊中の艦船が大きな被害を被りました。

 終戦の時点までに多くの商船が触雷や爆撃により若狭湾の敦賀港、舞鶴港周辺で沈没または大破着底、海岸に擱座していましたが、その中には元外国商船も含まれていました。

帝立丸/ルコント・ド・リール(Leconte de lisle)フランス客船
樽安丸/トルシビウス(Talthybius) イギリス貨客船
ことぶき丸/コンテ・ヴェルデ(Cont Verde)イタリア客船
星丸/フォッシュ(Foch) ノルウェー貨物船
第2氷川丸/天応丸/オプテンノール(Opten Noort)オランダ貨客船(病院船)
暁昭丸/リアエル(Reael)オランダ貨客船【2021.8.22追加】


1.帝立丸/ルコント・ド・リール(Leconte de lisle)9,877トン

 「ルコント・ド・リール」は1926年6月にプロヴァンス造船所で建造されたフランス客船で、1942年4月にフランス領インドシナのサイゴン港で日本に強制徴用され「帝立丸」と呼ばれました。表向きは日本側による強制徴用の形をとりましたが、公式には「徴用実施基準協定」が締結され、傭船料として月額94,809円60銭が支払われるほか徴用解除時の原状復帰が約束されていました。
 その後は軍隊輸送船として各地への部隊輸送に従事し、1945年5月16日から舞鶴港に停泊していました。7月28日18時35分に西舞鶴港を出港して羅津港に向けて航行中、19時07分頃舞鶴湾外の博突岬南西約2kmで触雷、中央機関室左舷側が損傷し浸水が始まりました。船長は沈没を防ぐために博突岬の陸軍桟橋南方海岸に乗り上げて擱座させましたが、この触雷により乗組員4名が死亡しました。1945年8月30日にはイギリス第37任務部隊の空母「ビクトリアス」搭載機が攻撃してさらに損傷させており、この時にはアメリカ第38任務部隊の搭載機によって写真撮影が行われています。

 1946年10月になってからGHQにより「ルコント・ド・リール」の浮揚と現状復帰が命令され、1947年6月から開始された浮揚作業は難航し、完全に再浮揚されたのは1年2カ月後の1948年8月18日でした。船体は舞鶴の飯野産業舞鶴造船所に移動されて修理が行われました。極度の物資不足の中でありながらフランス側の原状復帰要求は容赦のないものであり、装備品の一つ一つにまで厳しい注文が付けられ、復旧不可能なものは同等の代替品が用意されました。
 「ルコント・ド・リール」の修理・原状復帰が完了したのは2年4か月後の1950年12月14日で、12月22日にはサイゴン港でフランス側に返還されました。困難な復旧作業の行われた「ルコント・ド・リール」でしたが、若干の航海に利用された他は係留されないまま1956年に解体されました。


2.樽安丸/トルシビウス(Talthybius)10,254トン

 「トルシビウス」は1910年9月にリバプールで建造されたイギリス貨客船で、1942年2月3日にシンガポールで日本軍機の爆撃により火災が発生し、ドックに移動して2月7日には鎮火しましたが、復旧不能と判断され、2月12には船体は放棄されてしまいました。その後シンガポールを占領した日本軍により接収され、修理・復旧の後「樽安丸」と命名されました。
 1945年6月3日に佐渡島で触雷して損傷し、舞鶴港まで回航されて舞鶴工廠で修理され、7月29日にドックから引き出されて沖合で待機中に7月30日の空襲により被弾し、第2、第3ドックの外側で大破着底しました。その後ドックへの出入りを確保するために大破着底している「コンテ・ヴェルデ」の隣まで移動された模様ですが、少なくとも1946年5月末まではそのまま放置されていました。その後再浮揚され、飯野産業舞鶴造船所で入渠修理の後イギリスに返還されましたが、1949年8月に売却され9月には解体されました。


3.ことぶき丸/コンテ・ヴェルデ(Cont Verde) 18,765トン

 「コンテ・ヴェルデ」は1923年にイタリアのロイド・サバウド社によりイギリス・グラスゴーのベアモードモア造船所に発注され、イタリア初の豪華客船として建造されました。当初はジェノバからブエノスアイレス行きの南米航路に就航しましたが、1932年にイタリアの客船会社統合によりイタリアラインの船となり、トリエステから香港への極東航路に就航し、その年中に当時極東航路を持っていたロイド・トリエスティノへと移籍しました。
 第2次世界大戦勃発時にはヨーロッパからユダヤ人難民を乗せて上海に到着した後であり、そのまま上海に係留されており、日米交換船では日本側に傭船されて使用されました。第2回の交換船に備えて横浜港で待機しましたが、1942年9月5日には待機は解除されて上海港に戻り、そのまま係留しました。
 1943年9月8日、イタリアの単独講和の際に上海港で乗組員により自沈・横転し、イタリア人乗組員は拘束されました。9月21日から横転した船体の復旧作業が開始されましたが作業は難航し、さらに1944年8月8日にはアメリカ軍のB24爆撃機の攻撃を受けて再び横転するなどにより、作業はさらに困難を極めました。1944年12月16日、やっと船体の引き起こしに成功して上海の三菱江南造船所に入渠し、その後の数週間の間に8機のボイラーのうちの4機、2機の発電機と2機のタービンが再整備されてとりあえず自力航行可能な状態にまで復旧しました。
 1945年には「ことぶき丸」と改名されましたが、船体の「Cont Verde」の船名はそのまま残されていました。4月10日、護衛艦艇とともに上海から舞鶴にむけて出発しようとしましたが出港後にいきなり触雷し、緊急修理のため4月11日から再び三菱江南造船所に入渠しました。1945年4月20日、護衛艦艇とともに再び上海を出港し舞鶴に向かいましたが、途中朝鮮半島南西沿岸を航行中に再び触雷し、5月17日に舞鶴到着時には修理が必要な状態でした。7月25日の爆撃により舞鶴湾内で大破着底し、そのまま終戦を迎えました。
 終戦後に復旧の可能性が調査されましたが、機関部は泥に浸かっていて復旧不能と判断され解体されました。1946年5月31日にアメリカ軍により撮影されたカラー動画を見ると「コンテ・ヴェルデ」は上海で自沈・横転したときの泥汚れがそのまま残されているようで、最低限必要な修理のみが行われたことがうかがえます。


4.星丸/フォッシュ(Foch)2,897トン

 「フォッシュ」の前身は1904年にオーストリア・ハンガリー帝国のRoyal Hungarian Sea Navigation Co. Adria, Ltd.(フィウメ)向けとしてグラスゴーで起工された貨物船で、1905年1月25日に「ブタII」(Buda II)と命名されました。1905年3月に完成後はリエカ(Rijeka)を母港として北ヨーロッパ、地中海西部、南アメリカを結ぶ航路に就航しました。
 1914年8月4日、第一次世界大戦が勃発すると「ブタII」は8月18日に当時中立国であったブラジルのサントス港に退避しました。1917年6月、ブラジルは同盟国側の商船46隻を接収しましたが、「ブタII」もその中の一隻として含まれており、10月26日にブラジルは正式にドイツとオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告しました。
 1919年、「ブタII」は戦争賠償としてフランス政府に譲渡され、「Maréchal Foch」と改名され、1922年には大手海運会社のCompagnie Delmas Frères et Vieljeuxに売却されました。1936年には上海の海運会社Heng An Cheng Kee Steamship Co.に売却されて「Ha-Ven」と改名され、1938年にはさらにノルウェーの海運会社Wallem & Coに売却され「フォッシュ」(Foch)と改名されました。

 1941年7月7日から山下汽船に傭船され、青島と横浜間での貨物輸送を行っていましたが、12月8日に日本が参戦すると横浜港停泊中に接収され、帝国船舶の管理下に移され、引き続き山下汽船で委託運航されるとともに以後「星丸」と改名されました。
 1944年11月、「白山丸」(4,354トン)は赤十字の連合軍捕虜向け救援小包を受け取りにソ連領のナホトカへ派遣されて2,025トンの救援小包を受取り、途中羅津で150トンを降ろすと1,875トンの物資を積んで神戸に戻りました。「星丸」はこのうち大陸向けの275トンの救援小包を積んで1945年1月4日に神戸港を出港し、1月12日には無事上海に到着しました。この際には往路には15トンの金の延棒と7億6千万円分の紙幣も積載されており、帰路には石炭、銑鉄、6箱の阿片さらに19箱のウィスキーを積んで青島経由で1月28日に門司港に戻りました。
 その後は6月25日に大連、7月6日に釜山に寄港しましたが、7月25日に舞鶴湾西側の栗田湾で触雷沈没し、戦後引揚げ解体されました。

 「白山丸」が神戸まで運んだ赤十字の捕虜向け救援小包1,875トンのうち、「星丸」が上海に運んだ275トン以外は、800トンは日本国内の捕虜収容所に運ばれ、残り800トンはジャワ島、マレー半島の捕虜収容所向けとして「阿波丸」に積載されました。「阿波丸」は1月30日に神戸港を出港し、3月には最終目的地のスラバヤに到着して救援物資を降ろした帰路の4月1日、台湾沖でアメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」(USS Queenfish)によって撃沈されました。(阿波丸事件)


5.第2氷川丸/天応丸/オプテンノール(Op Ten Noort)6,076トン

 「オプテンノール」は1927年8月にDutch Koninklijke Paketvaart Maatschappij (Royal Packet Steam Navigation Co.)向けにアムステルダムで建造されたオランダ貨客船で、オランダ領東インドのバタビアを母港とし、東南アジアの艇庫航路に就航しました。1941年12月8日、日本の参戦により「オプテンノール」はオランダ王国海軍により病院船として徴用され、1942年1月22日には日本政府に対しても病院船として通告されました。
 1942年2月19日、バタビア海軍工廠での工事が完了した「オプテンノール」は2月21日にはジャワ海に出動しましたが、日本軍機により2回に渡り爆撃を受け、船尾への至近弾により3名が死亡し11名が負傷するとともに修理に1週間を要しました。1942年2月27日夕方、スラバヤ沖海戦が発生し、「オプテンノール」にも生存者救助のため28日に緊急出動が発令されました。しかし出港数時間後の28日夕方には日本海軍の駆逐艦「村雨」に発見されて臨検を受け、その後「天津風」に伴われてバウェアン島(Bawean)沖合に停泊するよう命じられました。
 3月1日、オランダ側乗組員は「救助活動ができないならば指定海域にとどまる意味はない」と判断してオーストラリアのパースに向けて航行を再開しましたが、これは「指示を無視した」と判断されて再び抑留されてパンジャルマシン(Banjarmasin)に回航され、日本側艦艇が収容した連合軍将兵が収容されました。その後マカッサル(Makassar)に回航された「オプテンノール」は負傷兵を中心とした連合軍捕虜の収容施設として利用されましたが、この状況はオランダ政府から強く抗議されることとなり外交問題化しました。

 1942年10月、日本海軍は「オプテンノール」を本土に回航して本格的に病院船として運用することとなり、12月に日本に到着するとオランダ人は医療関係者と高級船員以外は外国人収容所に収容されました。12月20日「オプテンノール」は特設病院船「天応丸」と改名されるとともに本格的な改装工事に着手され、1943年4月までには完成しました。
 1944年2月にはアメリカ軍によるトラック島空襲、7月25日にはパラオ空襲に遭遇しましたが、軽い損傷で切り抜けることができました。1944年9月から「天応丸」は横須賀で再び改装工事に着手し、船首形状の変更や第2煙突の追加など外観を大きく変更して11月1日には「第二氷川丸」と改名されました。この改装工事は「第二氷川丸」が元「オプテンノール」であることを秘匿する意図があったと思われ、改装後は「新造病院船」として連合軍側に通告されました。
 1945年7月下旬から「第二氷川丸」は舞鶴港に係留されたまま終戦を迎えましたが、8月19日に舞鶴港外の沓島近海で自沈処分されました。9月10日、オランダ政府は日本政府に対して「オプテンノール」の消息を照会しましたが、「オプテンノール」は1944年に舞鶴出港後に行方不明との虚偽の回答を行っています。1953年にオランダ政府は再び「オプテンノール」の返還と損害賠償の請求を行い、長い交渉の結果1978年に日本政府が見舞金1億円を自発的に支払う代わりにオランダ政府は船の残骸等についての所有権が日本に帰属し今後は一切の請求を行わないとする協定が締結されて解決しました。


6.暁昭丸/リアエル(Reael)【2021.8.22追加】

 「リアエル」は1931年にアムステルダムで建造された貨客船で、オランダ領東インド航路に就航しました。1942年1月30日にバンカ島のメントク(Muntok)で日本軍機の爆撃により損傷し、座礁沈没しましたが、1943年2月1日に日本側で再浮揚され、「暁昭丸」と改名されました。「暁昭丸」は大阪商船に運航委託され、陸軍及び海軍の輸送船として主に神戸~香港~高雄方面の軍隊輸送、物資輸送に従事しました。
 終戦時には舞鶴で残存しており、1946年2月27日修理のため神戸港に回航され、1947年5月29日に神戸でオランダに返還されました。「リアエル」はインドネシア独立の大混乱下の1948年1月20日の時点ではタンジョンプリオク港に停泊しており、その後1959年1月に香港の会社にスクラップとして売却され、3月20日に最後の航海で香港に到着し解体されました。


2019.5.5 新規作成
2021.8.22 暁昭丸/リアエルを追加


泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/