極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
日の丸を掲げた外国商船(ドイツ船)
No. | 船名(カナ表記) | 総トン数 | 船種 | 略歴 | 日本名 | 運航会社 | 徴用区分 | 遭難状況 |
1 | Augsburg (アウグスブルク) |
6,512 | 貨物船 | 1915年にイギリスで建造された貨客船で「Northwestern Miller」としてリバプールのNorfolk & North American Steam Shipping Co. Ltd.,の北米航路に就航。1927年12月ドイツ・ブレーメンのNorddeutscher Lloyd(NDL)に売却され、「Augsburg」と改名し、引き続き北米航路に就航した。1939年8月24日、ブレーメンから大連に到着し、欧州開戦により待機状態となり1940年2月23日オランダのWm. M?ller & Co.,に売却され、バタビア航路に就航予定でオランダから新しい乗組員も大連に向かったが、5月10日のドイツ軍の侵攻により契約はご破算となり、オランダ人乗組員はオランダ領東インドで拿捕されたドイツ商船の乗組員に流用された。1940年5月12日、日本政府に37万ドルで売却され、「帝龍丸」と改名。 | 帝龍丸 | 大同海運 | 民間 | 1944年7月15日、海南島の三亜から台湾の高雄に向けて0400時に6隻の小船団に参加。7月19日0745時頃、香港の南南東400kmの地点でアメリカ潜水艦「ガードフィッシュ」(USS Guardfish)の魚雷が左舷に命中しボイラー室に浸水、0753時頃船体が前後に折れて沈没。乗客108名、船舶砲兵3名、乗組員38名が死亡。 |
2 | Annette Fritzen (アンネット・フリッツェン) |
2,774 | 貨物船 | 1903年にロンドンで建造されたイギリス貨物船「Margarita」で、1936年にフィンランドのRederi Ab Turretに売却され「ティルダ」(Tilda)と改名。1941年4月4日に上海に寄港、12月21日から日本側に傭船された。1942年6月22日にドイツ側が225万クローナで取得し以後ドイツ船として「Annette Fritzen」と改名し引き続き日本側に傭船され主に大陸航路とドイツ船への補給船として活動。1945年5月9日、ドイツ降伏に伴い日本側に接収され「アンネット・フリッツェン号」と呼ばれた。 | ティルダ号/アンネット・フリッツェン号 | 東亜海運 | 釜山港外で触雷沈没 | |
3 | Bogota (ボゴタ) |
1,230 | 貨客船 | 1938年に建造され南米航路に就役し、1939年9月1日にエクアドルのグアヤキル(Guayaquil)に到着して欧州開戦を迎える。1940年1月11日にはチリのコキンボ(Coquimbo)に移動、翌日姉妹船「キト」も到着。1941年5月18日夜にカナダ海軍の補助巡洋艦「プリンスルパート」(HMCS Prince Rupert)の警戒を出し抜き、「キト」と共に日本に向けて出発。6月15日マーシャル諸島で「エルザ・エスベルガー」から燃料補給を受け同時に日本船に偽装、出発後の6月18日に機関の故障した「オゾルノ」からの緊急連絡を受けて救援に向かい、1,800マイルを曳航して7月3日に横浜に到着。1941年7月28日、ドイツ海軍に徴用され補給船に指定されたが、1942年9月10日からは日本側に傭船され帝国船舶の管理下で特設潜水母艦「帝宝丸」と呼ばれた。1943年秋以降はドイツとイタリアの潜水艦向けの補給船として活動。1945年5月5日、ドイツ降伏に伴いジャカルタで日本側に接収され、ドイツ人乗組員は抑留。 | 帝宝丸 | 川崎汽船 | 1945年9月、シンガポールで航行不能状態で連合軍に接収され、SCAJAP番号「B022」を付与される。1946年3月25日修理のため玉野に回航され、以後復員輸送に従事。1950年7月にドイツの海運会社NDLに返還。1955年5月28日デンマークのOluf Svendsen社に売却され「ASTRID SVEN」と改名。1957年12月ギリシャのHellenic Mediterranean Lines社に売却され「PHRYGIA」と改名。1964年ピレウスのAlcyone SAに売却され「ALCYONE」と改名。1964年5月9日、セネガル沖で機関室が爆発し、火災により5月11日沈没。 | |
4 | Bremenhaven (ブレーメンハーフェン) |
1,615 | 貨物船 | 1920年にブレーメンのBremer Vulkan造船所で建造され、NorddeutscherLloyd(NDL)に就役し、1920年12月9日から南米航路に就航。1922年Dampfschiffs Rhederei Horn AG(Horn Line)に売却。1925年12月、NDLは再び「Bremenhaven」を購入し、1926年5月25日、東アジア航路に再就航。1936年12月8日オーストラリア航路就航のために香港の「Inter Island Shipping Co.」に登録され、1937年には「Island Trader」と改名。1938年4月26日NDLに再登録され再び「Bremenhaven」と改しれて中国沿岸と大連~大阪航路に就航。1939年9月6日大連に到着。1940年8月6日15万5千ドルで日本政府に売却され「興国丸」と改名し、1941年1月16日に「帝雲丸」と再改名。 | 興国丸/帝雲丸 | 川崎汽船 | 陸軍 | 1941年12月31日ルソン島北西部のカリマオ(Currimao)からリンガエン湾のダモーティス(Damortis)に向けて出発し、1942年1月1日0800時にサントトマスの南西2海里に到着。誤って日本軍の敷設した機雷原に侵入して触雷。前部マスト下で大爆発があり3分以内で沈没した。田中船長を含む乗組員7名、第28独立工兵連隊の兵士5名、第5航空団の整備監督者2名、飛行場建築労働者117名及び労働者の日本人監督3名が行方不明。 |
5 | Fulda (フルダ) |
7,744 | 貨客船 | 1924年にブレーメンのA.G. Weserで建造され、NorddeutscherLloyd(NDL)に就役し、12月14日にブレーメンから東アジア航路の処女航海に出発。1935年貨客船から貨物船に改造された。1937年7月上海停泊中に盧溝橋事件に遭遇。1939年8月22日John Meller船長のもとで天津からブレーメンに向け出発したが、9月3日の欧州開戦の報により大連に引き返す。1940年8月13日、日本政府に売却され「帝海丸」と改名。 | 帝海丸 | 三井船舶 | 民間 | 1944年12月30日ルソン島のサンフェルナンドで自動車2両と兵士122名を積載し小船団に参加して高雄に向かう。ルソン島サンチャゴ湾北2.5kmの海上を航行中、1310時第5空軍のB-25、A20及びP40合計26機の爆撃を受け、1番船倉に爆弾が命中、さらに2発が機関室に命中、至近弾が6番船倉右舷側で爆発。1430時退船命令が発令され炎上した船は漂流して海岸に座礁。船員23名と船舶砲兵15名が死亡。 |
6 | Havenstein (ハーフェンシュタイン) |
7,974 | 貨客船 | 1921年にフルンスベルグのFlensburger Schiffbau-Gesellschaft mbH & Co. KG造船所で建造され、Hugo Stinnes Schiffahrt GmbH Lineに就役、1926年にHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Aktien-Gesellschaft (HAPAG) に買収され、南米航路に就航。1939年7月25日大阪を出港し大連に7月25日到着。その後大連で待機し1941年4月26日、ドイツ海軍に徴用され、同時に日本側に傭船され、帝国船舶の管理下で「帝祥丸」と呼ばれた。 | 帝祥丸 | 川崎汽船 | 海軍 | 1944年8月12日高雄で台風により座礁し損傷、9月12日再浮揚し9月27日から高雄で修理を開始。1944年10月10日敵機動部隊接近の報により在泊艦船は緊急出港するも、機関とボイラーが故障していたため8番埠頭係留されたまま戦闘準備。 1944年10月12日1247時、前方甲板と左舷側3番船倉前方に爆弾3発が命中。船尾側の桟橋でも爆弾が爆発し船体は激しく炎上し、1600時までに船は完全に炎上し、8番桟橋で着底。船舶砲兵4名、日本人船員7名、ドイツ人とイタリア人船員20名が死亡。 |
7 | Mosel (モーセル) |
8,428 | 貨客船 | 1927年にブレーメンのAG Wese造船所で建造され、Norddeutscher Lloyd Line(NDL)のオーストラリアとニュージーランドを含む極東航路に就航。1933年8月6日アデン湾で座礁したが損傷はなかった。1939年8月2日大連からブレーメンに向けて出港し、途中8月19日タイのシーチャン島で米の積込みを開始。9月3日開戦の時点で積込み作業は終了せず、そのまま退避することとなる。1941年7月22日日本に向けて出港し、9月22日神戸に到着。12月24日から29日まで横浜の三菱重工業第1ドックに入渠修理。1942年11月2日ドイツ海軍に徴用され、さらに日本側に傭船されて帝国船舶の管理下で「帝瑞丸」と呼ばれた。 | 帝瑞丸 | 大同海運 | 海軍 | 1945年4月18日1535時大豆粕を積載して関門海峡の西側 山口県吉見沖を航行中B29 の投下した機雷に触雷。4番と5番船倉の間で爆発した機雷により機関室とボイラー室に浸水し、加茂島の小さな湾に退避。死傷者はおらず5月7日から積荷を「伊奈浦丸」に積替える作業を開始し5月26日に完了。5月12日にドイツ人船員が下船。戦況は急速に悪化し、救助作業は行われず船は放棄された。 1945年12月、公式調査では救助の可能性は不明とされ、とりあえずSCAJAP番号「T045」は交付されたものの結局放棄された。 |
8 | Quito (キト) |
1,230 | 貨物船 | 1938年にブレーメンのSchiffbau-Gesellschaft "Unterweser" A. G.,で建造されNorddeutscher
Lloydに就役し、6月14日南米への処女航海のためにブレーメンを出発。1939年8月24日エクアドルのグアヤキル(Guayaquil)に到着したが、翌日本国からの警告電を受信し9月3日欧州開戦のため1940年1月までグアヤキルに留まり、1月12日にはチリのコキンボ(Coquimbo)に移動。ここで日本へ向かうよう司令を受け、1941年5月18日カナダ海軍の補助巡洋艦「プリンスルパート」(HMCS
Prince Rupert)の警戒を出し抜き、姉妹船「ボゴタ」と共にコキンボを出発し6月27日に横浜に到着。 1941年7月28日ドイツ海軍に徴用され補給船に指定され、1942年9月10日から日本側に傭船され特設潜水母艦「帝珠丸」として潜水艦への補給船として活動し、1943年以降はドイツ海軍のモンスーン戦隊のためにUボート用の魚雷、補修部品、燃料、潤滑油を輸送。 |
帝珠丸 | 川崎汽船 | 1945年4月27日バリクパパンでUボート用燃料を積載し1900時にバリクパパンを出発しバタビアに向かう。4月29日ジャワ海のボルネオ島パンジェルマン沖でアメリカ潜水艦「ブル-ム」(USS Bream)の雷撃により沈没。4月30日バタビアに到着しないため捜索を開始し、5月1日まで捜索されたがなにも発見されなかった。 | |
9 | R.C. Rickmers (R.C.リクマス) |
5,198 | 貨客船 | 1921年にドイツのNorddeutsche Werft GmbH造船所で建造され、6月8日Rickmers-Linie mbHのイタリア~北米航路に就役。1930年以降は東アジア航路に就航し、1931年にはユンカースK47戦闘機3機、武器弾薬をハンブルクから広州に運ばれたが、上海の税関で没収され、南京政府に引き渡される事件もあった。1938年12月1日、ハンブルグを出発し極東へ。1939年8月30日上海を出発し神戸に9月6日到着し欧州開戦によりそのまま待機となったが、船齢18年の本船は封鎖突破船には不適とされ、日本への売却交渉が行われたが不調となった。1941年12月時点まで待機が続いていたが、ドイツ政府に徴用され、同時に日本側に傭船され「帝福丸」と呼ばれた。 | 帝福丸 | 三井船舶 | 民間 | 1942年12月28日0910時、7,100トンの石炭を積載して室蘭を出発。12月29日0910時、千葉県犬吠埼灯台沖7kmでおそらく12月22日にアメリカ潜水艦「トリガー」(USS Trigger)により敷設された機雷に触雷した。5番船倉に浸水したため、船長は銚子港の北800Mの浜辺に座礁させたが、その後1943年1月4日に激しい風波により放棄された。 |
10 | Rendesburg (レンズブルク) |
6,220 | 貨客船 | 1925年にハングルクのVulcan-Werke Hamburg und Stettin Actiengesellschaftで建造され、Deutsche Australische Dampfschiffs Gesellschaft (DADG)に就役、1926年2月にHamburg-Amerika Linie(HAPAG)との合併により極東及びオーストラリア航路に就航。1939年7月18日ブリスベンからドイツに向けて出港したが、警告電により8月19日スラバヤに退避し海軍の補給艦に指定されて待機した。ドイツ軍のオランダ侵攻により1940年5月9日オランダに拿捕され「Toendjoek」と改名。1942年3月8日バタビアのTandjong Priok港で閉塞船として自沈。1942年8月12日、日本側により再浮揚、修理後「丹後丸」として再就役。 | 丹後丸 | 飯野海運 | 民間 | 1944年2月24日1522時、スラバヤからアンボンに向け第3歩兵連雷の兵士、ジャワ人労働者約3,500名、連合軍捕虜(200~300名)を乗せて出発。2月25日1943時、バリ島シンガラジャ北方で米潜水艦「ラッシャー」(Rasher)の発射した魚雷が4番船倉付近に命中し、1948時に沈没。この時第3歩兵連雷の兵士、とジャワ人労働者、連合軍連合軍捕虜合計5,700名と船員34名が船と共に沈んだ。生存船員11名? |
11 | Saarland (ザールラント) |
6,725 | 貨客船 | 1923年10月にハンブルクのBlohm & Vossで建造され、1924年2月からHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Aktien-Gesellschaft (HAPAG) の東アジア航路に就航。1934年~1937年はハンブルク~南米西海岸航路に就航。1939年8月17日、大連からハンブルクに向けて出港後、警告電により大連に引き返し大連で欧州開戦を迎えた。1940年6月30日日本政府に55万ドルで売却され「帝洋丸」と改名。 | 帝洋丸 | 辰馬汽船 | 民間 | 1943年2月28日ラエへの増援部隊輸送船団(第八十一号作戦)としてラバウルを出発。第18軍司令部、第51師団司令部、歩兵第115連隊、野砲第4連隊ほか第51師団兵士1988名と兵器・弾薬・補給品を満載していた。3月3日0800時、ニューギニア ヤクレチン岬東南東のダンピール海峡で米空軍機と英空軍機の空襲にあい、至近弾11発、直撃弾4発、魚雷2発を受け、1730時頃炎上沈没。輸送中の兵士1882名、船舶砲兵15名、船長と乗組員17名が戦死。 |
12 | Ursula Rickmers (ウルスラ・リクマス) |
5,050 | 貨物船 | 1917年イギリスのウェストハートプールで貨客船「Thistemore」として建造され、1923年に「Wheatmore」と改名。1927年ハンブルクのRickmers-Linie mbH(Riclmers Line)に売却され「Ursla Rickmers」と改名。1938年11月1日ハンブルクを出港し1940年9月から1941年8月の間は大連港に停泊。1941年5月28日ドイツ人乗組員とともにドイツ海軍に徴用され、1941年8月21日日本側に傭船され「帝仙丸」と呼ばれた。 | 帝仙丸 | 三菱汽船 | 民間 | 1944年4月29日、生ゴム、スズその他を積載し9名の日本人乗客が乗船してシンガポールを出発。護衛なしで神戸に向かう途中、5月3日フランス領インドシナ、キノン岬東方沖で米潜水艦「フラッシャー」(USS Flasher)の雷撃を受け、1159時に魚雷1本が船尾に命中、1218時にさらに1本が命中し1221時に沈没。乗組員93名(船長を含む日本人6名、ドイツ人27名、中国人60名)は4隻の救命艇で脱出し5月9日全員インドシナの海岸に到着。 |
13 | Winnetou (ヴィネトウ) |
5,113 | タンカー | 1913年キールのHowardtswerke Shipyardで建造され、Deutsch-Amerika Petroleum Ges.,のタンカー「モヒカン」(Mohican)として就役。1914年8月5日、第1次大戦の開戦じにアゾレス諸島のHortaで拿捕されStandard Oil Co.の「Corning」と改名。1924年Brynymor Steamship Co., Ltd. に移管。1927年Hansa Tank Reederei G.m.b.H. に売却され「Winnetou」と改名。1939年8月、ドイツ海軍に徴用され補給船となる。1939年9月3日、欧州開戦に伴いカナリア諸島Las Palmasで待機。1940年4月9日~8月7日仮装巡洋艦「オリオン」の補給船として行動したが、4年間オーバーホールを受けていないため最大速度7ノット。8月7日サンタクルス沖で最後の補給を行い神戸に向かう。1941年1月10日までに神戸到着。1942年7月25日日本側に傭船されドイツ人船員は下船し「帝坤丸」と呼ばれた。 | 帝坤丸 | 川崎汽船 | 陸軍 | 1944年8月11日2100時、マニラを出発しミリに向かう船団に参加。8月12日0730時にアメリカ潜水艦「パファー」(USS Puffer)が船団を襲撃。0733時にミンドロ島北西端カラビテ岬沖で雷撃により沈没。 |
2021.10.26 新規作成