極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
封鎖突破船/補給艦「ブラケ」(Brake)

 「ブラケ」(Brake)は1937年に建造された総排水量9,925トン、最大速力12ノットのタンカーで、ユルゲン・ヴァン・デン・ベルグ マーガリン販売組合/ユニタスドイツ捕鯨協会(Jurgen Van Den Bergh Margarine Verkaufs Union- Unitas Deutsche Walfang)の捕鯨母船「ユニタス」(Unitas)の南氷洋への捕鯨船団の随伴タンカーとして就航しました。1937年から38年の冬季と1938年から39年の冬季の2回の捕鯨シーズンに捕鯨船団への補給物資、燃料、真水、郵便物を運び、帰りには鯨油と船員たちの出した本国への郵便物を運びました。
 開戦直前の1939年8月19日、「ブラケ」はロッテルダム(Rotterdam)からアルバ(Aruba)を目的地として出港しましたが、この時点でドイツ海軍に徴用されて補給艦として開戦に備えていたと思われ、8月29日にスペインのビーゴ(Vigo)に入港するとそのまま停泊して9月の開戦を迎えました。
 開戦後の「ブラケ」は給油艦としての活動を開始し、1940年7月から8月にかけて密かにビーゴに来航するUボートに対して4,500トンの燃料を供給しました。Uボートは夜間に入港し、数時間で補給作業を終えて夜明け前には出港していました。このような行為はもちろん中立違反でしたが、この時期のスペイン政府は枢軸寄りであり、見て見ぬふりでドイツ側に便宜を図っていました。

 1941年3月2日、「ブラケ」は補給任務を終えてビーゴを出港し、3月8日にはフランスのサン=ナゼール(St.Nazaire)に入港しました。その後は日本への封鎖突破船としての準備をしていたと思われますが、はっきりとはわかりません。1942年9月26日、「ブラケ」はラ・パリス(La Pallice)を出港して極東に向かい、1942年12月23日に無事神戸に到着しました。
 この航海では途中10月初旬には仮装巡洋艦「シュティーア」(Stier)との会合が予定されましたが、「シュティーア」は9月27日にアメリカ貨物船「スティーブン・ホプキンス」(Stephen Hopkins)と相打ちで沈没しました。3カ月の航海中にはその他にも仮装巡洋艦やUボートへの補給も行ったものと思われますが、詳しい資料は見当たりませんでした。

 1943年6月から「ブラケ」は「モンスーン戦隊」の補給艦となり、インド洋での補給任務のため8月26日にペナンを出航しました。1943年9月8日から12日にかけて、モーリシャスの南南東450マイルの海上で「モンスーン戦隊」の第1陣としてインド洋に到着したU-532、U-188、U-183、U-533、U-168の5隻のUボートに補給を実施し、9月26日にペナンに帰還しました。
 5隻のUボートは海域を分担して早速インド洋での哨戒活動を開始しました。

・U-168:ボンベイ沖
・U-183:セイシェルとアフリカ沿岸
・U-188:オマーン湾
・U-532:インドの南および西海岸
・U-533:アデン湾(10月16日にブリストル・ブレニムにより撃沈)

 1944年2月12日、もう一隻の補給艦「カルロッテ・シュリーマン」がモーリシャスの東方900マイルの海上で補給中に撃沈されてしまいました。このため、シンガポールに在った「ブラケ」は緊急出港の作業に入り、その後ペナンに移動して燃料を積載すると、2月26日にはペナンを出港してインド洋の会合予定海域へと向かいました。
 1944年3月11日、「ブラケ」はモーリシャスの南東1,000マイルの海上でヨーロッパに向かう予定のU-168、U-188そしてU-532と会合しました。しかし悪天候のため燃料補給には予想以上の時間がかかり、翌日の朝までにU-188とU-532への補給の一部に成功し、続いてU-168への補給中にイギリス海軍の護衛空母「バトラー」(HMS Battler)のソードフィッシュ機に発見されてしまいました。

 イギリス海軍は例によってエニグマ暗号の解読、無線傍受及び方向探知(HF/DF)により「ブラケ」の出撃を探知しており、「COVERED」作戦として3月初めから下記のような陣容で追跡艦隊を出撃させていました。


巡洋艦「ニューキャッスル」(HMS Newcastle)<旗艦>
巡洋艦「サフォーク」(HMS Suffolk)
駆逐艦「ローバック」(HMS Roeback)
駆逐艦「クアドラント」(HMS Quadrant)
護衛空母「バトラー」(HMS Battler)


 護衛空母「バトラー」のソードフィッシュ機は7日間に渡って連日哨戒飛行を行っていましたが、3月12日についに「ブラケ」と2隻のUボートを発見しました。「バトラー」からはロケット弾を装備したソードフィッシュ機も発進し、ロケット弾攻撃により1隻のUボートに損害を与えたようだと報告されましたが、実際には損害はなかったようです。「ブラケ」はイギリス駆逐艦「ローバック」(HMS Roeback)の砲撃により13時20分に撃沈されました。

 それではこの時補給を受けていた3隻のUボート、U-168、U-188そしてU-532はその後どうしたのでしょうか。
U-188は1944年1月9日にペナンを出港し、2月9日までにインド洋で7隻の商船を撃沈する戦果をあげると、3月11日に「ブラケ」と会合してヨーロッパへ向かうための最後の燃料補給が行われました。悪天候のため補給作業には時間がかかったものの、U-188は必要な補給は完了させており、イギリス軍に発見された時には無事退避に成功しました。「ブラケ」撃沈の様子はU-188のSiegfried Lüdden艦長によって記録されています。

10:56 右舷側に飛行機
11:28 右舷側にさらに2機の飛行機
11:35 左舷前方に飛行艇
12:10 140度方向に(煙突の)煙、2隻の艦影
12:19 煙の方向から砲撃
13:20 「ブラケ」沈没

 「ブラケ」沈没後、U-188は「ブラケ」の乗組員を救助しましたが、23時58分にU-168に乗組員を移乗させると予定通りヨーロッパに向かい、途中4月22日にU-181から補給を受けた後6月19日に無事ボルドーに到着しました。

 U-532は1944年1月4日にヨーロッパに持ち帰る錫、ゴム、タングステン、キニーネ、アヘンなどを積載してペナンを出港しました。1月中に2隻の商船を撃沈する戦果をあげた後、当初の計画では補給艦「カルロッテ・シュリーマン」からの補給を受ける予定でしたが、「カルロッテ・シュリーマン」は2月12日に撃沈されてしまい、補給を受けることがでませんでした。このため2月26日にU-178から燃料補給を受けましたが十分ではなく、そして今回は補給艦「ブラケ」と会合して補給を受けましたが、悪天候で補給が遅れるうちに「ブラケ」が撃沈されてしまい、今回の補給もヨーロッパに向かうには十分ではありませんでした。
 U-532は救助した「ブラケ」の乗組員45名をU-168へと移乗させると、結局ヨーロッパへの帰還をあきらめインド洋での通商破壊戦を継続して商船1隻を撃沈し、Uit-24とU-1026に余剰燃料の補給を行った後、4月19日に無事ペナンに帰還しました。

 U-168は1944年2月7日にペナンを出港し、補給艦「ブラケ」と会合するまでに3隻の商船を撃沈する戦果を挙げていましたが、3月12日に「ブラケ」から補給を受けている最中にイギリス軍に発見されました。「ブラケ」撃沈後は乗組員80名を救助しましたが、補給の完了しなかったU-168は戦闘航海を継続するU-188とU-532の救助した乗組員を引き受けた模様で、合計100名~150名を艦内に収容しました。合計198名とする資料もありますが、元の乗組員を含めての数字かもしれません。
 U-168はイギリス軍の追跡を振切るため、潜航しての退避を余儀なくされましたが、艦内は立錐の余地もなく、酸欠に苦しみながらも3月24日にはバタビア(Batavia)に帰還することに成功しました。


2019.6.18 新規作成
2020.5.9 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/