封鎖突破船一覧【暫定版】
1939年9月にドイツとイギリス・フランス連合軍の間で戦争が始まると海上ではお互いに相手国の商船への攻撃・拿捕により海上輸送路の封鎖が行われました。特にドイツ本国の港は北海の奥深くにあり、イギリス海軍の警戒網を破って本国の港に帰ることは事実上不可能でした。この事情は1940年6月にイタリアが参戦してからも変わらず、極東で運航されていた多くのドイツ、イタリア船籍の客船・貨物船・タンカーがイギリス海軍の拿捕を避けるために日本などの中立国の港に避難してヨーロッパの戦況を注視していました。
1940年7月以降、フランスの降伏により大西洋に面した港湾が利用可能となると、資源に乏しいドイツ・イタリア枢軸同盟国はヨーロッパでは入手困難な天然資源を輸送するため、南米や極東からイギリス海軍の監視の目を盗んで封鎖突破船を送りだしました。封鎖突破船は大型の優秀船を選抜するのが定番でしたが、中には仮装巡洋艦によって拿捕された中立国や連合国側の船がそのまま送り出された例もあり、ヨーロッパ側の受入れ港としては占領下のボルドー港が使用されました。
<1940年~1941年>
1940年7月以降、ボルドー港等のフランス大西洋岸の諸港がドイツ軍に占領されると高性能船を選抜して極東からの戦略物資の輸送が開始されました。この時点で日本は中立国でありドイツやイタリアとの取引も問題ありませんでしたが、イギリス側を不用意に刺激しないよう、また封鎖突破船の出発を悟られないよう、船の回航や貨物積載は日本側の協力のもと秘密裏に行われました。
極東からヨーロッパへの航路はイギリスの主要航路を避けるとともに、中立国である日本の太平洋の信託統治領の島々~南米沿岸の海域を利用できる太平洋~ホーン岬~大西洋のルートが設定されました。ヨーロッパから極東を目指す場合は途中の大西洋~インド洋~太平洋の各海域で活動する仮装巡洋艦やUボートへの補給や拿捕船員の搬送も行われました。
1941年6月からイギリス軍は大西洋で活動するUボートの動きを封じるため、補給船に対する集中攻撃を開始しており、このため仮装巡洋艦「アトランティス」(Atlantis)が11月22日に撃沈されたほか12月末までに3隻の補給船が撃沈され、Uボートへの洋上補給ができない事態にもなりました。このため新たな補給船が出撃して補給後に極東の港を目指して結果的に封鎖突破船として日本にたどり着いた例もありました。
この時期の極東からの封鎖突破船は当然非武装であり、ヨーロッパ発の場合でも自衛用に気休め程度の武装をしている程度で、偽装と知略のみでイギリス軍の警戒網を突破しなければなりませんでした。
No | 船名(原名) | 総トン数 | 建造年 | 種類 | 出発港 | 出航日 | 到着港 | 到着日 | 記事 |
1 | Ermland (エルムラント) |
6,521 | 1922 | 貨客船 | Kobe | 1940/12/29 | Bordeaux | 1941/4/4 | 極東からの第一船だが途中1941年1月5日~9日マーシャル諸島で仮装巡洋艦「オリオン」、随伴タンカー「オーレ・ヤコブ」と、南大西洋で海軍補給艦「ノルドマルク」、中部大西洋で「アドミラル・シェアー」と会合し拿捕船員387名を乗せてボルドーに到着 |
2 | Ole Jacob (オーレ・ヤコブ) |
8,306 | 1939 | タンカー | Kobe | 1940/12/? | Bordeaux | 1941/7/19 | 元ノルウェータンカーで1940年11月10日に仮装巡洋艦「アトランティス」に拿捕され、神戸に回航され1940年12月4日に到着。その後封鎖突破船となり1940年12月神戸発、仮装巡洋艦「オリオン」の随伴タンカーとして太平洋~インド洋で活動し燃料を使いきって1941年6月3日にインド洋で分離し空船でボルドーに向かうもジロンド川河口で英潜水艦「Tuna」の攻撃により損傷して到着 |
3 | Elbe (エルベ) |
9,179 | 1934 | 貨物船 | Dairen | 1941/4/20 | 沈没 | 1941/6/6 | 戦艦「ビスマルク」捜索中の空母「イーグル」のソードフィッシュ機に発見され、アゾレス諸島沖で撃沈 |
4 | Regensburg (レーゲンスブルク) |
7,956 | 1938 | 貨物船 | Dairen | 1941/5/5 | Bordeaux | 1941/6/27 | 元「トラーベ」(Trave)で1938年に「レーゲンスブルク」と改名。大改装により8,068トン、新型機関により速力16.5ノットとなる。1941年2月まで太平洋で仮装巡洋艦「コメット」と「オリオン」の補給船として活動後、封鎖突破船となり天然ゴムと大豆油を積載してボルドーに到着 |
5 | Ramses (ラムセス) |
7,983 | 1926 | 貨客船 | Dairen | 1941/5/12 | 中止 | 1941年6月6日の「エルベ」(Elbe)撃沈に伴い1941年6月27日に中止、7月30日横浜到着、貨物を下して一時的に拿捕船員収容船となる | |
6 | Anneliese Essberger (アンネリーゼ・エッスベルガー) |
1935 | 貨物船 | Dairen | 1941/6/20 | Bordeaux | 1941/9/10 | 途中中部大西洋でUボートへの補給を実施 | |
7 | Odenwald (オーデンヴァルト) |
5,098 | 1923 | 貨物船 | Yokohama | 1941/8/21 | 拿捕 | 1941/11/6 | 1941年11月6日中部大西洋赤道付近で米軽巡洋艦「オマハ」により拿捕。アメリカは参戦前のため公式には海難事故の救助活動となっている |
8 | Benno (ベンノ) |
8,306 | 1939 | タンカー | Bordeaux | 1941/8/30 | 中止 | 1939年建造の元ノルウェータンカー「オーレ・ヤコブ」(Ole Jacob)で、1940年11月10日ベンガル湾で仮装巡洋艦「アトランティス」に拿捕され、1941年7月19日ボルドー到着後「ベンノ」(Benno)と改名。極東への第一船として1941年8月30日ボルードを出発したが途中で中止しボルドーに帰還 | |
9 | Rio Grande (リオ・グランデ) |
6,062 | 1939 | 貨物船 | Bordeaux | 1941/9/21 | Osaka | 1941/12/6 | 「Benno」に続き極東への第二船として出発したが、先発した「ベンノ」(Benno)が中止したため最初に日本に到着した船となった |
10 | Burgenland (ブルゲンラント) |
7,320 | 1928 | 貨物船 | Kobe | 1941/9/21 | Bordeaux | 1941/12/10 | 1939年9月3日欧州開戦の時点で神戸港に退避していた。1941年9月21日に神戸を出発し12月10日に無事ボルドーに到着 |
11 | Klara (クラーラ) |
7,275 | 1930 | 貨客船 | Bordeaux | 1941/9/27 | 沈没 | 1941/10/3 | 元オランダ貨客船「コタピナン」(Kota Pinang)で1940年5月のオランダ侵攻時に港で拿捕。1941年5月18日ライン演習作戦の偵察船として出撃し、6月にフランス西部の港に帰還。1941年6月12日潜水艦補給船として改装を開始し「Klara」と改名され当初はダカールへの配備が計画されたが7月に中止。極東への第三船として出撃したが1941年10月3日フィニステレ岬沖でイギリス軽巡洋艦「ケニア」(HMS Kenya)により撃沈 |
12 | Elsa Essberger (エルザ・エスベルガー) |
6,102 | 1938 | 貨物船 | Sasebo | 1941/10/14 | El Ferrol | 1942/1/12 | 特使として来日していたドイツ空軍の「フリッツ・ロージヒカイト」が便乗して帰国。1942年1月11日スペインのフェロル北東約120㎞の海上で護衛のU373と共に第105飛行隊のモスキート6機の攻撃をうけて損傷し1月12日フェロル港に退避し、1942年11月7日ボルドーに回航。1944年8月5日ジロンド川の閉塞船として自沈 |
13 | Spreewald (シュプレーヴァルト) |
5,083 | 1922 | 貨物船 | Dairen | 1941/10/21 | 沈没 | 1942/1/31 | 大連出発直後の10月24日未明、九州沖で訓練中の空母「飛龍」の臨検を受ける。南太平洋のソシエテ諸島で「クルメルラント」(Kulmerland)と会合し、仮装巡洋艦「コルモラン」(Kormoran)の撃沈した船員86名を移乗。1942年1月31日北大西洋でU333の誤射により沈没 |
14 | Portland (ポートラント) |
7,132 | 1928 | 貨客船 | Bordeaux | 1941/10/22 | Osaka | 1942/1/1 | 途中仮装巡洋艦「コルモラン」に補給 |
15 | Cortellazzo (コルテラッツォ) |
5,292 | 1931 | 貨物船 | Dairen | 1941/11/15 | Bordeaux | 1942/1/28 | イタリア船の極東発第一船として太平洋~ホーン岬経由でで大西洋に入り無事ボルダーに到着 |
16 | Pietro Orseolo (ピエトロ・オルセオロ) |
6,344 | 1939 | 貨物船 | Kobe | 1941/12/2 | Bordeaux | 1942/2/24 | イタリア船の極東発第二船として太平洋~ホーン岬経由で大西洋に入り無事ボルダーに到着 |
17 | Benno (ベンノ) |
8,306 | 1939 | タンカー | Bordeaux | 1941/12/22 | 沈没 | 1941/12/24 | 1941年12月22日ボルドー出発、12月24日スペイン北方のカリーニ(Carini)沖を航行中、英空軍のサンダーランド飛行艇に発見されて反復攻撃を受け、ボーフォート機の雷撃により大破しカリーノ(Caino)の海岸に座礁させて撃沈を回避したが、以後使用不可能のため放棄。乗組員は救命艇で脱出したが機銃掃射によりドイツ人乗組員1名が死亡、救助活動中のスペイン人漁師2名が負傷 |
18 | Osorno (オソルノ) |
6,951 | 1938 | 貨客船 | Yokahama | 1941/12/24 | Bordeaux | 1942/2/19 | 1941年6月18日南米チリから日本回航途中に機関故障のため貨物船「ボゴタ」(Bogota)に曳航され、1941年7月3日横浜に到着しその後入渠修理。1941年12月23日横浜出発後、太平洋~ホーン岬経由で大西洋へ入り無事ボルドーに到着 |
<1942年>
1941年12月の日米開戦に伴い太平洋でも戦いが始まりましたが当初は日本軍が優勢であり、イギリス軍の警戒厳重なインド洋を避けるために引続き太平洋航路も使用されましたが、日本軍がシンガポールやオランダ領東インドの拠点を占領してインド洋まで進出すると、シンガポールを経由してインド洋~喜望峰~大西洋のルートが使用されました。封鎖突破船は途中インド洋、大西洋で活動する仮装巡洋艦やUボートへの補給も行いながらヨーロッパと極東を往来しました。
アメリカの参戦により大西洋の西側での警戒も強化されましたが、連合軍もまだまだ戦力不足であり、1942年は封鎖突破船にとって最盛期となりました。1942年1月31日に「シュプレーヴァルトSpreewald」が北大西洋でU333の誤射により沈没してから1942年11月21日に「アンネライゼ・エスベルガーAnneliese
Essberger」が南大西洋でアメリカ軽巡洋艦「ミルウォーキーUSS Milwaukee」に発見されて自沈するまでの約10カ月の間は1隻の損失もなく輸送に成功していました。
もちろん連合軍も黙って封鎖突破船を見送っているわけもなく、エニグマ暗号の解読、無線傍受と方向探知、機上レーダー搭載哨戒機の増勢と基地の確保などの対策が行われ、Uボートや封鎖突破船にとって大きな脅威となってゆきました。また連合軍による無線傍受と方向探知により、Uボートの無線使用は最小限に制限されており、結果的にドイツ海軍の総合的な情報収集能力の低下にも結び付き、封鎖突破船は徐々に追い詰められてゆき、1942年11月以降は次々と撃沈されてゆきました。
No | 船名(原名) | 総トン数 | 建造年 | 種類 | 出発港 | 出航日 | 到着港 | 到着日 | 記事 |
19 | Doggerbank (ドッケルバンク) |
5,154 | 1926 | 貨物船 | Bordeaux | 194/1/25 | Yokohama | 1942/8/19 | 元英貨物船「スぺイーバンク」で1941年1月31日仮装巡洋艦「アトランティス」に拿捕されボルドーに回航され5月10日到着。極東行きの途中南アフリカ沿岸で機雷設置、その後南大西洋で仮装巡洋艦「ミヒェル」、随伴タンカー「シャルロッテ・シュリーマン」と会合し、インド洋~バタビア経由で横浜到着 |
20 | Rio Grande (リオ・グランデ) |
6,062 | 1939 | 貨物船 | Kobe | 1942/1/31 | Bordeaux | 1942/4/16 | 2回目の航海成功 |
21 | Fusijama (フジヤマ) |
6,244 | 1929 | 貨物船 | Kobe | 1942/2/7 | Bordeaux | 1942/4/26 | イタリア船の極東発第三船として太平洋~ホーン岬経由で大西洋に入り無事ボルダーに到着。1942年11月11日ナントへ移動し1943年7月18日からドイツ軍の管理下となりジロンドに戻り入渠修理。1943年9月13日ドイツ軍に接収され日本へ向かう準備がされたが1944年8月12日ジロンド川で閉塞船として自沈 |
22 | Munsterland (ミュンスターラント) |
6,408 | 1922 | 貨物船 | Yokohama | 1942/2/18 | Bordeaux | 1942/5/17 | ボルドー到着直前の1942年5月15日フェロル西北西で英爆撃機の攻撃により損傷。その後バルト海への回航を目指したが1944年1月20日英沿岸砲兵によりカレー西方のブラン・ネ岬で沈没 |
23 | Charlotte Schliemann (カルロッテ・シュリーマン) |
7,747 | 1928 | タンカー | Las Palmas | 1942/2/23 | Yokohama | 1942/10/20 | デンマークで建造された元ノルウェータンカー「Sir Karl Knudsen」で1939年にハンブルクの会社が買収し「カルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)と改名。南大西洋で補給任務後、仮装巡洋艦「ミヒェル」の補給艦となり、すべての燃料を補給後インド洋経由シンガポール着、ガソリンを横浜まで輸送。モンスーン戦隊の補給艦となり、1944年2月12日インド洋で英軽巡洋艦「ニューカッスル」(HMS Newcastle)と駆逐艦「リレントリス」(HMS Relentless)により撃沈 |
24 | Portland (ポートラント) |
7,132 | 1928 | 貨客船 | Yokohama | 1942/2/26 | Bordeaux | 1942/5/10 | ボルドー停泊中の1942年12月12日「フランクトン作戦」の英特殊部隊の攻撃を受け損傷したが、修理後封鎖突破船として1943年3月28日に再出撃 |
25 | Tannenfels (タンネンフェルス) |
7,840 | 1938 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/3/2 | Yokohama | 1942/5/12 | 途中仮装巡洋艦「ミヒェル」に補給 |
26 | Dresden (ドレスデン) |
5,567 | 1937 | 貨客船 | Bordeaux | 1942/4/15 | Yokohama | 1942/6/23 | 途中封鎖突破船「ドッケルバンク」に補給 |
27 | Regensburg (レーゲンスブルク) |
7,956 | 1928 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/5/2 | Yokohama | 1942/7/7 | 途中仮装巡洋艦「トール」に補給 |
28 | Tannenfels (タンネンフェルス) |
7,840 | 1938 | 貨物船 | Yokohama | 1942/8/8 | Bordeaux | 1942/11/2 | 1942年9月27日仮装巡洋艦「スティア」(Stier)に補給中、アメリカ貨物船「スティーブン・ホプキンス」(Stephen Hopkins)と戦闘となり、アメリカ船は沈没したが、「スティア」も操船不能となり乗員は「タンネンフェルス」に移乗後に放棄され自沈処分 |
29 | Weserland (ヴェーザーラント) |
6,528 | 1922 | 貨客船 | Bordeaux | 1942/8/15 | 中止 | 元「エルムラント」(Ermland)で「ヴェーザーラント」(Weserland)と改名。「ウッカーマルク」(Uckermarck)とともに出発したが、8月17日オルテガル岬沖で英軍機の空襲にあいスペインのフィステーラに退避後、出撃は中止され8月20日にボルドーに引き返す | |
30 | Uckermarck (ウッカーマルク) |
7,021 | 1937 | 補給艦 | Bordeaux | 1942/8/15 | 中止 | 「ヴェーザーラント」(Weserland)とともに出発したが8月17日オルテガル岬沖で英軍機の空襲にあいスペインのフィステーラに退避後、出撃は中止され8月20日にボルドーに引き返す | |
31 | Dresden (ドレスデン) |
5,567 | 1937 | 貨客船 | Yokohama | 1942/8/20 | Bordeaux | 1942/11/3 | ボルドー停泊中の1942年12月12日「フランクトン作戦」の英特殊部隊の攻撃を受け損傷、修理後も航海に出ることなく1944年8月25日ジロンド川の閉塞船として自沈 |
32 | Kulmerland (クルメルラント) |
7,363 | 1929 | 貨客船 | Dairen | 1942/8/26 | Bordeaux | 1942/11/7 | 無傷でボルドーに到着した最後のドイツ船。ボルドー停泊中の1942年12月12「フランクトン作戦」の英特殊部隊の攻撃を受けるも難を逃れた。1943年にナントに移動したが9月23日の空襲で大損害を被り1944年8月に閉塞船として自沈 |
33 | Uckermarck (ウッカーマルク) |
7,021 | 1937 | 補給艦 | Bordeaux | 1942/9/9 | Yokohama | 1942/11/24 | 大西洋で補給任務に従事後、シンガポールから日本にガソリンを輸送。1942年11月30日横浜で爆発事故により沈没 |
34 | Regensburg (レーゲンスブルク) |
7,956 | 1928 | 貨物船 | Kobe | 1942/9/14 | 中止 | 1942年10月11日インド洋で米潜水艦「シーレーベン」(USS Searaven)の雷撃により損傷しバタビアに退避。貨物は「ラコテキス」に引き継がれた。その後シンガポールで修理 | |
35 | Weserland (ヴェーザーラント) |
6,528 | 1922 | 貨客船 | Bordeaux | 1942/9/19 | Yokohama | 1942/12/1 | 海軍補給艦「Uckermark」に続いてボルドーから再出撃し横浜に無事到着 |
36 | Brake (ブラケ) |
9,925 | 1937 | タンカー | La Pallice | 1942/9/26 | Kobe | 1942/12/23 | 航海中にはUボート等への補給も行ったと思われるが詳細不明。神戸到着後1943年6月からモンスーン戦隊の補給艦となりインド洋に出撃。1944年3月12日インド洋上でUボートへの補給中にイギリス海軍の巡洋艦「ニューキャッスル」を旗艦とする艦隊に発見され、駆逐艦「ローバック」(HMS Roeback)の砲撃により撃沈 |
37 | Rhakotis (ラコティス) |
6,573 | 1928 | 貨客船 | Yokohama | 1942/9/27 | 沈没 | 1943/1/1 | 「レーゲンスブルク」の貨物を引継ぎ1942年11月5日バタビア発、1943年1月1日フィニステレ岬の北西200マイルで英軽巡洋艦「シラ」(HMS SCYLLA)により撃沈 |
38 | Rio Grande (リオ・グランデ) |
6,062 | 1939 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/9/28 | Kobe | 1942/12/31 | 3回目の航海に成功し無事神戸到着 |
39 | Pietro Orseolo (ピエトロ・オルセオロ) |
6,344 | 1939 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/10/1 | Kobe | 1942/12/2 | イタリア船の極東行き第一船として2回目の航海に成功し無事神戸到着 |
40 | Burgenland (ブルゲンラント) |
7,320 | 1928 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/10/9 | Kobe | 2013/1/12 | |
41 | Irene (イレーネ) |
4,793 | 1938 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/10/11 | Kobe | 1942/12/20 | 元ノルウェー貨物船「Silvaplana」で1941年9月10日仮装巡洋艦「アトランティス」に拿捕さボルドーに回航後「イレーネ」(Irene)と改名 |
42 | Ramses (ラムセス) |
7,983 | 1926 | 貨客船 | Kobe | 1942/10/23 | 沈没 | 1942/11/28 | 1942年10月10日横浜出発、10月23日神戸経由、11月22日バタビア出発、11月28日インド洋で豪軽巡洋艦「アデレード」(HMAS Adelaide)により撃沈 |
43 | Anneliese Essberger (アンネリーゼ・エスベルガー) |
1935 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/11/5 | 自沈 | 1942/11/21 | 1942年11月21日南大西洋で米軽巡洋艦「ミルウォーキー」(USS Milwaukee)、軽巡洋艦「シンシナティ」(USS Cincinnati)、駆逐艦「サマーズ」(USS Somers)の23.2タスクグループに発見され自沈 | |
44 | Karin (カリン) |
7,322 | 1931 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/11/6 | Singapore | 1943/1/? | 元オランダ貨物船「コタ・ノパン」(Kota Nopan)で、1941年8月17日南太平洋ガラパゴス沖で仮装巡洋艦「コメート」に拿捕されボルドーに回航後「カリン」(Karin)と改名。1942年12月22日バタビア着、1943年1月にシンガポール回航 |
45 | Spichern (スパイシャン) |
5,083 | 1935 | タンカー | Saint-Nazaire | 1942/11/8 | 中止 | 中止し1943年1月13日ボルドーに帰還 | |
46 | Hohenfriedberg (ホーエンフリートベルク) |
7,892 | 1931 | タンカー | Yokohama | 1942/11/11 | 沈没 | 1943/2/26 | 1942年11月22日バタビア出発、1943年2月26日ビスケー湾フィニステレ岬沖で英軽巡洋艦「サセックス」(HMS SUSSEX)により撃沈 |
47 | Rossbach (ロスバッハ) |
5,894 | 1917 | タンカー | Kobe | 1942/11/12 | 中止 | 元ノルウェータンカー「マドロノ」(Madrono)でインド洋で仮装巡洋艦「ト-ル」に拿捕され横浜に回航後「ロスバッハ」(Rossbach)と改名。1943年1月18日にバタビア出発後にブラジル沖で中止され1943年4月8日バタビアに引き返す。1944年5月7日バリクパパンに向けて紀伊水道通過後、室戸岬沖で米潜水艦「バーフィッシュ」(USS Burrfish)の雷撃により沈没 | |
48 | Cortellazzo (コルテラッツォ) |
5,292 | 1931 | 貨物船 | Bordeaux | 1942/11/29 | 沈没 | 1942/11/30 | イタリア船の極東行き第二船としてボルドーを出発したが、ビスケー湾で哨戒機に発見され、船団護衛中の英駆逐艦「リダウト」(HMS Redoubt)が分離して追跡。1942年11月30日ビスケー湾で「リダウト」の魚雷により撃沈 |
49 | Germania (ゲルマニア) |
貨物船 | Bordeaux | 1942/12/12 | 沈没 | 1942/12/15 | 1942年12月15日ビスケー湾フィニステレ岬沖でアルジェからイギリスへ向かうMKF 4船団護衛中の英スループ「エグレット」(HMS Egret) と駆逐艦「タナトサイド」 (HMS Tanatside )に発見され自沈 | ||
50 | Doggerbank (ドッケルバンク) |
5,154 | 1926 | 貨物船 | Kobe | 1942/12/17 | 沈没 | 1943/3/3 | 1943年3月3日南大西洋でU43の誤射により撃沈 |
<1943年~1944年>
1942年11月に「トーチ作戦」により連合軍が北アフリカに上陸し、1943年からはポルトガル領アゾレス諸島に連合軍基地がおかれ、哨戒機が捜索活動を開始しました。さらにウルトラ情報の解読速度も速くなり、1942年12月末には約12時間で解読可能となっていました。
1943年になると封鎖突破船の成功率は極端に低下し、日本からボルドーに向かった12隻のうち到着できたのは「ピエトロ・オルセオーロ」と「オソルノ」の2隻のみ、逆にボルドーから日本にに向かった6隻のうち到着できたのも「オソルノ」と「アルスターウーファー」の2隻のみでした。そして1943年12月26日に極東からジロンド川河口に到着した「オソルノ」を最後に以後の封鎖突破船はすべて撃沈されており、日本からの出発は1943年10月29日に横浜港を出港した「ブルゲンラント」が、ヨーロッパからの出発は1943年12月17日にボルドーを出港した「アルノー」が最後となり、1944年1月には正式に中止命令が発令され、以後の日欧連絡手段は潜水艦のみとなりました。
No | 船名(原名) | 出発港 | 総トン数 | 建造年 | 種類 | 出航日 | 到着港 | 到着日 | 記事 |
51 | Weserland (ヴェーザーラント) |
Yokohama | 6,528 | 1922 | 貨物船 | 1943/1/5 | 中止 | 1943年2月6日バタビア出発後に中止し3月26日バタビアに引き返し、その後横浜に帰還 | |
52 | Pietro Orseolo (ピエトロ・オルセオーロ) |
Kobe | 6,344 | 1939 | 貨物船 | 1943/1/25 | Bordeaux | 1943/4/2 | イタリア船の極東発第四船として3回目の航海に成功。1943年2月16日バタビア出発、4月1日未明ビスケー湾で米潜水艦「シャード」(USS Shad)の雷撃により損傷するもボルドーに到着し船長はイタリアの戦功章銀章のほかドイツの第1級鉄十字章を受章 |
53 | Rio Grande (リオ・グランデ) |
Yokohama | 6,062 | 1939 | 貨物船 | 1943/1/28 | 中止 | 1943年2月25日バタビア出発後に中止し3月5日バタビアに引き返し、その後横浜に帰還 | |
54 | Irene (イレーネ) |
Singapore | 4,793 | 1938 | 貨物船 | 1943/2/4 | 沈没 | 1943/4/10 | 1943年2月18日バタビア出発、4月10日ビスケー湾フィニステレ岬沖で英機雷敷設巡洋艦「アドベンチャー」(HMS Adventure)により撃沈 |
55 | Karin (カリン) |
Singapore | 7,322 | 1931 | 貨物船 | 1943/2/4 | 沈没 | 1943/3/10 | 1943年3月10日南大西洋ナタール~フリータウン間で米軽巡洋艦「サバンナ」(USS Savannah)により撃沈 |
56 | Regensburg (レーゲンスブルク) |
Batavia | 7,956 | 1928 | 貨物船 | 1943/2/6 | 沈没 | 1943/3/30 | 1943年3月23日U302からメトックス受信機、エニグマ暗号機の4月分の解読コードを受領し、連合軍の裏をかいてデンマーク海峡に向かうが、3月30日北大西洋デンマーク海峡で英軽巡洋艦「グラスゴー」(HMS Glasgow)により撃沈 |
57 | Burgenland (ブルゲンラント) |
Kobe | 7,320 | 1928 | 貨物船 | 1943/2/7 | 中止 | バタビア到着後に中止し1943年4月2日神戸に帰還 | |
58 | Portland (ポートラント) |
Bordeaux | 7,132 | 1928 | 貨客船 | 1943/3/28 | 沈没 | 1943/4/13 | 1943年4月13日中部大西洋フリータウン沖で仏海軍「ジョルジュ・レイグ」(FFS Georges Leygues)により撃沈 |
59 | Osorno (オソルノ) |
Bordeaux | 6,951 | 1938 | 貨客船 | 1943/3/28 | Yokohama | 1943/6/4 | 2回目の航海成功 |
60 | Himalaya (ヒマラヤ) |
Girondo | 6,240 | 1929 | 貨物船 | 1943/3/28 | 中止 | イタリア船の極東行き第三船として護衛とともに出発するも英空軍機の空襲により中止し1943年3月30日ボルドーに帰還 | |
61 | Alsterufer (アルスターウーファー) |
Saint-Nazaire | 2,729 | 1939 | 貨物船 | 1943/3/29 | Yokohama | 1943/6/19 | 最小の封鎖突破船で極東行きの最後の成功船。1943年3月30日ボルドー出発、5月13日バタビア到着、6月9日神戸到着 |
62 | Himalaya (ヒマラヤ) |
Bordeaux | 6,240 | 1929 | 貨物船 | 1943/4/9 | 中止 | イタリア船の極東行き第四船として護衛とともに出発するも英空軍の空襲により中止しボルドーに戻る。同じ夜に極東帰りの「イレーネ」(Irene)が沈没。1944年8月12日ジロンド川の閉塞船として自沈 | |
63 | Osorno (オソルノ) |
Kobe | 6,951 | 1938 | 貨客船 | 1943/10/2 | Gironde | 1943/12/26 | 3回目の航海で1943年10月27日バタビア出発、12月25日ジロンド川河口で機雷原突破船21号「Noster」の残骸と衝突して大破するもその後ボルドーに回航。極東発の最後の成功船でパウル・ヘルマン船長は海軍に徴用された船員で唯一の騎士鉄十字章受賞者。1944年8月25日ジロンド川の閉塞船として自沈 |
64 | Alsterufer (アルスターウーファー) |
Kobe | 2,729 | 1939 | 貨物船 | 1943/10/4 | 沈没 | 1943/12/27 | 1943年11月10日バタビア出発、12月27日北大西洋のアゾレス諸島北東で第201飛行隊のサンダーランド飛行艇により発見されて攻撃されたが命中しなかった。続いて第311(チェコスロバキア)飛行隊のリベレーターの攻撃により炎上・沈没。生存者74名は4隻の救命艇で脱出し、翌日カナダ海軍のコルベットが52名を救助し他の船も20名を救助 |
65 | Rio Grande (リオ・グランデ) |
Yokohama | 6,062 | 1939 | 貨物船 | 1943/10/4 | 沈没 | 1944/1/4 | 1943年10月29日バタビア出発、1944年1月4日南大西洋ナタール~フリータウン間で米軽巡洋艦「オマハ」(USS OMAHA)により撃沈 |
66 | Weserland (ヴェーザーラント) |
Yokohama | 6,528 | 1922 | 貨物船 | 1943/10/26 | 沈没 | 1944/1/3 | 1943年11月22日バタビア出発、1944年1月1日南大西洋で哨戒機に発見され、1月3日0030時に米駆逐艦「サマーズ」(USS Somers)により撃沈 |
67 | Burgenland (ブルゲンラント) |
Yokohama | 7,320 | 1928 | 貨物船 | 1943/10/29 | 沈没 | 1944/1/5 | 1943年11月25日バタビア出発、1944年1月5日南大西洋ナタール~フリータウン間で米軽巡洋艦「オマハ」(USS OMAHA)に発見され自沈 |
68 | Arno (アルノー) |
Bordeaux | 6,344 | 1939 | 貨物船 | 1943/12/17 | 沈没 | 1943/12/21 | 元イタリア貨物船「ピエトロ・オルセオロ」(Pietro Orseolo)でイタリアの単独講和によりドイツ側に接収され「Arno」と改名。ボルドー出発直後の1943年12月18日ビスケー湾北部で英軍機の雷撃により損傷。一旦イル・ド・グレナン島の島陰に退避するも本土に向け曳航中に沈没 (※極東行きではなく英仏海峡からバルト海への回航を目指した可能性もある) |
参考資料
Blockadebrecher 1941 - 1943
今回の一覧表のもととなった一覧表で、これをもとに中止となった航海の追加、間違いの修正、記事の追加を行っています。
2019.4.15 新規作成
2019.11.7 36)「ブラケ」を追加
2020.10.21 情報を更新、レイアウトを変更