泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年~1945年)

第8警察戦車中隊
8.Polizei-Panzer-Kompanie

 第8警察戦車中隊は1943年1月22日付けのSS全国指導者兼ドイツ警察長官通達によりウィーン警察自動車学校で編成が開始されました。中隊の編成は2月15日には完了し、この時点での記録は残っていないものの下記のような編成であったと思われます。


第8警察戦車中隊の編成

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:パナール装甲車×3両
第2装甲車小隊:パナール装甲車×3両
第3戦車小隊:装軌式装甲車×5両


 中隊の2個装甲車小隊は1943年2月16日の通達により第7警察戦車中隊の編成用にそっくり転用されることとなりましたが、補充用として再びパナール装甲車が配備されたようです。戦車小隊の装備車両もはっきりしませんが、外地への出動時点では捕獲したロシア製戦車(BT-7戦車)が配備されていました。また編成表にはないⅠ号戦車(A型)が写った写真も在り、実際にどのような戦車を装備していたかははっきりしません。

 第8警察戦車中隊は高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」の管轄下で活動し、1943年11月から1944年3月にかけては第8軍団の戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe Jeckeln)に配属されており、ネヴェドロ(nevedro)~グシノ(Gussino)湖地区間の約6kmの戦線での戦闘に投入されていました。
 1943年12月1日現在の戦闘団「イェッケルン」の報告によると第8警察戦車中隊は10両の装甲車両を装備しており、12月11日の時点では装甲車×6両と戦車×5両の装備を報告し、12月21日には12両の装甲車両を報告しています。
 戦闘団「イェッケルン」には第3警察戦車中隊も配属されており、2個戦車中隊合計で装甲車×10両とT26戦車×6両が報告されていました。また、11月19日現在の報告では軽戦車×4両と装甲車の装備を報告していますが、戦闘団では2個戦車中隊を区別して報告していないため第8警察戦車中隊が実際にどのような戦力であったかを知ることはできません。

 1943年12月、中隊はMöllerSS准尉指揮の戦闘団「モーラー」(Kampfgruppe Möller)に配属され、12月20日からの「オットー(Otto)作戦」に参加しました。この作戦は高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」により立案され、オスベヤ(Osveya)湖地区でのパルチザン部隊の掃討を目的としていました。
 1944年1月9日現在の部隊一覧によると中隊は引き続きオスベヤ(Osveya)湖地区での街道警備任務に従事しており、この時期第8警察戦車中隊は陸軍式に「第8警察装甲偵察中隊」と呼ばれており、1月29日現在の中隊の兵力は士官2名、下士官・兵28名で、装甲車×4両、戦車×1両を装備していました。

 1944年7月末から9月始めにかけて、第8警察戦車中隊は第1軍団でオストラント警察司令官であるギーセケ警察少将指揮の戦闘団「ギーセケ」(Kampfgruppe Gieseke)又はヘルト大尉指揮の戦闘団「ヘルト」(Kampfgruppe Held)とともに第215歩兵師団に配属されており、1944年7月29日の時点で中隊の兵力は士官2名、下士官・兵28名で、装甲偵察車×4両、戦車×1両を装備していました。

 1944年8月12日付けの戦闘団「ギーセケ」(Kampfgruppe Gieseke)の戦闘報告にはおそらく第8警察戦車中隊の装甲車両も参加した戦いの状況が残されています。
 『1944年8月11日、戦闘団「ヘルト」は迫撃砲と対戦車砲の激しい攻撃にもかかわらず、防衛線を突破したソ連軍2個大隊に対する反撃でこれを挟撃し、2個大隊を壊滅させて主防衛線を回復した。その過程で捕虜28名(内士官1名)、小銃×80挺、マシンピストル×30挺』、重機関銃×5挺、軽機関銃×4挺、7.62cm野砲×1門、4.5cm対戦車砲×2門、通信機×1組と大量の弾薬が鹵獲され、7.62cm野砲×1門が破壊された。
 私はヘルト大尉の個人的勇気を称えるとともに、装甲偵察車乗員の卓越した技量と冷静さを称える。第23ラトビア義勇警察大隊指揮官のBrigadies大尉、情報将校のFichtler大尉、この反撃に参加した全ての士官、下士官・兵士に特別の感謝と敬意を表す。  この勇敢な反撃によって第215歩兵師団を分断してメーメル戦線を突破する敵の最優先目標は不可能となった。』

 1944年10月20日付けの治安警察部隊の報告書によると、第8警察戦車中隊はオストラント警察司令官(BdO. Ostland)の下でリーバウ(liebau)に駐屯しており、高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」であるイェッケルンSS大将兼警察大将の管轄下でした。
 中隊の10月以降の行動記録は残されておらず、元中隊員の証言によると中隊は終戦までにウィーンに帰還していたようですが、装備状況などの詳細は不明です。


2007.7.1 新規作成
2023.12.9 一部追記

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