泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年~1945年)

第6警察戦車中隊
6.Polizei-Panzer-Kompanie

 第6警察戦車中隊は1942年10月23日付けのSS全国指導者及びドイツ警察長官通達によりウィーン警察自動車学校で編成が開始されました。


第6警察戦車中隊の編成

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両装備
第2装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両装備
第3戦車小隊:オッチキス装軌式装甲車×5両装備


 中隊の要員はドイツ全国からウィーンの警察自動車学校に召集され、修理工場小隊はベルリンの警察技術及び交通学校から編入されることとなり、第26修理工場小隊として士官1名と下士官7名が1943年5月9日にはウィーンの中隊に合流しました。

 1943年11月、中隊にはオートバイ狙撃兵小隊が追加配備され、小隊の装備内容は不明ですが元中隊員の証言によると軽迫撃砲を装備していたようです。さらに1944年6月3日付けの治安警察長官通達により下士官1名と兵10名よりなる工兵部隊が配属されており、この工兵部隊はドレスデン/ヘレナウの第1警察武器学校にて編成され、クロアチア警察司令官の管轄地域での活動を任務としました。
 この部隊は地雷の処理を任務としており必要な要員は第1警察武器学校から抽出され、その要員の半数は全国から第1警察武器学校に召集されていました。ドレスデン/ヘレナウの第1警察武器学校の記録によるとこの工兵部隊は1944年6月14日に訓練を完了し、6月19日にクロアチア警察司令官のもとへの移動命令が発令された後、7月1日に輸送の準備が完了しました。
 
 1943年6月16日付けの治安警察長官命令のより第6警察戦車中隊はクロアチアに出動することとなり、エッセ警察司令官(Bdo Esseg:現在のOsijekに駐屯)に配属されました。このため1943年6月18日には士官1名と下士官5名が先発隊としてクロアチアに向け出発しました。
 1943年9月16日、高級SS及び警察指導者「クロアチア」(Hohere SS und Polozeiührer Kroatien)のカマーフォッファーSS中将兼警察中将の指揮のもとベオグラードの南西約40kmのサバ川屈曲部でのパルチザン掃討作戦が開始され、中隊もこの作戦に参加しました。
 この地域には兵力約1,000名のパルチザン旅団がおり、パルチザン側は対戦車砲×2門、重機関銃×8挺、軽機関銃×125挺を装備していると見られていました。スレム(Srem)地方ではパルチザンによる最初の解放区により鉄道と主要な街道の交通が危険に晒されており、鉄道と街道の安全を確保しあわせて民族ドイツ人居住地域の安全確保を目的として警察と陸軍部隊が集められ、警察部隊は3個警察大隊、1個警察戦車中隊、1個SS特殊部隊が、陸軍部隊は対戦車砲部隊、砲兵部隊、鉄道警備部隊が集結しました。
 1943年10月4日付けの第173予備師団の報告によるとカマーフォッファーSS中将によるサバ川屈曲部でのサルチザン掃討作戦は継続的に実施されていた模様で、このときは警察の騎馬大隊が敵と接触し第173予備師団の1個砲兵中隊と1個工兵中隊及び1個警察戦車中隊からなる自動車化戦闘団が出動し、サバ川屈曲部での戦闘によりパルチザン部隊は沼地へと追い払われ、退却路には負傷者と戦死者の武器が遺棄されていました。
 1943年10月30日、第6警察戦車中隊の一部(装甲車×2両とオートバイ小隊)はエッセ警察司令官によるセルビアのコプリナ(Koprivna)村での作戦に参加しましたが、この作戦は1人のSS兵士が死亡したことへの報復として行われたものでした。
 その後第6警察戦車中隊の一部は強力なパルチザン部隊によって占領されたビロビティツア(Virovitica)の町の救援作戦に参加しました。救援部隊は4個警察中隊と3個ウスタシ中隊を中心に構成され、中隊からは2両の装甲車両が同行しました。救援部隊はビロビティツアの手前、南東約20kmの地点でパルチザン部隊と戦闘になり、2両の装甲車両はその威力を発揮したようです。
 1943年12月、第6警察戦車中隊は「カンナエ(Cannae)作戦」に参加しましたが、この作戦についての記録は残されていません。

 1944年5月25日、第69軍団司令部はパルチザン勢力の一掃を目的とした「Schach作戦」を発令し、5月26日~28日にかけて第6警察戦車中隊の一部(戦車×4両)が第7クロアチア警察大隊とともに作戦に参加しました。
 1944年7月になると第6警察戦車中隊は第1クロアチア警察義勇連隊に戦車中隊として配属され、7月15日現在の治安警察部隊の戦力概要によると中隊は地雷処理部隊とともに第1クロアチア警察義勇連隊に配属されてエッセ警察司令官の管轄地域であるデジャコヴォ(Djakovo)で活動しました。
 その後の10月20日現在の治安警察部隊の戦力概要によると第6警察戦車中隊はエッセ警察司令官の管轄地域であるシルミア(Syrmia)で予備部隊として待機していました。第6警察戦車中隊と同時期にエッセ警察司令官(BdO Esseg)の指揮下には第11警察戦車中隊と第16警察戦車中隊も配属されており、いずれも独自の地雷処理部隊が配置されて活動していました。

 1944年12月14日現在の第34軍団の部隊一覧によると、第6警察戦車中隊は特別編成師団「ステファン」の一部(7.5cm対戦車砲×4門?)とともに南部警察保安地域で活動していました。特別編成師団「ステファン」の部隊一覧によると第6警察戦車中隊の一部はナシセ(Nasice)に駐屯しており、一方で特別編成師団「ステファン」のその他の部隊は北部警察保安地域で活動していました。

 12月23日付けの特別編成師団「ステファン」の報告によると、第6警察戦車中隊は12月中に第34軍団の第11空軍地上師団に配属となったと思われます。中隊はクロアチア北部のエッセ(Esseg)に駐屯しており、ザグレブ(Zagreb)~ビロビティツァ(Virovitica)~ダルバル(Daruvar)~ナシツェ(Nasice)のベオグラード西方地域及びノビ・サード(Novi Sad)地区で活動しました。
 中隊の2個装甲車小隊が頻繁に作戦に出動して装甲車が地雷や砲撃により損傷し、乗員にも負傷者が出たとの報告されているのと対照的に、戦車小隊の出動は稀であったようです。

 終戦を迎えた時点で中隊は空軍部隊や陸軍部隊とともにザグレブの北部に居り、5月8日には装甲車×2両(不稼動車両?)は処分されました。残存の装甲車×2両と車両群により中隊はスロベニアのツェリエ(Celje)を経由してオーストリアを目指し、ラバムンド(Lavamund)からオーストリア入りに成功し、ヴォルカーマルクト(Voellcermak)でイギリス軍部隊と始めて接触したのちサンクト・ファイト・アン・デア・グラーン(St.Veit an der Glan)まで着たところで武装解除され、ここで最後の装甲車×2両が処分されました。
 中隊はその後も車両による移動を続けマウターンドルフ(Mauterndorf)地区のタムスヴェーグ(Tamsweg)~ザンクト・ミヒャエル(St.Michael)にたどり着いたところでアメリカ軍によって抑留されました。


2007.7.1 新規作成
2023.12.8 一部追記

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