泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年~1945年)

第5警察戦車中隊
5.Polizei-Panzer-Kompanie

 第5警察戦車中隊は1942年9月22日付及び1942年10月21日付のSS全国指導者及び警察長官通達により、ウィーン警察自動車学校の要員から編成されました。


第5警察戦車中隊

中隊本部
  指揮班
  補給段列
  第14修理工場小隊
第1小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第2小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第3小隊:オッチキス装軌式装甲車×5両


 中隊は1942年12月から高級SS及び警察指導者「南部ロシア」の管轄下で第10警察連隊に配属され、ジトミールの北西80kmほどの所にあるノボグラード・ヴォリンスク(Nowograd-Wolynsk)に駐屯してパルチザン掃討作戦に従事しました。
 1942年12月15日から1944年の初めまで、中隊は第10警察連隊とともにウクライナの各地でパルチザン掃討作戦に従事し、その間の1943年9月11日には中隊の将校1名が負傷しました。1944年の年明け早々に、中隊は第10警察連隊とともに休養と再編成のためポーランドに後退し、2月から4月末まではポニャトバ(Poniatowa)の宿営地に駐屯しました。

 第5警察戦車中隊は、1944年3月2日付のSS全国指導者及び警察長官による緊急通達により、増強戦車中隊として再編成されることになり、次のような編成となりました。


第5(増強)警察戦車中隊(1944年3月14日現在)

中隊本部
  指揮班
  補給段列
  第14修理工場小隊
第1小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第2小隊:オッチキス装軌式装甲車×5両
第3小隊:T34装軌式装甲車×5両
第4小隊:T34装軌式装甲車×5両


 再編成にあたっての不足分の要員は、ウイーン警察自動車学校の警察予備戦車大隊から供給されることになりましたが、増強分の装備は警察予備戦車大隊から供給を受けることができず、中隊が独自に調達しなければなりませんでした。特に中隊の第3、第4小隊に装備された10両のT34装軌式装甲車は、中隊独自で鹵獲兵器の中から見つけてきたもののようです。
 その他の車両についてはウイーン警察自動車学校から供給されましたが、定数の改正により余剰となったシュタイヤー装甲車×3両、小型乗用車×1両、オートバイ×1両については、ウイーン警察自動車学校に返還されました。
 第14修理工場小隊のための要員の欠員分も、ウイーン警察自動車学校から供給されました。中隊にはさらに将校1名、靴職人1名、服職人1名も配属され、1944年3月14日には第5(増強)警察戦車中隊として再編成を完了しました。

 第5(増強)警察戦車中隊は1944年中頃まで第10SS警察連隊に配属され、高級SS及び警察指導者「ウクライナ」の管轄地域に出動していました。1944年4月30日から6月13日にかけて、中隊は戦闘団「プリュッツマン」(Kampfgruppe "Pruetzmann")に配属されてブロディ地区のStanislavchikの前線で防衛戦闘に従事しました。
 1943年9月8日のイタリア単独講和によりドイツ軍の占領下となったイタリアでは1943年9月23日に「最高級SS及び警察指導者イタリア」がローマに置かれ、高級SS及び警察指導者「イタリア西部」と高級SS及び警察指導者「アドリア海沿岸」が新設されて占領地域の治安維持任務に従事しました。
 第10SS警察連隊は1944年6月21日付けのSS全国指導者通達によりトリエステ警察司令官(BdO. Triest)に転属となり、第121警察通信中隊を含む総ての部隊の要員と装備、車両、機材がゲルツ(Goerz、現ゴリツィアGorizia)へ鉄道輸送されてトリエステ警察司令官(BdO. Triest)の指揮下に入りましたが、第5(増強)警察戦車中隊もこのとき第10SS警察連隊と共にイタリアへ移動しました。また連隊の所属部隊には同時に『山岳戦闘のための装備を準備せよ』との特別命令も出ていました。
 
 イタリアに到着した第10SS警察連隊は1944年7月7日付けの治安警察長官の緊急命令により、各大隊の編成をそれまでの3個中隊編成から4個中隊編成に拡大されました。第5(増強)警察戦車中隊は連隊の第15(戦車)中隊として引き続き配属されていました。
 1944年7月15日現在の治安警察部隊の戦力概要によると、第10SS警察連隊はトリエステ警察司令官(BdO. Triest)の作戦地域内(高級SS及び警察指導者「アドリア海沿岸」の管轄区域)のAidurana-Vipacco~ゲルツ(Goerz)地区にありました。その後の1944年10月20日現在の部隊配備概要によると、中隊は7月15日の時点以後引き続きゲルツ(Goerz)地区に駐屯していました。

 1944年10月から1945年1月にかけて、中隊はトリエステ警察司令官(BdO. Triest)の管轄地域でのパルチザン掃討作戦や後方地区での警備任務に従事しました。その中でも1945年1月19日にはゲルツ(Goerz)から東方わずか10kmのTarnova地区でFlotiglia-Mas師団のフルミーネ大隊(Fulmine Battalion)がパルチザン部隊に包囲されてしまう事態が発生し、ゲルツ(Goerz)にあった中隊のT34小隊に救出作戦への出動が命令されました。
 第5(増強)警察戦車中隊のT34戦車小隊に工兵小隊とFlotiglia-Mas師団の歩兵40名を加えた突撃部隊が編成され、Salcano地区から進発してラウニツァ(Raunizza)地区を経由する進撃路で包囲の突破が図られました。当の包囲された部隊の方は、その日の夜の間に吹き始めた吹雪にまぎれて多くは突破に成功したものの、街道を含む広い地域が地雷とパルチサン部隊の機関銃、迫撃砲の火線により制圧されたままになっていました。
 翌1月20日、ラウニツァ(Raunizza)の北と西の丘にあるパルチザン部隊の陣地に対して突撃部隊による攻撃が開始されました。1月21日になると第15SS警察連隊の第3大隊の増強を受けた突撃部隊は、第10SS警察連隊の第3大隊とも協力して再度パルチザン部隊の陣取る丘を攻撃しました。6時間の激戦の後、警察戦車部隊のT34に支援された歩兵部隊によってパルチザン陣地の丘は制圧され、パルチザン側の損害は92名が戦死し兵員の3~4割が負傷したのに対してドイツ側の損害は突撃部隊で合計17名が負傷したのみにとどまりました。

 第5(増強)警察戦車中隊は1945年2月21日現在の高級SS及び警察指導者「アドリア海沿岸」の管轄下に引き続き配属されており、3月1日の時点でも引き続き第10SS警察連隊に配属されていました。
 1945年3月19日から4月7日にかけて、第10SS警察連隊はスロベニア西部の山岳地帯で実施されたドイツ軍最後のそして最大規模のパルチザン掃討作戦に参加しました。この作戦は「春の訪れ(Frühlingsanfang)作戦」(1945年3月19日~3月29日)と「冬の終わり(Winterende)作戦」(1945年3月19日~4月7日)の二段階に分かれており、アドリア海沿岸作戦地域(OZAK=Operationszone Adriatisches Küstenland)内のすべての警察部隊をはじめ、SS第24武装山岳師団、SS下士官学校「リュブリャーナ」、SSセルビア義勇兵団、コサック軍団の一部が動員されました。
 この一連の戦闘でパルチザン部隊は2万名の兵力のうち1,500名~2,000名の損害を受け、中でもパルチザン第9軍団の戦闘可能な兵力は約1,500名にまで減少しました。さらに軍需物資を大量に失ったため、しばらくの間は戦闘不能の状態となりこれによりドイツ軍部隊は民間人とともにトリエステからオソッポやジェモーナを経てオーストリアへと撤退する貴重な時間を稼ぐことができました。
 1945年4月末、第10SS警察連隊はタルビス(Tarvis、現タルヴィジオTarvisio)を経由してオーストリアのフィラハ(Villach)地区へと移動しており、第10軍及び第97軍団の一部もフィラハ地区へと後退しました。その後連隊はSS戦闘団「ハルメル」(SS Kampfgruppe "Harmel")に配属されてオーストリア国境において撤退してくるドイツ軍部隊の撤退路を確保することとなり、5月初めに北イタリアのトルメッゾ(Tolmezzo)~ジェモナ(Gemona)地区に派遣されました。
 連隊は5月9日には後退してきたSS第24武装山岳師団(カルストイェーガー)のSS第59武装山岳連隊第1大隊とともに北上し、5月7日~8日にかけてブレッケン峠を越えてオーストリアに入ったものと思われ、最後はSS戦闘団「ハルメル」の一部と共に連合軍に降伏しました。
 第5警察戦車中隊については3月以降の状況はわかっていません。


2007.4.16 新規作成
2023.12.7 一部追記

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