泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年~1945年)

第2警察戦車中隊
2.Polizei-Panzer-Kompanie

 第2警察戦車中隊についての1942年7月から8月にかけての公式記録は現在のところ発見されておらず、この時期の行動については個人的な日記程度しか残っていません。このため第2警察戦車中隊の編成時期については詳しい状況がわかっていませんが、1942年7月25日現在で中隊の編成は次のようになっていました。


第2警察戦車中隊の編成(1942年7月25日現在)

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第2装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第3装軌式装甲車小隊:ルノー装軌式装甲車×5両


 第2警察戦車中隊には1942年8月4日付けの命令によって第3警察戦車中隊の第2装甲車小隊が編入されましたが、なぜこのような編入を行い中隊の編成にどのように組み入れられたかは不明です。第2警察戦車中隊は1942年8月10日から9月30日の間はウィーンのクノーデルヒュッテ(Knodlhutte、Purkersdorfの兵舎近く)に駐屯しており、中隊の兵力は118名でした。

 1942年10月1日、中隊は高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(HSSPF. Rusland-Mitte)の管轄下に配属され、1942年10月7日からは第14警察連隊に編入されてモギレフ(Mogilew)に駐屯しました。10月8日から10月20日までの間、中隊は「カールスバート(Karlsbad)作戦」に参加し、この作戦に参加したSS第1歩兵旅団のSS第8歩兵連隊とも協力して作戦を展開しました。


第14警察連隊

連隊本部
第1大隊(第1中隊~第4中隊)
第2大隊(第5中隊~第8中隊)
第3大隊(第9中隊~第12中隊)
第13(重装備)中隊
第14(戦車)中隊:第2警察戦車中隊
第15(通信)中隊:第72警察通信中隊


カールスバート(Karlsbad)作戦
 1942年10月11日~10月23日、ベレジノ(Beresino)北方~Chervino街道地区でのパルチザン掃討作戦。作戦地域内には兵力約6000名の強力なパルチザン部隊がいると見積もられていました。作戦の主力は第1SS歩兵旅団で、SS特別大隊「ディルレヴァンガー」、第13及び第14警察連隊の一部、第255(リトアニア)シューマ大隊、第638擲弾兵連隊第1大隊(フランス人義勇兵部隊)、及び第600コサック大隊により強化されました。
 1942年10月23日まで行われた作戦は結果的に失敗で、ドイツ側の損害は戦死24名、負傷65名に対してパルチザンとパルチザン容疑者1,051名が射殺されましたが、これは作戦中に戦闘がほとんで行われなかった現れであり、内容は住民の集団虐殺でした。
作戦参加兵力:
SS第1歩兵旅団(自動車化)
SS第8歩兵連隊
SS第10歩兵連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第13警察連隊
第14警察連隊
第225(リトアニア)シューマ大隊
第638擲弾兵連隊第1大隊(フランス人義勇兵部隊)
第600コサック大隊


 1942年10月30日の第14警察連隊の日常命令によると、第2警察戦車中隊は連隊の第14(戦車)中隊として編入されていました。1942年11月7日から8日にかけて第14(戦車)中隊は、連隊の部隊によるスタリッツア(Stariza)への急襲作戦に参加しましたが、その際には装甲車両1両が被弾炎上したほか中隊長以下数名が負傷するという損害を出しました。中隊は11月中に再び第14警察連隊とともに作戦行動に参加し、11月20日から11月26日にかけてペルシャンツク(Pelschanszk)及びオズシエロヴォ(Ozsierowo)での攻撃作戦「ニュールンベルグ(Nurnberg)」作戦に参加しました。この作戦で連隊は戦闘団「フォン・ゴットベルク」(von Gottberg)に編入されており、第14(戦車)中隊は連隊の第3大隊と行動を共にしました。

 1942年11月27日、第14警察連隊は第2大隊をモギレフに残し、連隊主力の第1大隊、第3大隊、第13(重装備)中隊、第14(戦車)中隊及び第15(通信)中隊は前線に緊急輸送されることとなり、ヴェイデラフカ(Veydelavka)から直ちに鉄道輸送されました。最初のうちは目的地がわかりませんでしたが、鉄道の旅が7日間続いたところでB軍集団からの命令があり、連隊の自動車化部隊はハリコフ(Kharkov)の東方80Kmのクビヤンスク(Kubyansk)で降車し、その他の部隊はハリコフの東北東120Kmのヴァルキ(Valuki)で降車することとなりました。
 1942年11月19日、ドイツB軍集団の伸びきった側面、弱体な同盟軍の戦線を狙ってソ連軍の反撃が開始されました。ドン河の戦線ではルーマニア第3軍とイタリア第4軍の戦線が、スターリングラードの南ではルーマニア第4軍の戦線が突破され、2方面から進撃したソ連軍は11月23日にはカラチで合流しました。このため、スターリングラードの周辺では第6軍と第4戦車軍の一部が包囲され、3個戦車師団、2個自動車化歩兵師団、14個歩兵師団が孤立し、B軍集団だけでなく東部戦線南翼全体が崩壊の危機に見舞われました。この危機に際して戦線の後方地区では、警察部隊をはじめとしてさまざまな部隊をかき集めて急遽編成された警戒部隊が防衛線の穴埋めとして投入されました。第14警察連隊と第2警察戦車中隊もこうして前線へ緊急輸送されたのでした。
 
 連隊はロソシュ(Rossosh)をめざしてさらに東へ行軍を開始し、自動車化部隊は12月10日から11日にかけてロソシュに到着しました。第14警察連隊はイタリア第8軍のトレンティーノ(Trentino)師団に配属され、ロソシュからドン河を北上したヴァソフカ(Vassovka)でアルピニ大隊「エッドロ」(Alpini Battalion “Edolo”)の戦区を増強することとなり、12月16日午前6時の交代を予定して前進命令が発令されました。
 12月15日正午、第14警察連隊がヴァソフカまであと45kmのプロポフカ(Propovka)にさしかかったところ、それまでの命令は突然変更され連隊は95km離れたドン河小屈曲部にあるイワノフカ(Ivanovka)をめざして南東に向かうこととなりました。連隊の一部(第1大隊の第1中隊と第2中隊、第3大隊の第9中隊、第10中隊、第11中隊(重機関銃小隊のみ)、第13(重装備)中隊(対戦車砲小隊のみ)、第14(戦車)中隊、第15(通信)中隊)は12月16日午後6時にはイワノフカに到着し、連隊本部がイワノフカの町の北側に設置されました。さっそく陸軍第385歩兵師団の参謀長(Ia)から状況説明がありましたが、強力なロシア軍の戦車部隊と自動車化部隊の攻撃によりイワノフカから北東25kmにあるドン河沿いのデレソフカ(Dresovka)の村は、連隊が到着した当日の12月16日にはついに陥落しており戦況は緊迫していました。デレソフカを防衛していたイタリア軍部隊はすでに退却しており、わずかなドイツ軍部隊(第6警察連隊の第1大隊及び陸軍の戦車猟兵部隊)は包囲されたまま絶望的な防衛戦を展開していたのでした。

 12月17日、第14警察連隊はデレソフカへの反撃とイワノフカの防衛に努めましたが戦況はなお混沌としていました。連隊本部はイワノフカからさらに東方10kmのザプコボ(Zapkovo)まで進出しましたが、その日の夕方の戦闘で連隊長が戦死する事態となり第3大隊長が替わって連隊の指揮を執ることとなりました。第14(戦車)中隊の装甲車と戦車はノヴァカリトワ(Novakalitva)-イワノフカ-ザプコボ地区で第385歩兵師団を支援したほか、中隊のオートバイ小隊は周辺の警察及び陸軍部隊への補給任務に活躍しました。
 12月18日、第14警察連隊の第1大隊は反撃を繰り返した後、イワノフカに撤退しました。第3大隊はイワノフカの北のノヴァカリトワ付近で第385歩兵師団とともになおも防衛線を維持し続けていました。しかし翌12月19日の夕方には、最も激戦にさらされていた第1大隊は大損害を負った後、ついにイワノフカを放棄して後退しなければなりませんでした。

 12月19日夕方の時点で第14警察連隊の各部隊は第385歩兵師団に編入されていましたが、第14警察連隊の兵力は中隊規模にまで減少しており、第14(戦車)中隊もまた残余の装甲車と戦車を1個小隊にまとめて、第385歩兵師団の師団司令部に配属されました。
 第14(戦車)中隊は1942年12月21日までの前線での戦闘で、ちょっと信じ難いことに1名も戦死者を出していませんでした。一方第14警察連隊の兵力は12月22日までに第1中隊、第2中隊、第9中隊、第10中隊、第11中隊(1個小隊)の5個中隊の合計で兵員210名、ライフル70挺、サブマシンガン5挺を装備するのみとなっていました。このため、第14警察連隊の各部隊は12月23日以降第385歩兵師団の補充部隊として使用され、生き残りの兵員は補充要員として再配置されました。

 ドン河での防衛戦の後第14警察連隊の残余はモギレフに帰還し、第2警察戦車中隊は1943年3月5日に一旦モギレフに到着後すぐにウィーンに向かい、3月12日にはウィーンに到着しました。1942年10月8日から1943年3月5日までのロシア出動期間中に第2警察戦車中隊が被った損害については正確な記録が残されていませんが、少なくともスタイヤー装甲車1両が被弾により炎上し、ルノー1両が乗員により自爆処分され、この期間中の兵員の損害は118名のうち死者8名、負傷者8名、凍死3名、行方不明3名となっています。

 第2警察戦車中隊は1943年5月17日付けのSS国家指導者兼ドイツ警察長官通達によりウィーン警察自動車学校で再編成されることとなり、次のような編成で再建されました。


第2警察戦車中隊

中隊本部
  指揮班
  通信小隊
  第11修理工場小隊
  補給段列
第1装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第2装甲車小隊:スタイヤー装甲車×3両
第3装軌式装甲車小隊:I号装軌式装甲車(VK1801)×5両


 再編成後の中隊の兵員は119名となり、通信小隊として通信士官1名と無線通信機材一式が追加されました。そして装備する戦車はルノーからI号戦車に変更となり、VK1801として知られる重装甲型が配備されました。警察部隊の車両の塗装は1943年4月3日付けの通達により、従来のポリツァイグリュン(Polizeigrün)から陸軍と同じデュンケルゲルプ(Dunkelgelbe)に変更されました。しかし、全車両が一斉に塗り替えられたわけではなく、スタイヤー装甲車は1943年5月の時点でデュンケルゲルプに塗り替えられていましたが、I号戦車は1944年春の時点でもポリツァイグリュンのままであり、最終的にはデュンケルゲルプに変更されたものの、その時期は不明です。また、各車両に無線機が増設されスタイヤー装甲車の全車両にFu12a又はFu12無線機とスターアンテナのセットが、I号戦車にはFu5又はFu2無線機とポールアンテナのセットが装備されました。

 中隊は1943年6月19日までウィーン(Vienna)-ボルダー(Vorder)-ハインバッハ(Haibach)の兵営に駐屯し、6月20日から7月3日まではドレスデン近郊のケーニヒスブレック(Königsbrück)の練兵場へ移動しました。ケーニヒスブレック練兵場ではなんと、あのインド人義勇兵たちも訓練を受けており、しばらく一緒に訓練を受けることとなりました。1943年7月4日、中隊はケーニヒスブレック練兵場からウィーン-ボルダー-ハインバッハの兵営に帰還し8月23日まで駐屯しました。
 1943年8月10日付けの治安警察長官命令により、第2警察戦車中隊はロシアに出動中の第4SS警察連隊に配属されることとなり、ウィーン警察自動車学校からスタニスラウ(Stanislau)に向けて移動しましたが、その後1944年中ごろまでの中隊の行動ははっきりしていません。

 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオ作戦」により中央軍集団の戦線が崩壊し、ヒトラーが「要塞」と宣言したミンスクにも危機が迫りました。1944年6月下旬、第4SS警察連隊はルブリン地区でパルチザン掃討作戦に参加していましたが、作戦地域から約500km離れたミンスク地区に急派され、「Kormoran作戦」に投入されていた戦闘団「フォン・ゴットベルク」の部隊とともにともにボリソフ近郊のベレジナ川の防衛線に布陣しました。
 しかしソ連軍は薄いドイツ軍戦線をすり抜けてミンスクに迫っており、7月1日にはボリソフからの後退が決まり、7月2日にはミンスク北西のマラジェチナ(Molodechno)地区の新たな防衛線へと後退しました。ソ連軍は南北からミンスク市街に迫っており、第2親衛戦車軍団が7月3日の早朝にミンスクの防衛を突破し、夜明けには市街中心部に突入しました。
 翌7月4日にはミンスクからドイツ軍後衛部隊が撤退し、ソ連軍第65軍と第5親衛戦車軍によって市街地西方で包囲の輪が閉じられ、ミンスクが陥落するとともに第4軍の大部分と第9軍の一部がミンスク東方からベレジナ川の間で包囲される事態となりました。

 1944年7月15日現在の治安警察部隊の戦力概要によると、中隊は東プロイセンのシュロッタースブルグ(Schröttersburg)に司令部を置く高級SS及び警察指導者「中央ロシア及び白ロシア」の管轄下にあり、引き続き第4SS警察連隊に配属されていました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア及び白ロシア」の管轄下にはこのとき第2警察戦車中隊のほかに第9警察戦車中隊(残余)と第12警察戦車中隊も同時に配属されていました。第2警察戦車中隊はこのころ第4SS警察連隊とともに戦闘団「フォン・ゴットベルク」(第4SS警察連隊のほか第2SS警察連隊、第17SS警察連隊、第34警察狙撃兵連隊により編成)に編入されており、第6軍団の戦線に投入されていました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年7月14日現在)
Kampfgruppe “von Gottberg”

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊(第2警察戦車中隊を含む)
第17SS警察連隊
第22SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
第34警察狙撃兵連隊
第36警察狙撃兵連隊


 1944年7月5日付の第6軍団の戦闘日誌によると、この日の午前5時Ivieの北西15kmほどの鉄道線路に対してソ連軍の約1,000名の兵力による攻撃があり、警察戦車中隊が第17警察連隊、第36警察連隊とともに反撃を実施して対戦車砲2門を撃破し、機関銃と迫撃砲を鹵獲して攻撃を撃退しました。午後3時40分には警察戦車中隊がソ連戦車2両を撃破しましたが、当時第6軍団に配属されていた第2警察戦車中隊、第9警察戦車中隊、第12警察戦車中隊のうちどの中隊の戦果であるかはわかっていません。

 1944年8月10日から16日にかけて、第2警察戦車中隊は第4SS警察連隊とともに「アンハルト旅団」を編成しており、第6軍団の第14歩兵師団に配属されてグラエボ(Grayevo)の南、及び南東地域で最前線での防衛戦闘に投入されました。この時点での第2警察戦車中隊の兵力は、オートバイ狙撃兵小隊の残余も含めて将校3名、下士官・兵116名であり、このうち歩兵戦力は将校2名、下士官・兵57名でした。また装甲車両としては、装甲車3両と戦車2両を保有していましたが、8月末までには装甲車1両を除きその他の装甲車両のすべてを失いました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年8月)
SS-Polizei-Brigade “Anhalt”

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊
  第1大隊
第34警察狙撃兵連隊第1大隊
第56シューマ砲兵大隊
第15リトアニア警察大隊
警察砲兵中隊「ガリチア第2」
輸送中隊


 その後中隊は部隊の刷新のためウィーンに帰還しており、1944年10月20日現在の治安警察部隊の戦力概要によると第2警察戦車中隊は第17軍管区内のウィーン警察司令官(Bdo Vienna)の指揮下にありましたが、その後の中隊の行動、編成状況については不明です。


2007.4.11 新規作成
2023.10.20 改訂版

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