泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年~1945年)

第13(増強)警察戦車中隊
13.verstarkte Polizei-Panzer-Kompanie

 第13(増強)警察戦車中隊は、1943年1月6日付けのSS全国指導者及び警察長官通達によりフランス大西洋岸に配備されるSS警察連隊「グリーゼ(Griese)」に配属するため、ウィーン警察自動車学校から要員を抽出して編成されることになりました。1943年2月15日付けの通達により中隊には第7警察戦車中隊に配属予定だった2個小隊分のシュタイヤー装甲車と要員がそっくり編入され、1943年2月中旬にフランス南部のマルセイユにあった中隊は次のような編成でした。


第13(増強)警察戦車中隊

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第2小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第3小隊:Ⅱ号戦車(VK 1601)×6両
第4小隊:Ⅳ号戦車F1型×4両
火焔放射小隊:Sd.Kfz251/16×2両


第13増強警察戦車中隊(1943年2月現在)

中隊本部
指揮班: 

Stkw.4

Krad Bwg.

Krad
補給段列

Stkw.4

WkW.mit Feldkuche

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.
修理工場小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Zugwagen

Wkw.

Wkw.

Wkw.
第1小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Stkw.14

Wkw.

Wkw.

Pzkw.Steyr

Pzkw.Steyr

Pzkw.Steyr
第2小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Stkw.14

Wkw.

Wkw.

Pzkw.Steyr

Pzkw.Steyr

Pzkw.Steyr
第3小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Stkw.14

Wkw.

Wkw.

K-Pzkw.2(VK1601)

K-Pzkw.2(VK1601)

K-Pzkw.2(VK1601)

K-Pzkw.2(VK1601)

K-Pzkw.2(VK1601)

K-Pzkw.2(VK1601)
第4小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Stkw.14

Wkw.

Wkw.

K-Pzkw.4 Ausf.F1

K-Pzkw.4 Ausf.F1

K-Pzkw.4 Ausf.F1

K-Pzkw.4 Ausf.F1
火炎放射小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Stkw.14

Wkw.

Wkw.

Sdkfz.251/16

Sdkfz.251/16
 このスケールで縦1m、横5mです。

 中隊の要員200名(1943年6月22日現在の兵員数は188名)はマルセイユ近郊の別荘地でそれぞれ別荘に分宿していました。グランドパワー誌2000年7月号の81ページに掲載されているADGZ装甲車(シュタイヤー装甲車)はおそらくこの時期に撮影されたもので、連続写真の別の場面では中隊のⅡ号戦車、Ⅳ号戦車、Sd.Kfz251/16も撮影されています。1943年7月11日まで中隊の所属する警察連隊「グリーゼ(Griese)」はマルセイユの市街地と港湾施設の接収及び破壊任務につきますが、すぐに名称を第14SS警察連隊と改称してクロアチアに移動しました。

 1943年7月14日から8月5日にかけて、連隊はクロアチアの南部と北部で対パルチザン作戦に出動した後、1943年9月10日にはアドリア海沿岸まで前進してイタリア軍の武装解除を行いました。この時OgulinとOstarjeの2箇所の町で小競り合いが発生したようですが、9月28日から10月10日の間にOstarjeで捕獲したイタリア軍の車輌によって中隊の装備は大いに充足されました。

 1943年10月20日から11月13日までは帝国擲弾兵師団「ホッホ・ウント・ドイッチェマイスター」に配属されてスロベニア平定作戦「Wolkenbruch」に参加し、11月14日と15日にはRudolfswerthに出動した後、11月28日まで引き続き同地で活動しました。1943年11月29日からはオーバークライン(Oberkrain)、ウンターシュタイヤーマルク(Untersteiermark)及びライバッハ(Lainbach)地方に出動しました。ここで中隊は第14SS警察連隊および第19SS警察連隊と伴に、高級SS及び警察指導者アルペンラントの第18軍管区「対ゲリラ戦総司令部」の指揮下に入り、しばらくの間ライバッハに駐屯しました。


 1943年12月、南部スロベニアのゴットシェー(Gottschee:現在はコチェービエ(Kočevje))の町がパルチザン部隊の攻撃を受け、守備隊は町の中心部にある館に立て篭もったものの、パルチザン部隊によって包囲されてしまいました。町の守備隊は第19SS警察連隊の第2中隊とスロベニア郷土防衛隊(ドモブラン)の合計200~300名の兵力であり、第2中隊長のFridolin GuthSS大尉兼警察大尉が指揮を執っていました。
 パルチザン部隊の攻撃は12月9日の深夜から始まり、Mirko Bracicに指揮された第14パルチザン師団の3個パルチザン旅団(第1「Tone Tomsic」旅団、第2「Ljubo Sercer」旅団及び第13「Loska」旅団との説あり)は砲兵と迫撃砲に支援された強力なものでした。最初の攻撃でユースホステル、学校その他の重要施設が占領され、守備隊は旧市街の中心にあったAuersperg館へと撤退しました。Fridolin GuthSS大尉兼警察大尉指揮の守備隊はこれから2日間にわたり厳しい防衛戦を展開し、館と周辺の市街は砲撃によって激しく破壊されました。
 10月10日、リュブリアナ(Ljubljana)のドイツ軍司令部では第162歩兵師団(トルキスタン)の第314歩兵連隊と第19SS警察連隊に第13(増強)警察戦車中隊の戦車を加えて救援部隊が編制されました。救援部隊はザグレブ高級SS及び警察指導者のErwin Rosener中将が指揮を執り、Ju88A爆撃機の援護も受けることができました。
 第162歩兵師団(トルキスタン)の第314歩兵連隊はポストイナ(Postojna)からゴットシェーへと急行しましたが、途中の道路はパルチザンに破壊されており、道路を補修しながらの移動のためゴットシェーへの到着は10月12日の午後になりました。救援部隊とパルチザン部隊の市街戦は10月12日の日没とともに下火となり、パルチザン部隊の撤退により町は奪回されました。この戦闘によりパルチザン部隊は97名が戦死、40名が捕虜となった他、攻撃を指揮したMirko Bracicも戦死する損害を被り、パルチザン部隊は200名が戦死したとの説もあるようです。この戦闘はスロベニア郷土防衛隊(ドモブラン)にとっては初めての大きな戦闘での勝利となりました。


 1944年10月20日付けの治安警察部隊の兵力概要によると、第13(増強)警察戦車中隊は第14SS警察連隊に配属されてザルツブルク警察司令官(BdO.Salzburg)と高級SS及び警察指導者アルペンラント(ザルツブルク)の管轄区域にあり、同じ時期に第4警察戦車中隊と第14(増強)警察戦車中隊も第13SS警察連隊に配属されていました。
 1944年10月以降の第13(増強)警察戦車中隊の駐屯地や配置はわかっていません。第14SS警察連隊は1945年に第35SS警察擲弾兵師団に編入されており、第13(増強)警察戦車中隊は引き続き連隊に配属されたままだったと思われますが詳細は不明です。

 「第35SS警察擲弾兵師団」については「続・ラスト・オブ・カンプフグルッペ」を参照してください。


2000.9.17 新規作成
2001.5.15 編成表を追加
2016.5.3 ゴットシェーの戦いを追記

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