泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第35警察狙撃兵連隊
Polizei Schutzen Regiment 35

 連隊は1943年4月21日、第1大隊として第24SS警察連隊の第3大隊を編入し、第2大隊及び第3大隊は1943年5月リッツマンシュタット(Litzmannstadt/Lodz=現ポーランドのウッジ)で編成され、連隊長はフリードリヒ・ヴィルヘルム・コルプフ(Friedrich-Wilhelm Korpff)警察大佐が就任してヴァルテラント帝国大管区で活動しました。第2大隊及び第3大隊は当初はポーランド在住のウクライナ人によるウクライナシューマ大隊により編成される予定でしたが、結局はポーランド在住の民族ドイツ人を招集して編成されたようです。


第35警察狙撃兵連隊
Polizei Schutzen Regiment 35

第1大隊(第24SS警察連隊第3大隊)
第2大隊
第3大隊


 1943年夏、連隊はウクライナに送られてウクライナ警察司令官の下に配属され、キエフ地区でのパルチザン掃討作戦に投入されました。1943年10月、キエフにソ連軍が迫ると連隊は第213保安師団に配属されて、10月26日から11月6日までキエフ南方のドニエプル河での防衛戦に投入されました。
 その後1943年11月から1944年1月にかけて、連隊は第13軍の戦闘団「メッシンガー」(Kampfgruppe "Messinger")に配属されましたが、1月30日にはCumanとドゥブノ(Dubno)の戦線がソ連軍の攻撃に突破され、連隊にも危機が訪れました。この突破により戦闘団「C」、第454保安師団、SS警察戦闘団「プリュッツマン」(Polizei Kampfgruppe "Pruetmann")などの部隊がリブネ(Rovno)からドゥブノの東及び北東にかけての地域で包囲され孤立してしまいました。
 連隊は2月8日までドゥブノの街を防衛した後に他のドイツ軍部隊とともに包囲を脱出しましたが大損害を被っており、残余の兵員を警察戦闘団「プリュッツマン」に編入したのち1944年4月30日付で正式に解散しました。

 ところが、「第35警察狙撃兵連隊」の名前はブダペスト包囲戦で再び登場します。連隊長のフリードリヒ・ヴィルヘルム・コルプフ(Friedrich-Wilhelm Korpff)警察大佐は1944年10月末までに5個警戒大隊の責任者となっており、元の連隊本部が臨時部隊の司令部として流用され、非公式に以前の連隊名を名乗っていた可能性があります。この「連隊規模」の臨時部隊がどの程度の戦闘力があり、ブダペストの戦いでどのような戦いをしたのか正確に知る術はありません。ブダペスト包囲戦の時点で連隊はそれぞれ約250名の4個大隊で編成されており、最後の時点でも戦闘可能な兵700名と「歩行可能な」負傷兵約300名と言うかなりの戦力を擁していました。


2002.8.23 新規作成
2016.5.8 改訂版
2020.9.20 連隊名からSSを削除
2021.12.7 ブダペストの戦いを追記


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