SS警察連隊「ブリクゼン」
SS Polizei Regiment “Brixen”
連隊は1944年10月、南チロル治安隊( Sudtiroler Ordnungsdienst)から3,000名から3,500名の兵員を選抜して編成されました。編入された南チロル地方からの徴募兵たちは、1901年生まれから1920年生まれ(24歳から43歳)までと比較的年齢の高い中年の予備役兵であり、必ずしもナチス党支持者というわけでもないのに強制的に警察連隊に編入させられたため、連隊の士気はけっして高くありませんでした。連隊の基幹要員となる将校、下士官、兵は1944年夏に白ロシアで壊滅した後、アルペンフォーラント地区に駐屯していた第26警察連隊の残余が編入され、連隊長にはErnst
Korn警察大佐が着任しました。
警察連隊「ブリクゼン」
Polizei Regiment “Brixen”
連隊本部/本部中隊
第1大隊:4個中隊
第2大隊:4個中隊
第3大隊:4個中隊
編成当初の連隊の兵力は2個大隊(各4個中隊)の1、200名にすぎませんでした。これはドイツ人基幹要員とイタリア系新兵との間での言葉の問題もあり、1945年2月に行われたアドルフ・ヒトラー総統への忠誠の宣誓では、自分たちはイタリア国民であるとして大半の新兵が宣誓を拒否したためでした。イタリア系民族ドイツ人の新兵たちはドイツ語があまり話せないか、あるいはまったく話せませんでした。1944年末、このため連隊は「本格的な作戦には不向き」と判断され、もっぱらブリクゼン及びボルツァーノ(ボーゼン)地区での地元弱小パルチザンの鎮圧にのみ投入されました。
1945年1月29日付で連隊の名称には「SS」が追加され、SS警察連隊「ブリクゼン」と改称されました。その直後の1945年2月、SS警察連隊「ブリクゼン」は南チロルから今や東部戦線のすぐ後方地域となったシュレージェンのヒルシュベルグ(Hirschberg=現在ではポーランド
領のJelenia Gora)へと送られ、バート・クァルムブルンでSS第80義勇擲弾兵連隊として再編制され、SS第31義勇擲弾兵師団に配属されてました。
SS第31義勇擲弾兵師団は1944年10月4日、ハンガリーにて解散した旧SS第23武装山岳師団「カマ」(クロアチア第2)のドイツ人基幹要員にハンガリー系民族ドイツ人を加えて編成されましたが、編成未了のまま防衛戦に緊急投入され11月末までのドナウ河戦線での防衛戦で壊滅的な打撃を受け、12月にはウンターシュタイアーマルク(スロベニア北部のドイツ本土併合地域)へと移動し再編成が行われていました。ウンターシュタイアーマルクは連隊の故郷である南チロル地方とは地理的にも近く、師団の訓練や装備品調達も行われており、連隊の兵士が忠誠の宣誓を拒否したことへの懲罰も含めてこの時点から連隊と何らかの関係があったとも考えられます。1945年2月16日、再編成中の師団に移動命令が届き師団は直ちにヒルシュベルグへと移動しました。
SS警察連隊「ブリクゼン」も師団を追ってヒルシュベルグへと移動し、ここでハンガリーSS警戒大隊「サラシ」(SS第31軽歩兵大隊)とともに補充部隊として師団に編入されました。SS第80義勇擲弾兵連隊へと改編された連隊は戦闘訓練が行われるとともに、不足している兵器及び装備品の補充がロシア軍からの捕獲物資を利用して進められましたが、部隊の装備内容は哀れな状態であり戦闘能力も忠誠心も師団からは信用されておらず、案の定連隊は戦闘によりたちまち大損害を被りました。
また、ロシア軍の連隊への対応は素早く、第2大隊が最前線に投入されるとたちまちロシア軍によるプロパガンダ活動が開始され、最前線の「イタリア人兵士」に対して2、000枚のビラがまかれました。その内容は「ドイツ人将校を殺し、君の武器を持って我々の戦線に投降せよ」というもので、士気の低下した大隊はロシア軍砲火の洗礼により多数の脱走兵を出すことになりました。
3月6日から3月16日にかけてSS第80義勇擲弾兵連隊はSS第31戦車猟兵大隊、SS第31砲兵連隊の一部とともに戦闘団「シェーン」を編成し、第208歩兵師団によるシュトリーガウ奪回作戦に参加しました。作戦は成功したもののソ連軍の反撃で戦闘団「シェーン」は戦闘力を消耗し、戦闘団の残余は本隊に復帰後もローヴェンベアク南西での防衛戦に投入されました。オーバーシュレージェンでの連隊はイタリア語のみを話す兵は前線後方での塹壕堀りや陣地構築などの作業に回され、ドイツ人とドイツ語を話すイタリア系兵士が集められてトラックでストリーガウ(Striegau)の防衛戦に送り込まれたとの証言も残されています。
1945年4月6日、今や「師団戦闘団」となったSS第31義勇擲弾兵師団はシュトレーレン付近で第100猟兵師団の一部とともに防衛線を維持しており、4月9日にはミュッケンドルフ、カルシャウ、クルトヴィッ方面で防衛線を展開しました。その後、カルトヴァッサーキールのシュタインキルヒェ付近まで撤退し、5月6日にはロシア軍から離脱しベーメン(チェコ)へと後退しました。
SS第80義勇擲弾兵連隊は多数の脱走兵を出すなどその戦闘力には疑問がありましたが、連隊残余の2個大隊は1945年4月初めにSS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)への補充として送られ,その後はエストニア人義勇兵とともに戦いプラハの北方約30kmのメルニク(Melnik)付近で終戦を迎えたと思われます。
2003.6.13 新規作成
2009.5.9 改訂版