泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

SS警察連隊「ボーゼン」
SS Polizei Regiment“Bozen”

 連隊は1943年10月1日、イタリア北部の南チロル地方のドイツ系住民による義勇兵と徴募兵によりボルツァーノ(ボーゼン=Bozen)地区で編制され、当初は警察連隊「南チロル」(Polizei Regiment “Suedtirol”)と呼ばれましたが、10月29日には警察連隊「ボーゼン」(Polizei Regiment “Bozen”)と改称されました。

 連隊の3個大隊は南チロルのドイツ系住民により編制され、連隊の基幹要員となる将校と下士官については250名弱の経験豊富なドイツ人警察官がドレスデンーヘレナウの警察署から抽出され編入されました。1944年2月現在、連隊の第1大隊はメラーノ(Merano=Meran)に、第2大隊はボルツァーノ(Bolzano=Bozen)に、そして第3大隊はゴッセンサス(Gossensass)にそれぞれ駐屯しており、連隊本部は第2大隊とともにボルツァーノに置かれました。
南チロル地方はザルツブルクに司令部を置く高級SS及び警察指導者「アルペンラント」(Hohere SS und Polizeifuhrer “Alpenland”)の管轄下となり、ボルツァーノにはSS及び警察指導者「ボーゼン」(SS und Polizeifuhrer “Bozen”)も置かれました。なお、南チロル地方は1944年2月以降は最高級SS及び警察指導者「イタリア」(Hochste SS und Polizeifuhrer “Italien”)の管轄下へと移管され、SS及び警察指導者「ボーゼン」はSS及び警察指導者「アルペンフォーラント」(SS und Polizeifuhrer “Alpenvorland”)と改称されました。

 連隊所属の3個大隊は各4個中隊により編成されており、約3ヶ月の期間が準備期間にあてられ、連隊の各種装備の準備、兵器の取扱訓練とともに対パルチザン戦の訓練が基幹要員として配属された警察官により行われました。しかし、連隊の輸送用車両の入手は困難を極め、南チロル地方全域で各種車両がくまなく捜索されましたが、イタリア軍の車両も民生用車両も連隊を完全に自動車化するのに必要な台数には不足していました。このため連隊には使用可能なあらゆる車両が集められており、例えば1919年製のイタリア製装甲車「ランチア1ZM」のような旧式装甲車も装備として加えられていました。

 1944年3月、連隊の第3大隊のみが南チロルからローマに送られ市内の治安維持任務に従事しました。ローマへの移動には徴用された民生用バスが使用され、その後も大隊の輸送車両として装備されたようです。
 そしてファシスト党の記念日である3月23日、大隊の第11中隊が定時パトロールのためラッセラ街まで進んだ時に事件が発生しました。パルチザンによってごみ運搬車に仕掛けられた18kgの爆薬が爆発し、第11中隊の165名中32名が即死、77名が重軽傷(内1名がその後死亡)を負いました。33名が死亡したこの襲撃への報復としてヒトラーは当初「ドイツ兵1人に対して50人のイタリア人を処刑せよ」と命じたものの、結局ドイツ兵1人に対して10人のイタリア人を24時間以内に処刑することとなりました。この命令により抑留中の政治犯やパルチザン、反ナチ/反ファシスト主義者、不足分はユダヤ人からもリストアップして330名が掻き集められ、3月24日にローマの南郊外にあるアルデアティーネ洞窟に運ばれて洞窟内で処刑が実行されましたが、実際にはドサクサ紛れにリストよりも5名多い335名が処刑されました。
 3月25日にはドイツ・イタリアの高官も参加して、死亡したドイツ人警察官(もっとも実際には死亡したのは全員が南チロル出身者でしたが)の葬儀が行われました。3月25日以降も重傷者のうち9名が死亡しましたが、9名に対する追加の報復処刑は行われませんでした。

 第3大隊はその後もローマに駐屯し、警察大隊「ローマ」とも呼ばれていました。アメリカ軍第36歩兵師団がローマに迫ると大隊はローマ南方での防衛戦にも一時的に投入され、遅滞戦闘を行った後に6月にはボローニャ(Bologna)へと撤退しました。このときの小競り合いにより大隊の警察官約15名がアメリカ軍の捕虜となりました。なおローマでの第3大隊は4個中隊ではなく第9中隊から第11中隊の3個中隊により編制されており、第12中隊はもっと後になるまで追加編制されなかったか、又は編成後もローマには派遣されなかったようです。
 1944年4月16日、連隊の名称は頭に「SS」が追加されてSS警察連隊「ボーゼン」(SS Polizei Regiment “Bozen”)と改称されました。これは第3大隊のローマでの働き(ラッセラ街の襲撃とアルデアティーネ洞窟での報復処刑)により連隊への名誉称号として付加されたものであり、南チロル地方の他の警察連隊に「SS」が追加されるのは1945年1月になってのことでした。

 第1大隊は1944年2月末から3月初めにメラーノから高級SS及び警察指導者「アドリア海沿岸」の管轄地域のイストリア(Istria)半島地方に移動しており、最初はフィウメ(Fiume=Rijeka)にしばらく駐屯しましたが5月の時点ではフィウメ西方のアバッツィア(Abbazia)へと移動していました。大隊は同地でポラ地区のポラ(Pola)〜マルザナ(Marzana)街道、フィウメ(Fiume)、トリエステ(Trieste)〜アバッツィア(Abbazia)間及びサンタルチア(Santa Lucia)〜イソンゾ(Isonzo)街道での警備、対パルチザン戦に従事しました。第1大隊は1945年4月にイストリア半島からゴリチア(Gorizia)へと撤退しましたが、途中で大損害を受け5月にイタリア-オーストリア国境のタルヴィヴィオ(Tarvivio)でアメリカ軍に降伏しました。

 第2大隊は連隊本部とともにボルツァーノに駐屯していましたが、1944年2月にはボルツァーノの南東約80kmのベルーノ(Belluno)へと移動し、対パルチザン作戦に参加しました。また、大隊の分遣隊(約85名:1個中隊規模)も1944年3月から12月にかけてベルーノ地区での対パルチザン作戦に参加していました。1944年9月、大隊の半数がボルツァーノへと帰還し、残り半数は引き続きベルーノ地区での対パルチザン作戦に参加しました。


SS警察連隊「ボーゼン」(1944年5月現在)
SS Polizei Regiment“Bozen”

連隊本部
第1大隊
  大隊本部/本部中隊
  第1中隊
  第2中隊
  第3中隊
  第4中隊
  戦車小隊:L-33軽戦車×2、ランチア1ZM装甲車×1、AB-41装甲車×1
  補給及び輸送段列
第2大隊
  大隊本部/本部中隊
  第5中隊
  第6中隊
  第7中隊
  第8中隊
  戦車小隊:M-13/40軽戦車×1、装甲トラック(Fiat 626NM×1、Lancia RO×1?)
  補給及び輸送段列
第3大隊
  大隊本部/本部中隊
  第9中隊
  第10中隊
  第11中隊
  第12中隊:未編成?(又はローマには派遣されなかった?)
  装甲トラック小隊:装甲トラック(Lancia RO×2?)
  補給及び輸送段列


 1944年5月の時点は連隊の第4大隊もボルツァーノで編成されていましたが、この大隊は新編成のSS警察連隊「アルペンフォーラント」(SS Polizei Regiment “Alpenvorland”)の第1大隊として編入されることになり、すぐに抽出されてしまいました。
 
 1944年9月の時点で連隊本部はボルツァーノに駐屯しており、第1大隊はアバッチア(Abazzia)及びフィウメ(Fiume)に、第2大隊はボルツァーノ(Bolzano)及びベルーノ(Belluno)に駐屯し、第3大隊はローマに連合軍が迫ったため6月からボローニャ(Bologna)へと移動しており、9月まで第14軍の後方地域での保安任務に従事し、12月にはさらに北部のサン・ステファノ・デル・カドレ(Santo Stefano di Cadore)まで後退し、他のドイツ軍部隊やRSI(イタリア社会共和国)部隊とともにピエモンテ地方での対パルチザン作戦に従事しました。このほか9月には連隊への補充兵確保のため、ボルツァーノ地区で警察予備大隊「ボーゼン」(Polizei Ersatz Bataillon “Bozen”)が約500名の兵力により編成されました。

 1945年の始め、第1大隊を除く連隊の各部隊はボルツァーノ地区に戻り、SS及び警察指導者「アルペンフォーラント」(SS und Polizeifuhrer “Alpenvorland”)の管轄下にありました。1945年4月現在のOKWの戦闘序列によると、この時点でSS警察連隊「ボーゼン」は第2大隊、第3大隊及び警察予備大隊「ボーゼン」の3個大隊から編成されていました。最終的に連隊はイタリアパルチザン部隊に降伏しすべての武器、被服及び装備を引き渡しました。

 最後に興味深い記録が残されています。SS警察連隊「ボーゼン」の連隊本部はドイツ軍部隊の復員司令部として転用され、例えばSS第24武装山岳猟兵師団のスペイン人義勇兵もこの司令部経由で復員しています。また、復員の記録には武装SSインド義勇兵団の兵士も含まれており、これはイタリアに派遣されて第278歩兵師団の軽歩兵大隊に配属された第950インド歩兵連隊第9中隊のインド人義勇兵ではないかと思われます。これらの兵士はおそらく戦争末期に戦傷病によりボルツァーノ地区の病院に入院し、回復後に同地の復員司令部を経由して復員手続きが行われたものであろうと思われます。


2002.4.24 新規作成
2005.10.24 一部改定
2009.4.11 改訂版

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