泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第5SS警察連隊
SS-Polizei Regiment 5

 連隊は1942年7月、既存の第64警察大隊及び第322警察大隊(警察連隊「ミッテ」より)を第1大隊及び第2大隊として編入し、セルビアのベオグラードにおいて第5警察連隊として編成されました。
 連隊指揮官のアンドレアス・メイAndreas May警察大佐はすでに1942年1月5日付けで「セルビア治安警察司令官」に任命されており、1942年7月に「第5警察連隊」が編成されると連隊指揮官も兼任しました。
 メイ警察大佐は1944年6月に死亡するまで連隊指揮官とセルビア治安警察指揮官を兼任し、連隊指揮官は第1大隊(第64警察大隊)指揮官のデトレフ・オールドDetlef Ohrt警察少佐が一時就任し、7月15日にフランツ・レヒトハーラーFranz Lechthaler警察中佐が引き継いで1944年後半まで指揮を執り、1945年にはホフマンHoffman警察少佐が連隊の最後の指揮官となりました。

 1942年8月には第3大隊の編成要員としてセルビアのバナトBanat地方の民族ドイツ人が召集され、新兵はドイツ本国の警察訓練連隊「オラニエンブルグ」(Polizei Ausbildungs Regiment "Oranienburg")に送られて訓練の後、11月に連隊の新編成の第3大隊として配属されたとされますが、1943年1月に連隊の第3大隊として第3警察連隊の第1大隊(第66警察大隊)がオランダからセルビアに移動して編入されており、実際には「補助警察大隊」の編成にまわされたのではないかと考えられます。


第5警察連隊
Polizei Regiment 5

連隊本部
第1大隊(第64警察大隊)
第2大隊(第322警察大隊)
第3大隊(新編成)


 第5警察連隊はベオグラードの治安警察司令官「セルビア」(B.d.O. Serbien)の管轄下でパルチザン掃討作戦に従事しており、連隊に配属された警察大隊は1942年6月28日には一足早くスロベニアでのErzian作戦に投入されました。

Erzian作戦
 1942年6月28日~7月末、セルビアのニシュカ・バーニャ(Niska-Banja)~ヤゴディナ(Jagodina)地区でのパルチザン掃討作戦
※スロベニアでのEnzian作戦(1942年7月31日~9月30日)とは別作戦。
作戦参加兵力:
第64警察大隊
第322警察大隊

 1943年1月4日にはセルビア南部(コソボ地域)のミトロビツァ(Mitrovica)地区でパルチザン掃討作戦が実施され、第5警察連隊は下記のような部隊とともに掃討作戦に投入されました。
作戦参加兵力:
第5警察連隊
ブルガリア軍第24師団
セルビア義勇兵団

 1943年1月、新編成の大隊に代わり連隊の第3大隊として第3警察連隊の第1大隊(第66警察大隊)がオランダからセルビアに移動して編入されました。


第5警察連隊
Polizei Regiment 5

連隊本部
第1大隊(第64警察大隊)
第2大隊(第322警察大隊)
第3大隊(第66警察大隊)


 1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第5警察連隊も「第5SS警察連隊」と改称され、連隊はその後も1944年までセルビアで活動し、1944年から1945年にはクロアチアで活動しました。

 1943年4月、連隊は「Adam作戦」及び「Bajcetina-Gledic作戦」に参加し、7月には「Morgenlift作戦」、8月10日~8月18日にはJastrebac山岳地帯での「Stiefelknecht作戦」に参加し、この作戦では連隊はニーシ(Nis)北西の山岳地帯でパルチザン掃討作戦を展開し、その後8月19日にはニーシ北西約50kmのクラグイェバツ(Kragujevac)からベオグラードの南約50kmのアラジェロヴァツ(Arandelovac)へと移動しました。
 1943年9月、連隊の3個大隊はクルシェバツ(Kruševac)の南西~プロクプリエ(Prokuplje)北西地区で、その後はミトロビツァ(Mitrovica)~クルシェバツ(Kruševac)地区で活動しました。連隊は高級SS警察指導者「セルビア、サンジャック及びモンテネグロ」(Höhere SS und Polizeiführer Serbien, Sandschack und Montenegro)の管轄下にあり、トポラ(Topola)~クラグイェバツ(Kragujevac)~クルシェバツ(Kruševac)地区に駐屯していました。

Maiskolben作戦
 1943年10月3日~10月8日、セルビア西部のヴァリェヴォValjevo~チャチャクCocak地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦でパルチザン100名を殺害、容疑者500名を逮捕しました。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊
ブルガリア軍第24師団
セルビア義勇兵団
第12特別編成戦車中隊の一部
第3補助警察大隊
第5補助警察大隊
第4ブランデンブルク連隊第9中隊

Krumm作戦
 1943年10月10日~10月20日、セルビアのチャチャク(Čačak)~ウジツェ(Užice)~ドリナ川沿いのバイナ・ハシュタ(Bajina Bašta)地区にかけての地域で「Maiskolben作戦」後にボスニア東部に向けて逃走するパルチザン部隊への追撃作戦。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊
ブルガリア軍第24師団の一部

Hammolbrater作戦
 1943年10月31日~11月5日、セルビアのチャチャク(Čačak)南方約20kmの山岳地帯でのチェトニク掃討作戦。チェトニク部隊は小競り合いの後に森の中のキャンプを放棄して撤退しました。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊

 「Hammolbrater作戦」後に連隊はクラグイェバツ(Kragujevac)地区に移動し、休養と再編成が行われました。1943年11月~12月の間、連隊の3個大隊は引続き高級SS及び警察指導者「セルビア・サンジャック・モンテネグロ」の管轄下にあり、セルビアのトポラ(Topla)~ポゼク(Pozega)地区に駐屯しました。

Treibagd作戦
 1944年2月16日~3月5日、セルビア中央部のアラジェロヴァツ(Arandelovac)地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊
ブランデンブルク第4連隊第3大隊
セルビア義勇兵団の3個大隊
ブルガリア軍第70歩兵連隊

Cannae作戦
 1944年3月19日~、ドイツ軍によるよるハンガリー占領作戦「Margarethe作戦」の支作戦で、ユーゴスラビアのシルミア(Syrmia)~スラヴォニア(Slavonia)~ポドラヴィナ(Podravina)地区から発起されました。第5SS警察連隊と第12SS警察連隊第2大隊(第104警察大隊)は当時ハンガリーの占領下であったTitel(現セルビア北部)地区で警戒任務に従事しました。
作戦参加兵力:
第8SS騎兵師団「フロリアン・ガイエル」
第1山岳師団の一部
第100猟兵師団
第42猟兵師団
第5SS警察連隊
第12SS警察連隊第2大隊(第104警察大隊)

 第5SS警察連隊は1944年5月13日にエッセEsseg(現オシイェクOsijek)経由でセルビアに帰還し、チャチャク(Čačak)~Ušće~クラリエボ(Kraljevo)地区に展開しました。

Endlich作戦
 1944年6月18日~7月3日、アルバニア~モンテネグロ境界地域での第21山岳軍団の一部によるパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊
SS第21武装山岳師団「スカンダーベク」

Trumpf作戦
 1944年7月10日~7月19日、セルビア中央部のコパオニク(Kopaonik)山地西方地域でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊
第1クロアチア警察義勇連隊の一部
第5クロアチア警察義勇連隊の一部
第15戦車連隊の一部(詳細不明)
ロシア狙撃兵軍団の一部
ブルガリア軍第22師団
ブルガリア軍第27師団
ブルガリア軍第29師団
セルビア義勇兵団(SDK)
セルビア国家警備隊(SDS)
チェトニク突撃軍団/Rasina-Kopaonik集団
チェトニク突撃軍団/第4集団
チェトニク第2コソボ軍団

Draufgänger作戦
 1944年7月18日~7月26日、モンテネグロ~セルビア国境地帯でリム川のパルチザン橋頭堡への攻撃作戦。作戦はチャコル(Cakor)~グシニェ(Gusinje)~アンドリイェヴィツァ(Andrijevica)~ベラネ(Berane)地区の地域で開始され、16ヶ所の村が焼き払われ数百人の住民が殺害されました。ドイツ軍の一部は7月19日にアンドリイェヴィツァ(Andrijevica)の町を占領しましたが反撃により大損害を被り、7月23日にパルチザン第2突撃軍団が総反撃に転じるとムリノ(Murino)地区でドイツ軍を逆に包囲しました。
 7月28日にパルチザン旅団がリム川を渡って西進した隙に第14SS義勇山岳猟兵連隊のみはチャコル(Cakor)を東に向けて突破し、ベーヤ(Pec)方面に脱出しましたが、SS第21武装山岳師団「スカンダーベク」ではアルバニア人兵士400名以上が脱走又は行方不明となり、師団の大部分は崩壊しました。ドイツ軍にとっては決定的な敗北となり、パルチザン部隊はセルビアへの進撃を開始しました。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊の一部
SS第21武装山岳師団「スカンダーベク」
SS第7義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」/第14SS義勇山岳猟兵連隊
ブランデンブルグ部隊
自由アラブ兵団「クレンプラー」Muslimanischen Legion "Krempler"
SS警察防衛連隊「サンジャック」(SS-Polizei Selbstschutz Regiment Sandschak)
第201突撃砲旅団の一部
戦闘団「Steippel」(第181歩兵師団/第363擲弾兵連隊の増強戦闘団)
戦闘団「Bendl」(アルバニア民兵大隊×2個大隊)
ブルガリア軍第24歩兵師団
Vallnetari部隊(コソボ出身のアルバニア人義勇兵部隊)
チェトニク部隊

Rübezahl I作戦
 1944年8月3日~8月30日、ボスニア東部でのパルチザン掃討作戦。作戦はドイツ軍第5SS山岳軍団の指揮下で実施され、第一段階としてボスニア東部でパルチザン第36師団と第38師団を攻撃してドリナ川沿いのフォチャ地区に圧迫して孤立させようとしました。8月12日からは作戦の主要段階としてモンテネグロのドゥルミトル山地でパルチザンの主力を包囲しようとしました。
 8月20日~22日の戦闘によりセルビアからクロアチア独立国に西進していたパルチザン部隊は包囲されて大損害を被り、8月22日に連合軍輸送機が山岳地帯の破壊された飛行場に強行着陸して負傷者約1,000名をイタリアの病院に空輸しました。
 しかし8月末までに戦闘力を維持した第1プロレタリアート軍団の師団がモンテネグロからセルビア南西部へと進撃し、8月30日にルーマニアとブルガリアが枢軸陣営から離脱したことから、進撃したソ連軍との連絡を確立する道が開かれました。
 ドイツ軍はパルチザンの死者2,025名、さらに3,370名が死傷したと推計し、242名を捕虜としたと主張しました。作戦の結果マケドニアへのパルチザンの進撃は阻止されましたが、燃料不足と兵力不足により作戦には最初から限界があり、主要段階が完了すると第1山岳師団はすぐに撤退しなければならず、ベオグラードへの道路と鉄道はパルチザンからの脅威に曝される状況となりました。
作戦参加兵力:
第5SS警察連隊の一部
第1山岳師団
第181歩兵師団の一部
第369(クロアチア)歩兵師団の一部
「ブランデンブルク」第2連隊
第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」
SS第13武装山岳師団「ハンジャール」の一部
SS第21武装山岳師団「スカンダーベク」
自由アラブ兵団「クレンプラー」(Muslimanischen Legion “Krempler”)の一部
SS警察防衛連隊「サンジャック」(SS-Polizei Selbstschutz Regiment Sandschak)
モンテネグロ義勇兵団(Montenegrinisches Freiwilligen Korps)
  第1連隊
  第3連隊
チェトニク2個旅団(兵力約2,000名で第181歩兵師団に従属)
ウスタシ第1旅団
ウスタシ第11旅団
ウスタシ第8警備旅団
ウスタシ第9警備旅団
ブルガリア軍第24師団第61連隊

 1944年8月下旬、第5SS警察連隊はバリエボ(Valjevo)の第69軍団へと送られ、9月26日からはハンス・フェルバー歩兵大将の「セルビア軍司令部」に配属されました。
 10月初めにはベオグラード(Belgrade)地区南方に移動し、10月中旬から同地区で防衛戦に投入されましたが、10月15日にはベオグラードの中心部がソ連軍とパルチザン部隊に制圧され、連隊はベオグラード西方のゼムン(Zemun)地区へと後退し、「セルビア軍司令部」は10月27日に解散されました。


セルビア軍司令部(1944年10月13日現在)
Armeeabteilung Serbien

セルビア国家警備隊
第5SS警察連隊
・ミュラーMüller将軍グループ
第1山岳師団
第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」
・シュネッケンブルガーSchneckenburger将軍グループ
第2連隊「ブランデンブルク」
第18SS警察山岳連隊
第92(自動車化)擲弾兵旅団
第117猟兵師団(輸送中)


 10月22日、第5SS警察連隊はゼムン地区に後退してきた他の警察部隊や武装SS及び陸軍部隊と共にベオグラード防衛司令官のステファンStephan少将が指揮する特別編成戦闘団「ステファン」(Kampfgruppe z.b.V. "Stephan")に編入され、その後特別編成師団「ステファン」(Division z.b.V. "Stephan")へと改称され、10月25日~30日の間はエッセEsseg(現オシイェクOsijek)地区で街道警備とパルチザン掃討作戦に従事したとされますが、戦闘団の詳細はわかっていません。


特別編成戦闘団「ステファン」
Kampfgruppe z.b.V. "Stephan"

第5SS警察連隊本部
  第1大隊(第64警察大隊)
  第2大隊(第322警察大隊)
第11警察戦車中隊


 ベオグラードを失ったドイツ軍はクロアチアのドラヴァ川~ダニューブ川~ドリナ川の防衛線へと計画的な撤退を行なっており、10月24日の時点でソ連軍とパルチザン部隊の攻撃に備えた「grün」防衛線への後退計画によると、第5SS警察連隊は第264歩兵師団の戦闘団「Zimmermann」に配属されており戦闘団「Salewski」、戦闘団「Zirngiebel」、戦闘団「Lindenblatt」とともに第264歩兵師団の防衛線に配置されました。
 戦闘団「Zimmermann」は左翼の戦闘団「Zirngiebel」と右翼の戦闘団「Lindenblatt」の間にSubotiste西端~プーチンチ(Pećinci)北端までの約7kmの戦区を担当しました。第264歩兵師団の戦闘団は北側から順に下記のように配置されていました。


戦闘団「Salewzki」(Kampfgruppe "Salewski")
Vrdnik~Irig地区

黒シャツ大隊(Schwarzhemden Batalion)
空軍工兵中隊


戦闘団「Zirngiebel」(Kampfgruppe "Zirngiebel")
Krusedolの北端~プーチンチ(Pećinci)北端

第750猟兵連隊
第18SS警察山岳猟兵連隊
第3SS警察連隊の2個中隊
第811保安大隊
第668砲兵連隊第3大隊の3個中隊:10.5cm軽榴弾砲(le. F.H. 18)


戦闘団「Zimmermann」(Kampfgruppe "Zimmermann")
プーチンチ(Pećinci)北端~Subotište西端

第5SS警察連隊
SS第509砲兵連隊第4大隊
  1個砲兵中隊:15cm重榴弾砲(s.F.H. 18)
  1個砲兵中隊:10cm重カノン砲(10cm Kan. 18)
  1個砲兵中隊:イタリア製榴弾砲(F.H.(i))
SS第505軍団砲兵大隊第1中隊:15cm重榴弾砲(s.F.H. 18)


戦闘団「Lindenblatt」(Kampfgruppe "Lindenblatt")
Subotište西端~ニキッチ(Nikinci)北東端

第893擲弾兵連隊第3大隊
第264工兵大隊第1中隊
第30空軍大隊第2中隊
第606保安大隊第1中隊
第264歩兵師団の1個砲兵中隊:10cmカノン砲(10cm Kan.)
第264歩兵師団の1個砲兵中隊:軽榴弾砲(le.F.H.)


 10月25日、第18SS警察山岳猟兵連隊に配属されていた第811保安大隊はソ連軍の攻撃により大損害を被って突破され、これに対して大隊長は自らイタリア戦車に搭乗してブランデンブルク大隊とともに反撃した際に戦死しました。その夜にもソ連軍の攻撃は続き、第18SS警察山岳猟兵連隊は防衛陣地から追い出され、連隊本部は包囲を逃れてかろうじて後退することができました。
 第18SS警察山岳猟兵連隊はルーマ(Ruma)~Iring防衛線の数km西側の「braun」防衛線へと後退し、連隊の右翼には第750猟兵連隊、左翼にはブランデンブルク大隊が布陣して新しい防衛線が構築されましたが、第811保安大隊との連絡は途絶していました。
 ソ連軍第236狙撃兵師団の一部とパルチザン部隊は「braun」防衛線への後退に対して追撃をかけており10月25日にはIringが陥落し、10月26日午後5時30分にはさらに「gelb」防衛線への後退命令が発令され、この時点での第264歩兵師団の戦闘団は次のようになっていました。


戦闘団「Zirngiebel」(Kampfgruppe "Zirngiebel")
Jazak北端~Paviovci北端

第750猟兵連隊
第18SS警察山岳猟兵連隊
ブランデンブルク連隊の1個中隊
第811保安大隊
第668砲兵連隊第3大隊


戦闘団「Zimmermann」(Kampfgruppe "Zimmermann")
Paviovci北端~Ruma南南西1kmの鉄道踏切

第5SS警察連隊
擲弾兵連隊「Veste Belgrad」第2大隊
SS第509砲兵連隊第4大隊
  第11中隊
  第12中隊
  「Belgrad」第1中隊
  SS第505砲兵大隊第1中隊
第118工兵大隊第3中隊


戦闘団「Lindenblatt」(Kampfgruppe "Lindenblatt")
Ruma南南西1kmの鉄道踏切~Ufer~サヴァ川北岸

第893擲弾兵連隊第3大隊
第30空軍大隊第2中隊
第812保安大隊第1中隊
第264工兵大隊第1中隊
SS第505砲兵連隊第3大隊
第264砲兵連隊第6中隊


 その後も11月初めの時点で第5SS警察連隊は第18SS警察山岳猟兵連隊、第765猟兵連隊とともにフルヴァツカ・ミトロヴィツァ(Hrvatska Mitrovica、現スレムスカ・ミトロビツァSremska Mitrovica)北方のMandelos地区の防衛線へと後退しており、戦闘団「Lindenblatt」(Kampfgruppe "Lindenblatt")に配属されていました。
 11月9日の時点で第5SS警察連隊はクロアチアのErdevik~Kuzmin地区で引き続き第18SS警察山岳猟兵連隊、第765猟兵連隊とともに防衛戦に従事した後、ミトロビツァ(Mitrovica)及びゼムリン(Semlin)を経由してシド(Sid)南方へと後退し、12月中旬にはヴィンコヴチ(Vinkovci)の北西地区で第34軍団の軍団戦闘団「Kübler」に配属されていました。

 連隊の第3大隊は1945年1月以降は連隊主力から分離しており、終戦までロガーシュカ・スラティナ(Rogaska Slatina)地区で活動しました。連隊本部と第1大隊及び第2大隊からなる連隊の主力は1945年1月から4月にかけてクロアチアのVoćin地区にあり、他の警察部隊とともに特別編成師団「ゲイガー」(Division z.b.V "Geiger")(特別編成師団「ステファン」から改称)に配属されていました。
 1945年4月から5月にかけて連隊の主力はザグレブへと後退し、5月初めにはマールブルクMarburugu(現マルボルMarbor)地区近郊で第18SS警察山岳猟兵連隊と合流し、以後両連隊は同一行動を取り、5月9日にオーストリア国境を越えた後、5月13日に西側連合軍に降伏しました。
 なお、5月13日にスロベニアのツェリェ(Celje)地区で降伏したとの資料もあり、あるいは連隊の一部はここでパルチザン側に降伏したのかもしれません。


2001.8.16 新規作成
2002.2.13 一部改訂
2004.10.1 改訂版
2008.8.15 改訂2版
2010.1.20 一部修正
2018.9.27 改訂3版
2020.7.1 改訂4版
2023.11.20 改訂5版
2025.3.22 一部修正
2025.4.1 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/