泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第20SS警察連隊
20. SS Polizei Regiment

 連隊は1942年7月、警察連隊「ベーメン」(Polizei Regiment Behmen)をもとに第20警察連隊としてベーメン・メーレン保護領(チェコ)のプラハ(Prague)で編成されました。編成の母体となった警察連隊「ベーメン」は1938年末に編成され、連隊にはそれぞれプラハ(Prague)、Kolin及びKlattau(現クラトビKlatovy)の各都市に駐屯していた3個大隊がそのまま編入されました。
 連隊の各大隊は4個警察中隊から構成されており、ドイツ人警察官を基幹要員として、ベーメン・メーレン保護領(チェコ)のドイツ系住民から募集した警察官が多数を占めていました。
 1943年2月24日、各警察連隊は名称のみが一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第20警察連隊も「第20SS警察連隊」と改称されました。


第20SS警察連隊
SS Polizei Regiment

連隊本部
第1大隊
第2大隊
第3大隊


 1943年4月、第20SS警察連隊の第1大隊は第33SS警察狙撃兵連隊の第1大隊とし転属し、代わりに新しい第1大隊が警察補充訓練大隊「クラーゲンフルト」(Polizei Ausbildung Bataillon "Klagenfurt")から編成されました。
 1943年10月、この新しい第1大隊はイタリアに送られ、ローマ地区で独立大隊として運用され、下記のようなパルチザン掃討作戦に参加しました。

Oberst Schanze作戦
 1944年3月29日〜4月7日、ローマの北約130kmのPerugia地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第20SS警察連隊第1大隊
リエーティ地方軍政司令部(Platzkommandantur Rieti)の警戒部隊
「ブランデンブルク」第3連隊第2大隊
第103戦車訓練大隊
第190戦車訓練大隊
第190戦車大隊の一部
第69戦車連隊本部

Monte Tancia作戦
 1944年4月7日〜4月17日
作戦参加兵力:
第20SS警察連隊第1大隊
「ブランデンブルク」第3連隊第2大隊

Avanti作戦
 1944年10月12日〜10月14日、マジョーレ湖(Lago Maggiore)北側のスイス国境沿いのオッソラ(Ossola)渓谷で「オッソラパルチザン解放区」を攻撃したパルチザン掃討作戦。この地域には守備隊としてドイツの国境警備警察(Grenzpolizei)、スロバキア建設旅団、第II/198グルジア大隊及び小規模なRSI郷土防衛部隊などの小部隊が駐屯していましたが、9月にパルチザン部隊が弱体な守備隊を排除してオッソラ渓谷全体を占領し、10月には「解放共和国」の設立を宣言しました。【補足−1】
 渓谷自体には戦略的価値はありませんがRSI政府の首都であるコモ(Como)の目の前であり、威信回復のために奪還は必須でした。攻撃は1944年10月12日から開始され、10月14日の第三次攻撃部隊が「共和国」の中心地であるドモロッソラ(Domolossola)に入り組織的な抵抗は終息しました。
作戦参加兵力:
第15SS警察連隊の一部
第20SS警察連隊第1大隊
第80海軍戦隊

 1944年6月の時点で第1大隊は引続きローマ地区及びエミリア(Emilia)地方の西部に駐屯しており、その後9月にはさらにビエラ(Biella)に移動しました。第1大隊はその後も引き続きイタリア北部に留まり独立大隊として運用され、1945年3月現在のOKWの戦闘序列によると大隊の4個中隊はSS及び警察指導者「上イタリア西部」(SSPF Oberitalien-West)の指揮下にありました。

 第2大隊は1944年3月にハンガリーに送られて占領任務に従事し、8月にはハンガリーで再建・再編成中の第1SS警察連隊の第1大隊として編入されました。第3大隊についはあまり情報がありませんが、1944年末の時点で連隊本部とともに引き続きベーメン・メーレン保護領(チェコ)のKlattan(現クラトビKlatovy)に駐屯しており、そのまま終戦を迎えたようです。


【補足−1】
 「スロバキア建設旅団」は1943年11月1日〜1944年1月12日にかけてラベンナ(Ravenna)〜リミニ(Rimini)地区で編成され、2月13日〜3月15日にかけてモンテ・サン・ビアージョ(Monte San Biagio)〜フォンディ(Fondi)地区で「アドルフ・ヒトラー防衛線」の工事に従事しており、3月20日に時点でスロバキア軍の将校147名、下士官169名、兵士4,176からなっていました。
 1944年6月1日には「スロバキア第2建設師団」と改称され、ドイツ軍の後退にあわせてイタリア北部へと後退し、6月中旬にはボローニャ(Bologna)〜サン・マリノ(San Marino)地区で「ゴシック防衛線」の工事に従事し、その後ポー川の橋梁復旧工事に従事しました。8月末の時点で師団の兵員は3,500名に減少しており、本国からの兵士の補充が途絶えたことから帰郷休暇も許可されなくなり、物資の不足と合わせて兵員の士気は落ちる一方でした。
 9月末にはマントバ(Mantova)〜ボルゴフォルテ(Borgoforte)〜オスティリア(Ostiglia)地区に移動し、10月初めにはミラノ(Milano)南方のピアチェンツァ(Piacenza)〜パビア(Pavia)〜San Anglo地区にありました。師団は自動車116台と馬匹牽引の荷車を装備しており、補給と整備の不足により約半数は使用不能でしたが、機動力のある建設部隊は最後まで貴重な存在でした。

 「第II/198グルジア大隊」(Georgisches Feld-Bataillon II./198)は1942年11月3日にラドム近郊でグルジア兵団の第4訓練大隊から編成されました。本来はコーカサスの第198歩兵師団に配属される予定でしたが、1943年5月2日付けで南方軍集団に配属されました。1943年末、大隊はフランスに送られ、1944年にはイタリアのトリノ(Trino)地区に配備され、9月にはオッソラ渓谷に在ったようですがその後の状況は不明です。
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2002.11.25 新規作成
2007.10.26 改訂版
2022.9.26 改訂2版
2023.11.24 一部追記

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