泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第18SS警察山岳猟兵連隊
18. SS-Polizei-Gebirgsjager-Regiment

 「バトル・オブ・カンプグルッペ」第32回~34回の「パルチザンとの戦い」で取り上げられた第18SS警察山岳猟兵連隊は、警察連隊で唯一の「山岳猟兵連隊」として編成され、オーバークライン~フィンランド~ギリシャで戦い、ユーゴスラヴィアで終戦を迎えました。ところが、「バトル・オブ・カンプグルッペ」はギリシャからの撤退まで終わっており、ユーゴスラヴィアでの戦いは詳しく紹介されていません。わからないとなれば知りたいのが人情ですよね(笑
ギリシャからの撤退以降はこちらから

1.創設

 1942年1月、将来のコーカサス山岳地帯での治安維持任務のため1個警察山岳猟兵連隊の編成が計画されました。この計画では連隊は3個警察大隊を基幹として1個警察装甲車大隊、1個山岳重装備中隊、1個騎兵小隊、1個通信小隊、1個山岳砲兵大隊、1個工兵小隊から編成される予定でした。
 1942年5月23日付の治安警察長官通達により警察山岳猟兵連隊の編成が開始され、初代連隊長にはヘルマン・フランツ警察大佐が任命されました。1942年7月にはバイエルン・アルプスのガルミッシュ・パルテンキルヒェン周辺(現在でも有名なスキーリゾート地)において「第18警察山岳猟兵連隊」として編成を完了した時点では下記のような編成となりました。


第18警察山岳猟兵連隊
Polizei-Gebirgsjager-Regiment 18

連隊本部
  山岳対戦車小隊
  オートバイ小隊
  工兵小隊
第1大隊(第302警察大隊を編入)
第2大隊(第312警察大隊を編入)
第3大隊(第325警察大隊を編入)
警察装甲車大隊
警察山岳猟兵重装備中隊(迫撃砲12門、重機関銃12門装備)
警察山岳騎兵中隊
警察山岳通信中隊
警察山岳輸送段列


 第18警察山岳猟兵連隊は北部スロベニアでパルチザン掃討戦に従事することになり、7月末からスロベニアのオーバークライン地区に駐屯し、8月にはブルゴス山系、ポクリュカ山系、イエロヴツァ、スタイナーアルプス及びトウッハイナー渓谷地方でのパルチザン掃討作戦に出動しました。8月31日から9月2日までの間はイタリアとスロベニアの国境地域に移動した後、9月8日から9月26日の間には再びイエロヴツァ、ヘルツォツクヴァルト、ザンクト-マルティンにおいてパルチザン掃討作戦を実施しました。この一連の作戦によりオーバークラインでのパルチザンの活動は沈静化したため、連隊は10月4日にはスロベニアからバイエルン・アルプス地区に帰還し、その月は休養と再装備が行われました。この間に連隊には冬期用装備が支給されるなどコーカサス地方への出動準備が精力的に進められ、11月中旬には治安警察司令官クルト・ダリューゲSS上級大将兼警察大将を迎えての壮行パレードが行われるとともに、ライザー警察大尉率いる先遣隊がコーカサスに向けて出発しました。

2.フィンランドへの出動

 第18警察山岳猟兵連隊の鉄道輸送は1942年11月末から開始され、翌日には連隊の輸送本隊も出発して合計11本の輸送列車(機関車11両、貨車約550両)に分乗してガルミッシュを出発しました。しかし、コーカサスに向かうはずの連隊は12月1日から3日にかけてなぜかダンツィヒに到着し、ここで初めて連隊はフィランドに渡りラップランドの第20山岳軍に配属されることが伝えられました。なお、連隊の警察装甲車大隊だけは第2警察連隊に転属することとなり、ここで分離されてベラルーシのミンスクへと移動しました。
 連隊は12月25日から27日にかけてまず第1大隊がフィンランドのハンコ(Hanco)に渡り、さらに鉄道輸送により12月30日にはオウル(Oulu)に到着しました。続いて第2大隊が12月28日から30日にかけてハンコに渡り、1943年1月1日にはオウルに到着しまし、最後の第3大隊も1942年12月31日から1943年1月2日までの間にハンコに渡り、連隊は1月3日にはオウルに再び集結しました。


第20山岳軍(ラップランド軍)

第19山岳軍団
  第2山岳師団
  第3山岳師団
第36軍団
  第169歩兵師団
  第163歩兵師団
第17山岳軍団
  第6SS山岳師団「ノルト」
  第7山岳師団


 第18警察山岳猟兵連隊は第17山岳軍団に配属され軍団の後方地域での治安任務に従事することとなり、第1大隊と第2大隊はオウルに、第3大隊及びその他の部隊はテルヴォラに駐屯し、重装備山岳中隊はテルヴォラとロバニエミ街道の中間に配置されました。1943年2月末までの期間にフィンランドの天候にも慣れ、十分な装備を支給された連隊は「SS街道」と呼ばれる最前線に移動し、第6SS山岳師団「ノルト」に配属されて2kmの前線を担当することとなりました。この地点はクーサモ~ロウヒ街道(通称SS街道)とキエスティンキ~ロウヒ鉄道間の重要地点であり、また右翼の第7山岳猟兵師団と左翼の第6SS山岳師団「ノルト」の接合点にもなっていました。連隊は担当地区の街道側に第2大隊が、鉄道側には第1大隊が布陣し、第1大隊の後方1kmに連隊本部が設けられました。なお第3大隊はそのまま後方で予備部隊として待機し、引き続き治安任務に従事したものと思われます。
 5月になると敵の偵察活動が活発となり、5月28日深夜1時頃からは第1大隊の陣地への攻撃が始まり、第3中隊が立て篭もる「シュネッケンベアクの丘」が戦闘の焦点となりました。丘と塹壕では激しい白兵戦が展開され、第3中隊はついにこの攻撃を撃退することに成功しました。翌29日にはロバニエミから第20山岳軍団のディートル上級大将が連隊本部を訪れ、さらに第6SS山岳師団「ノルト」のクラインハイスターカンプSS中将も戦況視察に訪れました。この戦闘の功績により連隊の兵士には多数の鉄十字章が授与されました。その後はこの方面での戦闘は散発的となり、連隊は1944年7月始めまで陣地を守りとおすことができました。
 なお、1943年2月24日付けで各警察連隊は名称のみが一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称されることとなり、これに伴い第18警察山岳猟兵連隊も「第18SS警察山岳猟兵連隊」と改称されました。

3.ギリシャへ移動

 1943年7月、第18SS警察山岳猟兵連隊はギリシャへと移動することとなり、7月10日には予備部隊となってオウルへと移動し、7月31日には海路ダンツイヒに到着しました。連隊はダンツィヒから鉄道輸送され、まず第1大隊が8月2日にダンツィヒを出発し翌日に第2大隊、8月4日には第3大隊と連隊本部が出発しました。連隊はガルミッシュ・パルテンキルヒェンに立ち寄ることなく直接ギリシャに向かい、8月15日にはギリシャのラミアに到着しました。

 1941年以降ギリシャはドイツ、イタリア、ブルガリアの三国により分割占領されており、ギリシャ中部から南部の地域はイタリアの占領下にありました。しかし、イタリアの統治政策の失敗によりギリシャはギリシャ人民解放軍(ELAS)、ギリシャ解放戦線(EAM)、民族社会解放(EKKA)、ギリシャ共産党(KKE)などのパルチザン組織がその勢力圏を拡大しつつあり、特にEAMとELASの兵力は8万名にも達していました。1943年7月24日、イタリアではムッソリーニが逮捕・幽閉され、新しいバドリオ政権が水面下で連合軍との降服交渉を行っていることは明らかでした。このため7月26日には近い将来に予想されるイタリアの枢軸陣営からの離脱に備えた軍事的諸作戦である「枢軸作戦」が策定されていました。イタリア降服が現実となればギリシャ駐在ドイツ軍はイタリア軍を武装解除するとともに、この期に乗じて攻勢を仕掛けてくるであろうパルチザン部隊に対抗して速やかに要地を確保しなければならず、兵力はいくらあっても足りませんでした。

 当時アテネにはイタリア戦車のL6/40軽戦車とL6突撃砲合計12両があり、訓練などに使用されていましたが、1943年7月末にはこのうちのL6/40軽戦車4両により戦車小隊が編成されて連隊に配属されました。また、当初連隊への配属が予定された「警察山岳砲兵大隊」の編成は大幅に遅れており、このため連隊は重火器の不足に悩まされていました。警察山岳砲兵大隊の編成は1943年2月に開始されましたが、編成途中の大隊はベラルーシに送られてパルチザン掃討作戦「Hornung作戦」に投入され、1943年夏になってようやく編成を完了し、10月21日にアテネに到着してようやく本来の連隊と合流することができました。【補足-1】


第18SS警察山岳猟兵連隊
SS-Polizei-Gebirgsjager-Regiment 18

連隊本部
  山岳対戦車小隊
  オートバイ小隊
  工兵小隊
第1警察山岳猟兵大隊
  第1~第3中隊、第4重装備中隊
第2警察山岳猟兵大隊
  第1~第3中隊、第4重装備中隊
第3警察山岳猟兵大隊
  第1~第3中隊、第4重装備中隊
警察山岳砲兵大隊
  第1~第3砲兵中隊(75mm山砲36型×各4門)
警察戦車小隊(L6/40軽戦車×4両装備)
警察山岳猟兵重装備中隊(迫撃砲12門、重機関銃12門装備)
警察山岳騎馬中隊
警察山岳通信中隊
警察山岳輸送段列


 第18SS警察山岳猟兵連隊の第1大隊と第2大隊はギリシャ到着から9月末までの間はアムピッサ地区に駐屯しており、9月8日のイタリア降伏時には同地のイタリア軍の武装解除と治安維持にあたったものと思われます。第3大隊だけはギリシャ到着直後の8月18日から連隊の本隊と分かれて別行動をしており、ブランデンブルク師団の第1連隊(実質は1個大隊規模)とともにドムブレ方面でのパルチザン掃討作戦に従事しました。9月8日以後は第11空軍地上師団に臨時に編入されてイタリア軍の武装解除を行い、その後は第21駆逐戦隊や沿岸警備戦隊「アソティカ」とともにキクラデス諸島に渡りました。9月23日、第3大隊がアンドロス島に上陸した際にはイタリア軍守備隊との戦闘になりましたがこれを制圧し、その後もキクラデス諸島のイタリア軍の武装解除を行い、1944年1月まではキクラデス諸島の守備隊として駐屯しました。
 
 1943年10月になると第1大隊はアテネ北方~コリント方面へ出動し、第2大隊はコパイス方面で第11空軍地上師団の一部とともにELAS(ギリシャ人民解放軍)に対抗しました。1944年1月には第3大隊を除く連隊主力は海軍部隊とともにコリント湾岸へ投入され、ドレブレナ方面からドレブレナ南方の山岳地帯で作戦行動を展開しました。
 1944年2月1日から7日にかけてはキクラデス諸島から帰還した第3大隊も連隊に合流し、連隊全力によるパルチザン掃討作戦が展開されました。連隊は第845アラブ歩兵大隊などと共にELAS掃討作戦を展開し、レヴァディア~キリアキ~ガラキディオン付近のイテア高地へ出動しました。この作戦ではELAS部隊の激しい抵抗を排除してイギリス軍コマンド部隊の無線基地2箇所を急襲し、イギリス軍将校4名を捕虜としました。
 その後、第18SS警察山岳猟兵連隊は再び大隊ごとの運用となり、第2大隊はラミアへと移動してテルモピレーを含む補給路の治安維持にあたり、第3大隊はアラホヴアとデルフィーに移動しました。第1大隊はアテネ地区に留まりパルチザンに占拠されて奪略を受けたパルニスの結核療養所やマラトンの貯水池施設の再奪回作戦などに投入されました。
 
 1944年6月初め、第18SS山岳猟兵連隊はアテネのエレウシス地区に集結し、第1大隊を除く連隊主力は第117猟兵師団に一時的に配属され、ペロポネス半島での「ナッター(Natter)作戦」に投入されました。この作戦には王政復古派のパパドンゴナス大佐指揮のギリシャ義勇兵部隊(総兵力約8,000名)も参加しており、義勇大隊「レオニダス」(スパルタ)、第3ギリシャ警察大隊(カラマイ)、第2「エブゾネ」連隊の第3大隊(トリポリス)などの部隊が第117猟兵師団の1個戦闘団、第18SS山岳猟兵連隊とともにこの作戦に参加しました。
 第18SS山岳猟兵連隊の第2大隊、第3大隊及び警察山岳砲兵大隊(第3砲兵中隊を除く)は6月10日からメガロポリス東方の作戦準備地域に進出し、翌11日から作戦は開始されました。第2大隊と第3大隊は12日までにカルテセ、カトなどの集落を掃討し、タイゲトス山系を北から南へと縦断する過程でカキ・ラチ山(1,526m)やマレヴォス山(1,612m)にも登頂し、さらに南方へ逃避したELAS部隊を追ってビルガキ山(1,730m)やクシロブ二山(1,852m)などの山々で追撃戦を展開しました。さらに6月24日からはスパルタ地区から東方のパルノン山系へと攻撃が続行され、第2大隊が左翼、第3大隊が中央、歩兵部隊として投入された砲兵大隊が右翼となって前進しました。作戦は7月5日には終了し、部隊はスパルタからトリポリスを経由して、第2大隊はラミア、第3大隊はアムピッサヘと帰還しました。
 
 1944年8月5日から25日までの間、Karpenisi南方からアムピッサ(Amfissa)西方にかけての地域で「Kreuzotter作戦」が展開されました。アグリニオン(Agrinio)~マクリニア(Makrynia)地区からは第104猟兵師団を主力とする部隊がギリシャ義勇兵大隊「Agrinio」とともに進発し、ELAS部隊を追ってThermo~Aetopetra地区を進み、7日にはBerikos地区へと達しました。また、他の一隊は8月6日にアグリニオンからAyios Vlasisへと前進し、その後は北に向かいChouni及びSidera地区へと達しました。
 この作戦に呼応して第18SS山岳猟兵連隊の第3大隊とギリシャ保安大隊「アムピッサ」により編成された戦闘団「ハッカート」は8月4日にアムピッサを進発し、西方約10kmでELAS支配下のカルティナ(karutia)を攻撃しました。しかし、戦闘団は8月5日にカルティナでELAS第5旅団の待ち伏せ攻撃を受け、ハッカート警察中佐を始め将校2名と下士官・兵100名が戦死し、ウェーバー警察中佐以下105名が捕虜となる大損害を被りました。急報を受けて第2大隊に緊急出動が下令され、翌8月6日に大隊がカルティナに到着した時には村はもぬけの殻であり、老婆一人と戦死した兵士の頭部、手足、動物の死骸の山が残されていました。捜索の結果、隠れていた負傷者9名を保護し大隊はアムピッサに帰還しました。【補足ー2】
 
 この後、8月中旬にはSS第18山岳猟兵連隊の第2大隊とSS第4警察擲弾兵師団の一部によるラミアからカルペネシオンへの掃討作戦、8月末には第1大隊を除くSS第18山岳猟兵連隊と第11空軍地上師団の1個連隊によるリドリキオンへの掃討作戦が実施されましたが、パルチザン部隊は強化される一方であり完全に押さえ込むことは不可能でした。


SS第18山岳猟兵連隊第1大隊(1944年8月15日現在)
第1大隊
  大隊本部 将校:3名、下士官:12名、兵:73名
  第1中隊 将校:2名、下士官:28名、兵:184名
  第2中隊 将校:1名、下士官:20名、兵:190名
  第3中隊 将校:2名、下士官:23名、兵:172名
  第4中隊 将校:3名、下士官:25名、兵:161名
合計:899名


4.ギリシャからの撤退

 1944年8月23日、ルーマニアのミハイ国王はアントネスク元帥を罷免し、新首相にセナテスク将軍を指名してソ連との休戦条件を受諾し、8月25日には早くもドイツに戦線布告しました。続いて8月26日にはブルガリアが中立を宣言し、9月4日には枢軸同盟からの脱退を宣言しました。しかしソ連軍は中立を認めず、9月5日に一方的にブルガリアに宣戦布告し9月8日にはブルガリア領内に侵攻を開始しました。9月9日にはブルガリア「祖国戦線」がクーデターにより政権を奪取し、新生ブルガリア政府は9月11日にドイツに対して戦線布告する事態となりました。こうして東部戦線南翼は崩壊し、ハンガリー南部~ルーマニア~ブルガリアとユーゴスラヴィアとの国境地帯には巨大な戦線の空白地帯が出現しました。このままではギリシャ・アルバニア方面のE軍集団が孤立することは明白であり、ドイツ軍はギリシャ・アルバニア方面からの総撤退を開始しました。

 ユーゴスラビア南部のマケドニア地方はブルガリアの占領地域であり、ギリシャからユーゴスラビアへの撤退路であるベオグラード~ニシェ~スコピエを結ぶ幹線鉄道と主要道路確保のためにブランデンブルク師団と第1山岳師団がニーシ地区へ、第11空軍地上師団はマケドニアのスコピエ地区へと送られ、ブルガリアとの国境地帯が固められました。またエーゲ海の各島からの撤退も開始され、クレタ島からは第22歩兵師団が空輸されてスコピエ地区へ、ロードス島からは突撃師団「ロードス」の擲弾兵連隊がアテネへと空輸され、さらにベオグラード地区へと空輸されました。
 一方、ギリシャにおいて対パルチザン戦に従事していた第4SS警察機甲擲弾兵師団は、8月27日からパルチザン占領地区を強行突破してベオグラード北方のハンガリー~ルーマニア国境地帯のティミシュアラ(Timisoora)地区へと緊急輸送され、ハンガリー第3軍の第57軍団に配属されて南ウクライナ方面軍の南翼の防衛に投入されました。
 
 第18SS警察山岳猟兵連隊はペロポネス半島に駐屯する第117猟兵師団、第41要塞師団等の撤退を援護するため、第1大隊と警察山岳砲兵大隊がコリント~アテネ間の街道警備に投入され、第3大隊は海上輸送に備えてイテア~アンフィサ~グラヴィア間の街道警備を担当しました。その後連隊はベオグラード北方のブルシャツ(Vrsac)地区の防衛に投入されることとなり、ユーゴスラヴィアへと移動を開始しました。
 第18SS警察山岳猟兵連隊はサロニカ~スコピエ~クラグイェバツ(Kragujevac)~トパラ(Topola)を経由してベオグラード(Belgrade)をめざし、さらにブルシャツ(Vrsac)地区へと向うこととなりました。9月16日、第18SS警察山岳猟兵連隊の連隊本部はレバディアを、第1大隊はアテネを出発し、17日から18日にかけて山岳砲兵大隊と第2大隊がリアノクラディオンを出発しました。第3大隊は後衛となりELAS(ギリシャ人民解放軍)の追撃を振り切り9月23日にリアノクラディオンを出発しました。撤退作戦妨害を図るELASの鉄道、道路への攻撃やイギリス軍の空襲も相次ぎ、連隊本部はラリッサ西方で24時間足止めされた他、第2大隊と山岳砲兵大隊はイギリス空軍の空襲を受けました。

5.セルビアでの防衛戦

 1944年9月18日、連隊の第1大隊(第2中隊を除く)はクラグイェバツに到着し、第2大隊は第1大隊より1日遅れてミトロヴィツァ(Mitrovica)~クラリエヴォ(Kraljyvo)を経由してクラグイェバツに到着しました。クラグイェバツからベオグラードまでの約30kmの行程の途中で街道は約300名のパルチザン部隊により数箇所で封鎖されており、第1大隊の先遣部隊であるBlaschke警察中尉の指揮する第3中隊はその都度パルチザン部隊を撃退しながら前進しなければならず、中隊は早くも数人の死傷者を出しました。9月21日の午後、第1大隊はベオグラードの南部郊外に到着し、その後さらにベオグラードから北西約20kmのヤブカ(Jabuka)へと前進しましたが、9月25日に第1大隊がヤブカに到着すると目的地はアルマズルイ山脈のSzaskabanya地区へと変更されました。

 ルーマニアを横断したソ連軍第3ウクライナ戦線部隊はトランシルバニア・アルプスを越えてハンガリー~ユーゴスラヴィア国境を目指していました。ベオグラードにはシュネッケンブルガー司令部(Generalkommando Schneckenburger)が新設され、ベオグラードとバナト地方(ダニューブ川北側)の防衛のために第18SS警察山岳猟兵連隊と第92(自動車化)擲弾兵旅団が投入されました。Szaskabanya地区へは第92(自動車化)擲弾兵旅団の一部も派遣されており、Bothner警察大尉指揮の第1中隊は陸軍の工兵とともに峠にダイナマイトを仕掛け、ソ連軍偵察部隊の接近を妨害しました。大隊は2日間に渡りソ連軍の足止めに成功した後、9月28日なってから峠を下りてコールドルフ(Carbunari)へと撤退しましたが、しばらくするとソ連軍の攻撃が始まりました。9月29日、第1大隊と第92(自動車化)擲弾兵旅団はコールドルフでの絶望的な、しかし頑強な抵抗の後にStrazaへと後退し、この間にStrazaへと到着していたHösl警察中佐が指揮する連隊本部、第2大隊及び警察山岳砲兵大隊と合流することができました。
 Straza地区の防衛司令官であるvon Hillebrandt大佐は第18SS警察山岳猟兵連隊と第92(自動車化)擲弾兵旅団によりソ連軍第3ウクライナ戦線部隊の前進を阻止しようとしていましたが、Strazaの陸軍、警察、アラブ人義勇兵達の抵抗の決意にもかかわらず、ソ連軍機械化部隊の先鋒はStrazaの街を迂回して前進しました。Strazaから北西に街道を進むとZagaicaを経てvon Hillebrandt大佐の司令部も置かれたIzbisteの街へと達することになります。ソ連軍機械化部隊の前進によりStrazaのドイツ軍は撤退するか、包囲覚悟で防衛するかの選択を迫られる状況となり、10月1日にはHösl警察中佐はZagaicaへの後退を決意しました。連隊は翌10月2日にZagaicaへと後退を開始しましたが、ソ連軍はすでに撤退する部隊の後方へと回り込んでおり、動けない負傷者、戦死者の遺体や瀕死のものは置き去りにするしかありませんでした。StrazaからPartaを経てZagaicaへの街道で第18SS警察連隊と警察山岳砲兵大隊による突破が始まりましたが、ZagaicaからIzbisteまでの最後の5.8kmは街道の東西からソ連軍機械化部隊が迫りまさに死の罠と化しており、第18SS警察山岳猟兵連隊と警察山岳砲兵大隊は十字砲火の中を突破しなければなりませんでした。この突破戦で連隊は将校7名と下士官・兵士数百名が戦死または負傷するという大損害を被り、連隊の突破を指揮したHösl警察中佐もまた突破の途中で敵弾に倒れました。以後の連隊の指揮は第1大隊のマン(Mann)警察少佐が執り、第1大隊の指揮はReischl警察大尉に引き継がれました。

 1944年10月3日、第18SS警察山岳猟兵連隊の残余及び警察山岳砲兵大隊は第92(自動車化)擲弾兵旅団の一部とともに戦闘団「Hillebrandt」としてまとめられ、Izbisteからさらに西のパンチェヴォ(Pancevo)への突破が開始されました。パンチェヴォへ至る街道にはノヴォ・セロ(Novo Selo)とVladimirovacの間でパルチザン部隊による急造の封鎖戦が三重に設けられており、連隊の先鋒となった第2大隊は街道を封鎖したパルチザン部隊を蹴散らしながら突破しなければなりませんでした。10月4日、戦闘団「Hillebrandt」は最後の阻止線を突破してパンチェヴォへと到着し、そのまま直ちにパンチェヴォ東部の防衛線に配置されました。
 Reischl警察大尉の第1大隊はパンチェヴォの街の東側、鉄道線路の南側に防衛線を構築し、Poys警察少佐の第2大隊は第1大隊の左翼に連なり、街外れの北東部で鉄道線路の北側の防衛線を担当し、第1大隊の右翼には第92(自動車化)擲弾兵旅団の戦闘団「ジマーマン(Zimmermann)」が配置につきました。しかし、10月5日には早くも第1大隊の貧弱な防衛線が突破されたためパンチェヴォからの撤退が決まり、第2大隊も防衛線を引き払いました。10月6日の朝、連隊はパンチェヴォから西へと後退してベオグラードの北部郊外にあたるBorcsaへと入り、ここで戦闘団「ジマーマン」及び戦闘団「Hillebrandt」はそのままベオグラード防衛部隊に編入されました。
 Borcsaはダニューブ川の北岸にあり、ダニューブ川を南に渡ればもうベオグラード市街地となるため、ダニューブ川に架かる主要な橋はドイツ軍工兵により爆破準備が完了していました。前任者シュネッケンブルガー歩兵大将の戦死に伴いベオグラード防衛司令官となったFelber大将はベオグラード防衛のための時間を必要としていました。とはいえ、弱体な第18SS警察山岳猟兵連隊ではソ連軍を長く支えられないことは明白でした。第18SS警察山岳猟兵連隊はBorcsaの小さな橋頭堡の西側に布陣し、連隊の右翼(東側)には第92(自動車化)擲弾兵旅団が配置されました。Borcsaでは陸軍の重高射砲1個中隊も守備隊を援護しており、この高射砲中隊は10月7日の早朝にソ連軍戦車が現れた際に早速活躍することとなりました。しかし、10月6日深夜には連隊の予備中隊(第6中隊)に危機が迫り、10月10日深夜には連隊とBorcsaの守備隊はベオグラードへと撤退し最後の部隊がダニューブ川を渡った後、橋は爆破されました。

6.ベオグラード防衛戦

 ドイツ軍はベオグラード防衛のために大急ぎで部隊をかき集めていました。シュネッケンブルガー司令部(Generalkommando Schneckenburger)はセルビア軍団と改称され、10月14日からはベオグラード要塞部隊と名前を変えましたが、その実態はよくわかっていません。


ベオグラード守備隊(1944年10月11日~19日):Felber大将

<ベオグラード市内>
第18SS警察山岳猟兵連隊
第92(自動車化)擲弾兵旅団
陸軍重高射砲1個中隊(105mm重高射砲装備)
警戒連隊

<ベオグラード南部郊外>
第5SS警察連隊
第117猟兵師団


セルビア軍団/ベオグラード要塞部隊(1944年10月15日現在)

戦闘団「リンデンブラット」(Kampfgruppe Lindenblatt)
  第812保安連隊の一部
  第1義勇警察連隊「セルビア」の1個大隊
  ロシア狙撃兵軍団の一部(ベオグラード南西)
戦闘団「ユンゲンフェルト」(Kampfgruppe Jungenfeld)
  ブランデンブルク連隊の1個大隊
  第118猟兵師団/第750猟兵連隊の一部
  第202戦車大隊の一部
  3個砲兵中隊
戦闘団「ロードス」(Kampfgruppe Rhodos)
  擲弾兵連隊「ロードス」の2個大隊
戦闘団「ステトナー」(Kampfgruppe Stettner)
  第1山岳猟兵師団
  ブランデンブルク連隊
  第92(自動車化)擲弾兵旅団
  第117猟兵師団司令部


 ドイツ軍にとってダニューブ川は北から迫るソ連軍に対して最高の天然の防衛線でしたが、ベオグラードの南側では迫りくるソ連軍部隊とパルチザン部隊の前進を防ぐ天然の障害は何もありませんでした。第18SS警察山岳猟兵連隊の2個大隊は市街地の北側、ダニューブ川南岸に配置されて警戒任務に就きました。10月11日から10月14日にかけて、ベオグラードの南部でもドイツ軍守備隊はソ連軍とチトーパルチザン部隊の攻撃を受けてベオグラード市街地へと後退しました。ベオグラードの南東約40kmのモラバ(Morava)川で防衛線を維持していた第1山岳猟兵師団の戦闘団はこれにより孤立の危機となり、サヴァ(Sava)川を目指して西へと突破するしか道はありませんでした。
 10月14日の午後、ソ連軍の戦車とパルチザン部隊が南からベオグラード市街地へと突入し、ドイツ軍の抵抗も終わりを迎えました。10月15日の昼ごろには市の中心部は制圧され、守備隊はサヴァ(Sava)川の橋を守る橋頭堡をかろうじて確保するのみとなりました。第18SS警察山岳猟兵連隊は守備隊の残余とともに市内から撤退し、サヴァ川西岸のゼムン(Zemun)へと後退しました。連隊の第2大隊、第8中隊は激戦ののちにソ連軍戦車に蹂躙され、チロル地方出身のジマーマン(Zimmermann)巡査部長ただ一人を残して文字通り壊滅しました。連隊指揮官のマン(Mann)警察少佐は上級司令部にソ連軍戦車への反撃を要請しましたが、ドイツ軍の予備部隊は第7SS山岳師団「プリンツ・オイゲン」のフランス製軽戦車小隊しかなく、これらの旧式フランス製戦車ではソ連軍のT34/76やT34/85のような戦車に歯が立つわけがありませんでした。
 ゼムン(Zemun)にたどり着いた連隊の戦力は、ベオグラード防衛戦の間に約600名にまで減少しており、予備中隊の兵力はわずか50名にまで減少していました。10月19日、連隊を指揮していたマン警察少佐は乗車中の指揮車両が地雷を踏んで戦死し、またベオグラード防衛司令官のFelber大将も戦闘中に行方不明となり、ステファン中将(Generalleutbant Stephan)が以後の指揮を引き継ぎました。

 連隊の第3大隊はギリシャから撤退の際に連隊の後衛を務め、トパラ(Topala)からアヴァラ(Avala)を経由してベオグラードにたどり着き、連隊がゼムンへと撤退する前についに連隊と合流しました。しかし大隊を指揮していたのは第10中隊長のLachauer警察大尉であり、「大隊」の生き残りはわずか11名にすぎませんでした。
 第3大隊は9月23日にリアノクラディオンを出発後、北部ギリシャのサロニキ(Salonika)からスコピエ(Skoplje)まで鉄道輸送され、さらにミトロヴィツァ(Mitrovica)~クラリエボ(Kraljevo)~ラスカ(Raska)を経由して9月末にクラグイェバツ(Kragujevac)に到着しました。10月8日にはトパラに到着しましたが、大隊はここで強力なパルチザン部隊による攻撃に遭遇し包囲されてしまいました。第3大隊長のマルテン(Malten)警察大尉は10月13日の戦闘で戦死し、大尉は他の多くの戦死者とともにトパラに埋葬されました。大隊の残余はベオグラード南部のアヴァラまでは敵中を突破しなければなりませんでした。アヴァラにあった第7SS義勇山岳猟兵師団「プリンツ・オイゲン」の一部はトパラからの突破を援護し、部隊の収容にあたったものの第3大隊は壊滅し、第3大隊と行動を伴にしていた警察山岳砲兵大隊の第3砲兵中隊もまた壊滅しました。

7.クロアチアへの後退
 1944年10月20日~23日の間、第18SS警察山岳猟兵連隊の残余はゼムンを防衛しており、連隊の右翼には戦闘団「ユンゲンフェルト」(Kampfgruppe Jungenfeld)が配置につきました。しかし今回も連隊の第1大隊の戦線が突破され、ドイツ軍はゼムンからさらに西へと撤退しました。10月24日、イリ(Irig)まで後退した連隊に壊滅した第3大隊の代替としてクロアチア警察大隊が配属され、さらにブランデンブルク師団の1個大隊と第811保安大隊も連隊に配属され、戦力の回復が図られました。

 ベオグラードを失ったドイツ軍はクロアチアのドラヴァ川~ダニューブ川~ドリナ川の防衛線へと計画的な撤退を行なっており、10月24日の時点でソ連軍とパルチザン部隊の攻撃に備えた「grün」防衛線への後退計画によると、第18SS警察連隊は第264歩兵師団の戦闘団「Zirngiebel」(Kampfgruppe Zirngiebel)に配属されており戦闘団「Salewski」、戦闘団「Zimmermann」、戦闘団「Lindenblatt」とともに第264歩兵師団の防衛線に配置されました。
 戦闘団「Zirngiebel」は師団戦区の北端でVrdnik~Irig地区に布陣する戦闘団「Salewski」の右翼に布陣しており、Krusedolの北端~プーチンチ(Pećinci)北端までの約25kmの戦区を担当しました。第264歩兵師団の戦闘団は北側から順に下記のように配置されていました。


戦闘団「Salewzki」(Kampfgruppe Salewski)
Vrdnik~Irig地区

黒シャツ大隊(Schwarzhemden Batalion)
空軍工兵中隊


戦闘団「Zirngiebel」(Kampfgruppe Zirngiebel)
Krusedolの北端~プーチンチ(Pećinci)北端

第750猟兵連隊
第18SS警察山岳猟兵連隊
第3SS警察連隊の2個中隊
第811保安大隊
第668砲兵連隊第3大隊の3個中隊:10.5cm軽榴弾砲(le. F.H. 18)


戦闘団「Zimmermann」(Kampfgruppe Zimmermann)
プーチンチ(Pećinci)北端~Subotište西端

第5SS警察連隊
SS第509砲兵連隊第4大隊
  1個砲兵中隊:15cm重榴弾砲(s.F.H. 18)
  1個砲兵中隊:10cm重カノン砲(10cm Kan. 18)
  1個砲兵中隊:イタリア製榴弾砲(F.H.(i))
SS第505軍団砲兵大隊第1中隊:15cm重榴弾砲(s.F.H. 18)


戦闘団「Lindenblatt」(Kampfgruppe Lindenblatt)
Subotište西端~ニキッチ(Nikinci)北東端

第893擲弾兵連隊第3大隊
第264工兵大隊第1中隊
第30空軍大隊第2中隊
第606保安大隊第1中隊
第264歩兵師団の1個砲兵中隊:10cmカノン砲(10cm Kan.)
第264歩兵師団の1個砲兵中隊:軽榴弾砲(le.F.H.)


 10月25日、第18SS警察山岳猟兵連隊に配属されていた第811保安大隊はソ連軍の攻撃により大損害を被って突破され、これに対して大隊長は自らイタリア戦車に搭乗してブランデンブルク大隊とともに反撃した際に戦死しました。その夜にもソ連軍の攻撃は続き、第18SS警察山岳猟兵連隊は防衛陣地から追い出され、連隊本部は包囲を逃れてかろうじて後退することができました。
 第18SS警察山岳猟兵連隊はルーマ(Ruma)~Iring防衛線の数km西側の「braun」防衛線へと後退し、連隊の右翼には第750猟兵連隊、左翼にはブランデンブルク大隊が布陣して新しい防衛線が構築されましたが、第811保安大隊との連絡は途絶していました。
 ソ連軍第236狙撃兵師団の一部とパルチザン部隊は「braun」防衛線への後退に対して追撃をかけており10月25日にはIringが陥落し、10月26日午後5時30分にはさらに「gelb」防衛線への後退命令が発令され、この時点での第264歩兵師団の戦闘団は次のようになっていました。


戦闘団「Zirngiebel」(Kampfgruppe Zirngiebel)
Jazak北端~Paviovci北端

第750猟兵連隊
第18SS警察山岳猟兵連隊
ブランデンブルク連隊の1個中隊
第811保安大隊
第668砲兵連隊第3大隊


戦闘団「Zimmermann」(Kampfgruppe Zimmermann)
Paviovci北端~Ruma南南西1kmの鉄道踏切

第5SS警察連隊
擲弾兵連隊「Veste Belgrad」第2大隊
SS第509砲兵連隊第4大隊
  第11中隊
  第12中隊
  「Belgrad」第1中隊
  SS第505砲兵大隊第1中隊
第118工兵大隊第3中隊


戦闘団「Lindenblatt」(Kampfgruppe Lindenblatt)
Ruma南南西1kmの鉄道踏切~Ufer~サヴァ川北岸

第893擲弾兵連隊第3大隊
第30空軍大隊第2中隊
第812保安大隊第1中隊
第264工兵大隊第1中隊
SS第505砲兵連隊第3大隊
第264砲兵連隊第6中隊


 その後も11月初めの時点で第18SS警察山岳猟兵連隊は第5SS警察連隊、第765猟兵連隊とともにフルヴァツカ・ミトロヴィツァ(Hrvatska Mitrovica、現スレムスカ・ミトロビツァSremska Mitrovica)北方のMandelos地区の防衛線へと後退しており、戦闘団「Lindenblatt」(Kampfgruppe Lindenblatt)に配属されていました。
 11月9日の時点で第18SS警察山岳猟兵連隊はクロアチアのErdevik~Kuzmin地区で引き続き第5SS警察連隊、第765猟兵連隊とともに防衛戦に従事しましたが、11月11日以降はクロアチアのオシエク(Osijek)地区へと移動し、ダニューブ川沿いの地区で戦闘団「Nitsche」に配属されました。詳しい時期は不明ですが、連隊はダニューブ川を渡河して攻撃してきたブルガリア軍と始めて遭遇し、この攻撃をみごと撃退することに成功しました。

 11月末の時点で連隊はヴコヴァル(Vukovar)付近の前線で第118猟兵師団に配属されていましたが兵力は定数の1割にまで低下しており、補充として配属されたクロアチア警察大隊などの部隊によりやっと兵力を維持していたようです。また11月末の時点で連隊の戦車小隊はL6突撃砲(4.7cm砲装備)×5両と装甲偵察車(2cm砲装備)×3両を保有していましたが、装甲車両向けのガソリンは8km~10kmの走行分しかなかったため、後に爆破処分するしかありませんでした。1945年2月~3月の時点では戦車小隊の装甲車両は損傷した戦車(おそらくイタリア製戦車)2両を残すのみとなっていました。
 12月3日の時点で第18SS警察山岳猟兵連隊はオシエク(Osijek)地区で第117猟兵師団(第34軍団)に配属されていましたが、12月末までにオシエクの前線から引き上げられ第91軍団/第11地上師団(L)戦区のヴァルポヴォ(Valpovo)地区へと移動しました。1月時点の戦闘序列によると連隊は第2クロアチア警察義勇連隊と肩を並べて戦っており、2月14日までの間はこの地区での防衛戦に従事しました。

 1945年3月6日、ハンガリーではドイツ軍最後の攻勢である「春のめざめ作戦」が発起され、南東軍集団でも助攻作戦として「ヴァルトトイフェル(Waldteufel)作戦」が発起され、第91軍団がドラヴァ川を奇襲渡河して北岸のブルガリア第1軍を攻撃し、長さ8km、奥行き5kmの橋頭堡を確保することに成功しました。しかし、第91軍団の兵力は第11空軍地上師団、第104猟兵師団、第297歩兵師団、第1コサック騎兵師団という弱小兵力であり、ブルガリア軍とソ連軍が反撃体制を整えると攻勢はたちまち頓挫し、それ以上の前進はできませんでした。
 3月16日、ブダペスト南西のヴェレンツェ湖北方戦区でソ連軍による「ウィーン作戦」が発動されるとドイツ軍は防戦一方となり、「春のめざめ作戦」は3月18日をもって中止されました。ドラヴァ川の橋頭堡では3月26日まで戦闘が続きましたが、以後は第91軍団も撤退を開始しました。

 第18SS警察山岳猟兵連隊は2月15日~3月30日の間にドラヴァ川沿いのVaska~Sopje~Noskovski~Pdravska地区及びSlatina地区へと移動しており、「ヴァルトトイフェル」作戦の間はドラヴァ川での警戒任務に従事したものと思われます。1945年3月22日、クロアチアの治安警察司令官(BdO Kroatien)であるJilski警察少将が副官のRosenbauer警察大佐と少数の司令部要員とともに連隊に合流し、翌3月23日には連隊に配属されていた第1クロアチア警察義勇大隊とともにオーストリア国境を目指して撤退を開始しました。
 3月29日以降ブルガリア第1軍は反撃に転じ、南東軍集団の防衛戦が突破されて4月7日にブルガリア軍はムール川に達し、さらにドラヴァ川南方のヴァラジュディン(Varazdin)が占領されました。4月9日にはマルボル(Marbor、独名マールブルクMarburugu)が陥落し、4月11にはブルガリア第12歩兵師団がオーストリアのフェルカーマルクト(Völkermarkt)の東方4kmの地点でイギリス第8軍の一部と接触することに成功し、これにより南東軍集団の撤退路は一時的に遮断される事態となりました。
 第18SS警察山岳猟兵連隊は1945年4月1日以降にヴァラジュディン(Varazdin)~コプリブニツァ(Koprivnica)地区へと移動し、第11地上師団(L)の戦闘団「Fischer」(Kampfgruppe Fischer)に配属されて第15コサック騎兵軍団とともに防衛戦に投入されました。4月2日~4月26日の間はヴァラジュディン(Varazdin)東部の地区に在りましたが、4月27日~5月5日の間にはコプリブニツァ(Koprivnica)~Legrad地区へと移動し、4月末の3日間は第15コサック騎兵軍団に予備部隊として配属されました。
 1945年5月初め、第18SS警察山岳猟兵連隊はホフマン(Hoffmann)警察少佐の率いる第5SS警察連隊とマルボル(Marbor、独名マールブルクMarburugu)近郊で合流し、以後両連隊は降伏するまで同一行動をとりました。Poys警察少佐に率られた第18SS警察山岳猟兵連隊は第5SS警察連隊とともに5月9日にオーストリア国境を越えるこに成功した模様で、5月13日に連合軍に降服しました。【補足-3】


【補足-1】
Hornung作戦
 1943年2月8日~2月26日、プリピャチ沼沢地のMorocz~Milewicze地区でのパルチザン掃討作戦。この地区では約4,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、パルチザン部隊は機関銃、対戦車砲、戦車や装甲車まで装備する強力な部隊でした。
 ドイツ軍はこの作戦によりブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保することを目的としており、次のような大規模な兵力が招集されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「オスト」】Kampfgruppe "Ost"
第2SS警察連隊
第1SS歩兵旅団/「ボリソフ(Borissow)」大隊
第18SS警察山岳猟兵連隊/警察山岳砲兵大隊
SSドルージナ部隊/「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊

【戦闘団「ノルト」】Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
第12警察戦車中隊

【戦闘団「ヴェスト」】Kampfgruppe "West"
第13警察連隊/第1大隊、第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊/第1中隊
警察工兵部隊

【戦闘団「ジュート」】Kampfgruppe "Süd"
第10警察連隊/第2大隊、第3大隊
第11警察連隊/第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「Kohlstedt」

【戦闘団「ジュートオスト」】Kampfgruppe "Südost"
第101スロヴァキア歩兵連隊

出典:The DruzhinaSS Brigade:A History,1941-1943(Europa Books 2000)

【戻る】


【補足ー2】
 戦闘団「ハッカート」は高橋慶史氏による「バトル・オブ・カンプフグルッペ」では第2大隊の一部による戦闘団で、救援部隊として第1大隊が出動したとなっています。しかし、地図の表記では「第3大隊」となっているほか、手持ちの資料本では第3大隊とギリシャ保安大隊「アムピッサ」による戦闘団で、兵力553名のうち150名の損害を被ったとなっており、救援部隊としては第2大隊が出動しています。

出典:Hitler's Green Army Vol.2(Europa Books 2006)

【戻る】


【補足-3】
 ドイツ国防軍総司令部は1945年5月8日から9日にかけての夜に全ドイツ軍が無条件降伏せよとの命令を発しました。この時点でユーゴスラヴィアのE軍集団の下には20万の兵力があり、アグラム(ザグレブ)地区からオーストリア国境に向けて撤退途中でした。この命令によりE軍集団司令部はチトーパルチザンと交渉を始めましたが、時間を得たパルチザン側はドイツ軍の退路を遮断し、17万5千名がチトーパルチザンの捕虜となりました。しかし、降伏条約もジュネーブ条約も一切無視され、「償いの行進」で約1万人が死亡したのを始め、ユーゴスラヴィアの捕虜になってからの期間に合計8万人が死亡しました。

 第18SS警察山岳猟兵連隊と第5SS警察連隊は5月9日に国境越えに成功し、他にも第6警察戦車中隊がラバムンド(Lavamund)からオーストリア入りに成功しました。これらの部隊は運が良かったといえます。パルチザン掃討作戦を行っていたこれらの警察部隊は山間部の間道に精通していたのかもしれません。クロアチアで活動していた第16警察戦車中隊も終戦時には装甲車両の兵器を装輪車両に積み替えてドイツを目指しましたが、その後の状況はわかりません。

 一方、ドイツ軍に味方したクロアチア軍と民間人にはさらに過酷な運命が待ち構えていました。終戦とともに行き場を失ったクロアチア軍と民間人の一隊もまた、スロベニアからオーストリア~イタリアへの脱出を目指しており、5月14日にブライブルク(Bleiburg)付近では約21万人の軍と避難民の一団が国境を越えましたが、ブライブルクに駐屯するイギリス軍によってユーゴスラヴィア側へと追い返されました。その他にクラーゲンフルト(Klagenfurt)付近で3万5千人、St.Paul-Wolfsberg-Judenberg付近で5千人が越境を試みていました。これらのクロアチア人たちは復讐に燃えるパルチザンにより「売国奴」として16万3千人が殺害されたと言われています。

出典:捕虜(学研 2001)
Hitler's Green Army Vol.2(Europa Books 2006)
【戻る】


参考資料
Hitler's Green Army Vol.2(Europa Books 2006)
捕虜 (学研 2001)
バトル・オブ・カンプグルッペ第32回~34回「パルチザンとの戦い」(アーマーモデリング連載)


2001.7.20 新規作成
2002.2.13 一部改定
2010.11.7 大幅改訂版

2023.11.20 追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/