泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第14SS警察連隊
SS Polizei Regiment 14

 1942年7月7日にモギレフにおいて編成されたばかりの警察連隊「ロシア中央第2」は、1942年7月9日付の通達により第14警察連隊として再編成されることとなり、連隊本部、第1大隊(第51警察大隊)、第2大隊(第122警察大隊)及び重装備中隊が新連隊に編入され、新たに第63警察大隊と第72警察通信中隊が配属され、下記のような編成となる予定でした。


第14警察連隊(1942年7月)
Polizei Regiment 14

第1大隊(第51警察大隊)
第2大隊(第63警察大隊)
第3大隊(第122警察大隊)
重装備中隊
第72警察通信中隊


 しかし11月になって第63警察大隊の編入は中止となり、第122警察大隊が新第2大隊となるとともに、第28警察連隊から第313警察大隊が第3大隊として編入されました。また1942年10月7日より第2警察戦車中隊も配属され、他の警察連隊と比較しても充実した編成内容となっていました。


第14警察連隊(1942年11月)
Polizei Regiment 14

第1大隊(第51警察大隊)
第2大隊(第122警察大隊)
第3大隊(第313警察大隊)
第13(重装備)中隊
第14(戦車)中隊:第2警察戦車中隊(1942年10月7日より配属)
第15(通信)中隊:第72警察通信中隊


 第14警察連隊は高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(HSSPF. Rusland-Mitte)の管轄下に配属され、モギレフ(Mogilew)に駐屯してパルチザン掃討作戦に従事しており、1942年7月16日から17日の戦闘報告によると連隊の重装備中隊もモギレフに駐屯しており次のような装備を保有していました。
・装軌式装甲車(戦車)×3両
・装軌式牽引車×2両
・装甲偵察車(軽及び重装甲偵察車)×4両
・歩兵砲×2門
・対戦車砲×2門

 重装備中隊は1942年8月8日までに第13(重装備)中隊と改称され、9月8日の時点で次のような装備を保有していました。
・装甲車両(戦車?)×2両
・重装甲偵察車×4両
・軽装甲偵察車×1両
・歩兵砲×4門
・対戦車砲×2門

 中隊の兵力は将校2名と下士官・兵90名であり、ドイツ人基幹要員のほかはウクライナ人義勇兵で補充されていおり、例えば中隊の運転手はすべてウクライナ人義勇兵で賄われていました。

 連隊の第2大隊(第122警察大隊)は1942年7月から9月にかけて中央軍集団戦区で行動中であり、9月にはオランダへ移動した模様です。しかし大隊の記録は失われており詳しい行動はわかっていませんが、1942年から43年にかけての冬季戦で連隊と共に壊滅したと考えれれています。
 第14警察連隊は1942年7月以降、次のようなパルチザン掃討作戦に参加しました。

Adler作戦
 1942年7月20日~8月7日、モギリョフ(Mogilev)~ベレジノ(Beresino)~バブルイスク(Bobruisk)の三角地帯を結ぶ街道を確保するためのパルチザン掃討作戦。この作戦でのドイツ側の損害は戦死25名、負傷64名、行方不明2名で、パルチザン側は1,381名が死亡し428名が拘束され、迫撃砲13門、高射砲5門、対戦車砲9門が破壊されました。
作戦参加兵力:
戦闘団「プリュッツマン」(Kampfgruppe "Buchmann")
  第2警察連隊の第1大隊及び第2大隊
  SD分遣隊(数個中隊規模)
第14警察連隊
第286保安師団
特別部隊「ディルレヴァンガー」
戦闘団「Kopf」(第203保安師団の一部)
戦闘団「von Gelden」(第286保安師団の一部)
SS野戦補充部隊「バブルイスク」の第1及び第2補充訓練大隊

Greif作戦
 1942年8月17日~8月29日、ベラルーシのオルシャ(Orsha)~ビテブスク(Vitebsk)地区の街道を確保するためのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊
第14SS警察連隊
特別戦隊「グラウコップ」

Nordsee作戦
 1942年9月2日~9月7日、スタリ・ビハウ(Stary Bykhov 現Bychaŭ)東方~モギリョフ(Mogilev)南方でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第14SS警察連隊

第14警察連隊はこの作戦後9月中に「Dabusha作戦」に参加し、その後9月23日~26日にはKolishenko北西地区でのパルチザン掃討作戦に参加しました。

Regatta作戦
 1942年10月4日~10月9日、Gorki南方~Rokotka地区(モギリョフ北東約60km~50km)でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第14SS警察連隊

カールスバート(Karlsbad)作戦
 1942年10月11日~10月23日、ベレジノ(Beresino)北方~Chervino街道地区でのパルチザン掃討作戦。作戦地域内には兵力約6000名の強力なパルチザン部隊がいると見積もられていました。作戦の主力は第1SS歩兵旅団で、SS特別大隊「ディルレヴァンガー」、第13及び第14警察連隊の一部、第255(リトアニア)シューマ大隊、第638擲弾兵連隊第1大隊(フランス人義勇兵部隊)、及び第600コサック大隊により強化されました。
 1942年10月23日まで行われた作戦は結果的に失敗で、ドイツ側の損害は戦死24名、負傷65名に対してパルチザンとパルチザン容疑者1,051名が射殺されましたが、これは作戦中に戦闘がほとんで行われなかった現れであり、内容は住民の集団虐殺でした。
作戦参加兵力:
SS第1歩兵旅団(自動車化)
SS第8歩兵連隊
SS第10歩兵連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第13警察連隊
第14警察連隊
第225(リトアニア)シューマ大隊
第638擲弾兵連隊第1大隊(フランス人義勇兵部隊)
第600コサック大隊

 1942年11月7日から8日にかけて連隊は、スタリッツア(Stariza)でのパルチザン急襲作戦に参加しました。この戦いは激戦となり、連隊の第1大隊(第51警察大隊)では17名が戦死し、第14(戦車)中隊(第2警察戦車中隊)の装甲車両1両が被弾炎上して中隊長以下数名が負傷しました。その後11月20日から11月26日にかけて、連隊は戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe "von Gottberg")に編入され、ペルシャンツク(Pelschanszk)及びオズシエロヴォ(Ozsierowo)での攻撃作戦「ニュールンベルグ(Nurnberg)」作戦に参加しました。

Nürunberg作戦
 1942年11月22日~11月26日、ミンスク北方のPlesze Zenice(現Pleshchenitsy)~Glebokie(現フィルボーカエHlybokaye)~ドルキノヴォ(Dolhinow)地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン789名、容疑者357名、ユダヤ人1,826名、ジプシー7名の合計2,979名が殺害されました。
 同時にDounilowitschi(現ドウニロヴィチDunilavičy)、Postawy(現パスターヴィPostavy)及びHermanowitsch(現ゲルマノヴィッチHermanowicze)ではゲットー撤去作戦が実施され、ユダヤ人3,800名以上が殺害されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第14警察連隊(第2大隊を除く)
第23警察連隊第1大隊
第1SS歩兵旅団(自動車化)
地方防護警察戦隊「Kern」(Gendarmerie Trupp "Kern")
2個シューマ大隊
保安警察及びSD指揮官「ヴィレイカ」(Kommandeurs der Sichenheitspolizei und SD "Wilejka")


 1942年11月27日、第14警察連隊は第2大隊(第63警察大隊)と第13(重装備)中隊の装甲車両のみを留守部隊としてモギレフに残し、連隊主力の3個大隊、第13(重装備)中隊の対戦車砲小隊、第14中隊(第2警察戦車中隊)及び第15(通信)中隊は前線に緊急輸送されることとなり、ヴェイデラフカ(Veydelavka)から直ちに鉄道輸送されました。
 連隊の目的地は最初はわかりませんでしたが、鉄道の旅が7日間続いたところでB軍集団から命令が届き、すべての自動車化部隊はハリコフ(Kharkov)の東方80Kmのクビヤンスク(Kubyansk)で降車し、その他の部隊はハリコフの東北東120Kmのヴァルキ(Valuki)で降車することとなりました。

 1942年11月19日、ドイツB軍集団の伸びきった側面、弱体な同盟軍の戦線を狙ってソ連軍の反撃が開始されました。ドン河の戦線ではルーマニア第3軍とイタリア第4軍の戦線が、スターリングラードの南ではルーマニア第4軍の戦線が突破され、2方面から進撃したソ連軍は11月23日にはカラチで合流しました。
 このため、スターリングラードの周辺では第6軍と第4戦車軍の一部が包囲され、3個戦車師団、2個自動車化歩兵師団、14個歩兵師団が孤立し、B軍集団だけでなく東部戦線南翼全体が崩壊の危機に見舞われました。
 この危機に際して戦線の後方地区では、警察部隊をはじめとしてさまざまな部隊をかき集めて急遽編成された警戒部隊が防衛線の穴埋めとして投入されました。第14警察連隊もこうして前線へ緊急輸送されたのでした。

 連隊はロソシュ(Rossosh)をめざしてさらに東への行軍を続け、自動車化部隊は12月10日から11日にかけてロソシュに到着しました。第14警察連隊はイタリア第8軍のトレンティーノ師団に配属され、ロソシュからドン河を北上したヴァソフカ(Vassovka)でアルピニ大隊「エッドロ」の戦区を増強することとなり、12月16日午前6時には交代できるように前進命令が発令されました。
 12月15日正午、第14警察連隊がヴァソフカまであと45kmのプロポフカ(Propovka)に差し掛かったところそれまでの命令は突然変更され、連隊は「回れ右」して95km離れたドン河小屈曲部にあるイワノフカ(Ivanovka)をめざして今度は南東に向かうこととなりました。ロソシュの南東のドン河小屈曲部ではソ連軍の攻勢が始まっていたのでした。

 連隊の一部は12月16日午後6時にはイワノフカに到着し、連隊本部がイワノフカの町の北側に設置されました。さっそく陸軍の第385歩兵師団の主席参謀(Ia)から状況説明がありましたが、イワノフカから北東25kmにあるドン河沿いのデレソフカ(Dresovka)の村は強力なソ連軍の戦車部隊と自動車化部隊に包囲され、12月16日にはついに陥落しており戦況は緊迫していました。デレソフカを防衛していたイタリア軍部隊はさっさと退却しており、わずかなドイツ軍部隊(第6警察連隊の第1大隊及び陸軍の戦車猟兵部隊)が絶望的な防衛戦を展開していたのでした。

 12月17日、第14警察連隊はデレソフカへの反撃とイワノフカの防衛に努めましたが、イタリア軍の敗走により戦況はなお混沌としていました。この日連隊本部はイワノフカから東方10kmのザプコボ(Zapkovo)まで前進していましたが、ロシア軍の攻撃により戦線は突破され、警察大隊はイタリア軍とともにちりじりとなってイワノフカへと後退しました。12月17日一日の戦闘だけで連隊は将校と下士官・兵の半数を失う大損害を被り、夕方には連隊長が戦死し代わって指揮を執った第3大隊長も倒れて一時的に連隊指揮官が不在となる事態が発生していました。第14中隊(第2警察戦車中隊)の装甲車と戦車は、ノヴァカリトワ(Novakalitva)-イワノフカ-ザプコボ地区で第385歩兵師団の支援に投入され、中隊のオートバイ小隊は付近の警察及び陸軍部隊への補給任務に活躍しました。
 12月18日、第14警察連隊の第1大隊はザプコボ地区でロシア軍への反撃を繰り返した後、イワノフカに撤退しました。一方、第3大隊はイワノフカの北のノヴァカリトワ付近で第385歩兵師団とともになおも防衛線を維持していました。
 12月19日の夕方、最も激戦に晒されていた第1大隊は大損害を負った後、ついにイワノフカを放棄して後退しました。12月19日夕方の時点で第14警察連隊の各部隊は第385歩兵師団に配属されていましたが、第14警察連隊は壊滅的な打撃を受けてその兵力は数個中隊の規模にまで減少しており、連隊長のブックマン警察少尉はロシア軍の捕虜となっていました。第14中隊(第2警察戦車中隊)の残存戦力は装甲車小隊と戦車小隊にまとめられ、1個小隊が第385歩兵師団の師団司令部に配属されました。
 12月20日の時点で第14警察連隊の一部は戦闘団「フリードリヒ」(第140機甲擲弾兵連隊の第1大隊、第127機甲工兵大隊第2中隊などにより編成)に編入されてイワノフカ北西の戦線にも投入されていた模様ですが、12月22日までに第14警察連隊の兵力は第1中隊、第2中隊、第9中隊、第10中隊、第11中隊(1個小隊のみ)の5個中隊にまで減少しており、兵員210名、ライフル70挺、サブマシンガン5挺を装備するのみとなっていました。

 第14警察連隊の残余は第6警察連隊第1大隊の残余とともにミトロファノフカ(Mytrofanivka)で戦闘団「グリム」(Kampfgruppe Grimm)」を編成しており、12月25日の時点で戦闘団「グリム」は総統護衛大隊GDの戦闘団に配属されていましたが、はたしてどれほどの戦力を保持していたかは不明です。
 1943年1月の中頃、第14警察連隊及び第6警察連隊の残余にクビヤンスク(Kupyansk)でさらに第15警察連隊の残余も加わり戦闘団「ヨースト」(Kampfgruppe Josten)が編成されましたが、戦力的には甚だ疑問であり後退してくる部隊残余や兵員を受け入れるための一時的な処置であったと思われます。

 第14警察連隊の残余は1943年1月末にクビヤンスク(Kupjansk)で新連隊長としてペーター警察少尉を向かえ、休養のため前線から引き上げられました。この冬季戦の間に連隊は壊滅的な損害を被っており、連隊の残余はモギレフに帰還し残留した重装備中隊に総合され再編作業が開始されましたが、帰ってきたのはたった1個中隊規模(!)にすぎませんでした。
 第14中隊(第2警察戦車中隊)は3月5日にモギレフに到着後、3月12日には部隊再編のためウィーンに帰還しており、連隊の第13(重装備)中隊の装甲車両はモギレフに駐屯していた第12警察戦車中隊に編入された可能性があります。

 1943年2月から連隊の残余は第14警察連隊第1大隊として再編成が開始され、2月2日には新連隊長としてValtin警察少尉が第6警察連隊から着任し、Berditschewの連隊には第14中隊、第6中隊、第15中隊及び第8連隊第2大隊(第111警察大隊)の残余が合流しました。また再編成途中の連隊は第24警察連隊とともにパリチザン掃討作戦に投入されました。

Albert作戦
 1943年2月5日~2月10日、ミンスクの南南西50kmのウスダ(Uzba)地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第14警察連隊第2大隊
第24警察連隊
第555保安大隊

 連隊の残余はその後ハノーバー近郊のAdlershorstへと帰還し、第3警察教導大隊および第6警察連隊の連隊本部が編入されて本格的な再建作業が開始されました。
 1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第14警察連隊も「第14SS警察連隊」と改称されました。

 1943年4月4日、第14SS警察連隊の残余は南フランスのマルセイユ(Marseille)へと移動し、4月6日には第1SS警察連隊の連隊本部、第1大隊(第2警察大隊)、第3大隊(第10警察大隊)及び第63警察大隊が編入され、SS警察連隊「グリーゼ」(SS Polizei Regiment“Griese”)と改称し、急速に再編成が進められました。


SS警察連隊「グリーゼ」
SS Polizei Regiment “Griese”

連隊本部
第1大隊(第2警察大隊:第1SS警察連隊の第1大隊より)
第2大隊(第63警察大隊)
第3大隊(第10警察大隊:第1SS警察連隊の第3大隊より)


 警察連隊「グリーゼ」は7月11日までマルセイユの市街地と港湾施設の接収任務に従事し、7月16日に総統府を経由してセルビアへと移動し、短期間の間本土併合地区であるオーバークラインとウンターステイヤーマルクでのパルチザン掃討作戦に参加しました。
 連隊は7月26日付けで再び第14SS警察連隊と改称されて「南東方面総司令部」(Oberbefehlshaber Südost)に配属されイタリア~クロアチア国境地帯での警備任務に従事し、9月からクロアチアのカルロヴィック(Karlovac)南西のオグリン(Ogulin)に駐屯し、イタリア軍の武装解除にも従事しました。9月末には詳細不明ながら捕獲イタリア戦車を装備した戦車中隊も配属されたようで、10月には次のようなパルチザン掃討作戦に参加しました。

Wolkenbruch作戦
 1943年10月12日~11月10日、Delnice~Kocevje地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第132歩兵連隊
第134歩兵連隊
第19SS警察連隊
第14SS警察連隊
SSカルスト山岳猟兵大隊
第901山岳猟兵連隊
第71歩兵師団の一部

 第14SS警察連隊は1944年1月始めからは北スロベニアのオーバークライン地区に移動しパルチザン掃討作戦に従事しました。

Ostsee作戦
 1944年1月2日~1月14日、北スロベニアのDiabla山地でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第14SS警察連隊
第1国家地方警察大隊(自動車化)
第619郷土防衛大隊
第62野戦憲兵大隊


第14SS警察連隊
SS Polizei Regiment 14

連隊本部
第1大隊(第2警察大隊)
第2大隊(第63警察大隊)
第3大隊(第10警察大隊)
第13(増強)警察戦車中隊
迫撃砲中隊
戦車猟兵中隊
戦車中隊(イタリア製戦車装備:1943年9月末より)


 1944年1月、第14SS警察連隊はリュブリアナ南東約60kmのノボ・メスト(Novo Mesto)での鉄道警備任務に従事し、3月16日にはノボ・メスト(Novo Mesto)から東南東約15kmのŠentjernejでのパルチザン掃討作戦に参加しました。
 1944年3月以降の連隊の行動については資料がなくはっきりしませんが、おそらくスロベニア地方でのパルチザン掃討作戦等に従事したものと思われます。

 1945年1月、第14SS警察連隊はスロベニア南部のチェルノメリ(Črnomelj)近郊でパルチザン部隊との戦闘に投入され、2月2日にもスロベニア北部のStranice地区でパルチザン部隊との戦闘に従事しました。
 1945年3月、連隊は東部戦線で新編成のSS警察師団に配属されることとなり、第3大隊(第10警察大隊)は解隊され、兵員は第1大隊(第2警察大隊)と第2大隊(第63警察大隊)に編入されて強力な2個大隊に改編されました。
 連隊はスロベニアを離れてオーデル河沿いのグーベン(Guben)に移動し、1945年4月6日には武装SSに移管され、この2個大隊により第91SS警察擲弾兵連隊が編成され、警察旅団「ヴィアート」から改編された第89SS警察擲弾兵連隊と第90SS警察擲弾兵連隊とともに新編成の第35SS警察擲弾兵師団を編成しオーデル河戦線での防衛戦に投入されました。

 一方、スロベニアに残留した第3大隊(第10警察大隊)の残余は、高級SS及び警察指導者「アルペンラント」や高級SS及び警察指導者「アドリア海沿岸」の指揮下でパルチザン掃討作戦を継続した模様ですが、詳細はわかっていません。


2002.2.4 新規作成
2004.9.20 改訂版
2005.8.13 改訂2版
2007.8.31 改訂3版
2008.11.30 改訂4版
2023.11.20 改訂5版

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