エストニアの警察関係部隊

初期のシューマ大隊
シューマ大隊/エストニア警察大隊
エストニア警察連隊/エストニア警察騎馬小隊
エストニア国境防衛連隊
郷土防衛隊(民兵組織)
陸軍の保安大隊/東部大隊と建設大隊
武装SS

初期のシューマ大隊

 1941年8月から警察の管轄下で最初のシューマ大隊が編成され、エストニア領内でのソ連側パルチザン部隊への掃討作戦や後方警備任務に従事したほか、郷土防衛隊の志願者から防衛大隊が編成されました。その他にエストニア警察として5,100名のエストニア人警察官が一般の警察任務に従事していました。

シューマ大隊「ドルパト/タルトゥ」(Dorpat/Tartu) 1941年8月29日編成
シューマ大隊「プスコフ」(Pskov) 1941年8月編成
シューマ大隊「フェリン/ヴィリヤンディ」(Fellin/Vilijandi) 1941年9月編成
シューマ大隊「ポルツァマ」(Poltsama) 1941年9月編成
シューマ予備大隊 1941年9月編成
シューマ建設大隊 1941年9月編成
第1エストニア防衛大隊 1941年11月5日編成


シューマ大隊「ドルパト/タルトゥ」(Dorpat/Tartu)
1941年8月29日編成。 1941年11月6日第37シューマ大隊と改称

シューマ大隊「プスコフ」(Pskov)
1941年8月編成。 1941年11月6日第40シューマ大隊と改称

シューマ大隊「フェリン/ヴィリヤンディ」(Fellin/Vilijandi)
1941年9月編成。 1941年11月6日第38シューマ大隊と改称

シューマ大隊「ポルツァマ」(Poltsama)
1941年9月編成。 1941年11月6日第39シューマ大隊と改称

シューマ予備大隊
1941年9月編成。 1941年11月6日第41シューマ(予備)大隊と改称

シューマ建設大隊
1941年9月編成。 1941年11月6日第42シューマ(建設)大隊と改称

第1エストニア防衛大隊
1941年11月5日郷土防衛隊からの志願兵により大隊本部中隊と3個中隊(兵力460名)を編成。しかし兵員の内容は少年と老人であり、装備兵器はロシア製、フランス製、チェコ製であった。 1942年11月28日第29シューマ大隊と改称。(※11月29日とする資料もある。)


シューマ大隊/エストニア警察大隊

 1941年11月6日付の命令により東部地域のすべての警察管轄下の部隊はシューマ大隊として再編成されることとなり、任務に応じて野戦(F=Frontia)、警戒(W=Wacht)、予備(E=Ersatz)、建設(P=Pioniere)の4種類の部隊に再編成されました。1個シューマ大隊の兵力は470名から501名で一部の野戦大隊は兵力700名の例もありました。  ドイツ側の計画ではエストニアでは26個シューマ大隊が編成される予定でしたが、ドイツ側の記録では21個大隊、実際には25個大隊が編成されました。

第29シューマ大隊 1941年11月29日第1エストニア防衛大隊より改称
第30シューマ大隊 1943年1月17日編成
第31シューマ大隊 1943年1月編成
第32シューマ大隊 1942年7月編成
第33シューマ大隊 1942年2月編成
第34シューマ大隊 1942年1月編成
第35シューマ大隊 1942年1月編成
第36シューマ大隊 1941年11月編成
第37シューマ大隊 1941年11月シューマ大隊「ドルパト」より改称
第38シューマ大隊 1941年11月シューマ大隊「フェリン」より改称
第39シューマ大隊 1941年11月シューマ大隊「ポルツァマ」より改称
第40シューマ大隊 1941年11月シューマ大隊「プスコフ」より改称
第41シューマ(予備)大隊 1941年11月シューマ予備大隊より改称
第42シューマ(建設)大隊 1941年11月シューマ建設大隊より改称
第43シューマ大隊 1942年7月編成
第44シューマ大隊 1942年7月編成
第45シューマ大隊 1942年7月編成
第50シューマ大隊 1942年9月編成



第29シューマ大隊
1941年11月28日第1エストニア防衛大隊より改称(※11月29日とする資料もある) 1942年3月5日レニングラード戦線へ移動し前線に投入。 1942年7月 戦闘団「イェッケルン」に編入。 1943年1月大隊は解散し最優秀な要員は武装SSのエストニア兵団へ編入され、残余は他のシューマ大隊へ編入。 その後補充要員により再編成。 1943年12月レニングラード戦線へ投入。 1944年4月陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年7月7日第2エストニア警察連隊の編成に伴い大隊は解散し、兵員は第37及び第38エストニア警察大隊に補充要員として編入。

第30シューマ大隊
1943年1月17日基幹要員は第29シューマ大隊より編入され、郷土防衛隊の兵員から編成。 1943年9月フィンランド湾沿岸部の警備任務に従事。 1944年2月ナルバ河戦線のペルミスクラ(Permiskula)の北で防衛戦に投入。 1944年3月ナルバ戦線より後退し沿岸部警備任務に戻る。 1944年4月陸軍の指揮下で再び防衛戦に投入。 1944年7月7日大隊は解散し兵員は「第2エストニア警察連隊」の補充要員として編入。

第31シューマ大隊
1943年1月大隊本部中隊と3個中隊により編成。 1943年2月第289シューマ大隊より補充要員を編入。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年7月7日大隊は解散し兵員は第2エストニア警察連隊の補充要員として第37及び第38エストニア警察大隊に編入。

第32シューマ大隊
1943年7月ナルバにて編成。 1943年2月第290シューマ大隊編成用に兵員を抽出。 1943年9月大隊は解散し兵員は第290シューマ大隊へ編入。 1944年3月再編成。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年7月7日大隊は解散し兵員は「第2エストニア警察連隊」の補充要員として編入。

第33シューマ大隊
1942年2月編成。 1942年7月戦闘団「イェッケルン」に編入。 1943年1月大隊は解散し最優秀な要員は武装SSのエストニア兵団へ編入され、残余は他のシューマ大隊へ編入。 1943年2月編成途中の第293シューマ大隊の3個中隊を編入して再編成。 1944年1月防衛戦に投入。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で引き続き防衛戦に投入。 1944年7月7日大隊は解散し兵員は「第2エストニア警察連隊」の補充要員として編入。

第34シューマ大隊
1942年1月編成。 1942年5月解散。 1944年6月21日「第34エストニア警察義勇大隊」として大隊本部中隊と4個中隊により再編成。 1945年1月16日解散。

第35シューマ(予備)大隊
1942年1月編成。 1944年4月レバルにて警備任務に従事。 1944年12月解散。

第36シューマ大隊
1941年11月編成。 1942年8月ノヴォグラデク(白ロシア)へ出動し、その後スターリノ(ウクライナ)へ移動。 1942年10月スターリングラード地区へ移動。 1943年1月大隊は解散し最優秀な要員は武装SSのエストニア兵団へ編入され、残余は他のシューマ大隊へ編入。 その後補充要員により再編成。 1944年1月大隊は解散し兵員は第287及び第289エストニア警察大隊に補充要員として編入。

第37シューマ大隊
1941年11月シューマ大隊「ドルパト」より改称。 1942年3月戦闘団「イェッケルン」に配属。 1942年7月第207保安師団に配属。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年7月7日「第2エストニア警察連隊」に編入。 1944年9月「第2エストニア警察連隊」は解散。 1944年10月ノイハマー演習場(東プロイセン)へ移動。 1944年12月大隊は解散し兵員は「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第38シューマ大隊
1941年11月シューマ大隊「フェリン」より改称し、レニングラード戦線に投入。 1942年7月フェリンに駐屯。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年6月前線より引き上げられボル(Voru)にて再編成。 1944年7月7日「第2エストニア警察連隊」に編入。 1944年8月前線より引き上げられ緊急補充を実施後、カレベレ(Karevere)へ移動。 1944年9月「第2エストニア警察連隊」は解散され、大隊はラトビア領内へと後退。 1944年10月ノイハマー演習場(東プロイセン)へ移動。 1944年12月大隊は解散し兵員は「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第39シューマ大隊
1941年11月シューマ大隊「ポルツァマ」より改称。 1942年7月「第281保安師団」に配属され、ラトビア−ロシア国境地帯での警備や空軍基地での警備任務に従事。 1943年4月エストニア帰還後大隊は解散し最優秀な要員は武装SSのエストニア兵団へ編入され、残余は「第287シューマ大隊」へ編入。

第40シューマ大隊
1941年11月、警備大隊「プスコフ」より改称。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年7月7日「第2エストニア警察連隊」に編入。 1944年9月「第2エストニア警察連隊」は解散され、大隊残余は「第38シューマ大隊」に編入。 

第41シューマ予備大隊
1941年11月シューマ予備大隊より改称。 1944年7月「第35エストニア警察大隊」に編入。

第42シューマ建設大隊
1941年11月シューマ建設大隊より改称。 1944年4月大隊は陸軍の指揮下で防衛戦に投入。 1944年12月解散。

第43シューマ大隊 
1942年7月タリン(Tallinn)にて編成され、エストニア〜ロシア国境付近での警戒任務に従事。 1944年4月エストニア?ロシア国境地域での警戒任務に従事。 ※ドイツ側の記録では計画のみで編成されなかったことになっている。

第44シューマ大隊 
1942年7月アレンスベルグ(Arensberg)にて編成され、エストニア〜ロシア国境付近での警戒任務に従事。 1944年4月エストニア?ロシア国境地域での警戒任務に従事。 ※ドイツ側の記録では計画のみで編成されなかったことになっている。

第45シューマ大隊 
1942年7月タルトゥ(Tartu)にて編成され、ペイプシ湖及びプスコフ湖での警戒任務に従事。 1944年4月陸軍の指揮下に編入され防衛戦に従事。 ※ドイツ側の記録では計画のみで編成されなかったことになっており、1943年9月「第45」の番号は白ロシアシューマ大隊に割り当てられている。

第50シューマ大隊 
1942年9月タリン(Tallinn)にて編成。 1943年6月解散し兵員は他の大隊に編入。 ※ドイツ側の記録では計画のみで編成されなかったことになっている。


第286シューマ大隊 1943年3月編成
第287シューマ大隊 1943年4月編成
第288シューマ大隊 1943年11月編成
第289シューマ大隊 1943年10月編成
第290シューマ大隊 1943年10月編成
第291シューマ大隊 1943年10月編成
第292シューマ大隊 1943年10月編成
第293シューマ大隊 編成途中で中止

※1943年12月14日付けでエストニアの各シューマ大隊は「エストニア警察大隊(Estonian Polizei-Bataillon)」へと一斉に改称されました。


第286シューマ大隊
1943年3月エストニア警察の要員により4個中隊(兵力700名)を編成。 1943年6月8日リガ近郊で対パルチザン作戦に参加。 その後ネバル近郊の前線へ投入。 1944年11月ナルバの南地区で対パルチザン作戦に参加。 1944年2月中旬より再び前線での防衛戦に投入。 1944年3月タリンへ帰還した時点で兵力は200名まで減少。 1944年4月11日「第1エストニア警察連隊」へ編入。 1944年8月20日「第1エストニア警察連隊」は解散し再び独立大隊となる。 1944年12月大隊は解散し残余の兵員は「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第287シューマ大隊
1943年2月第29、第33、第39シューマ大隊の要員を基幹とし、兵員には1942年12月にヴィエリキエ・ルーキ付近での戦闘中に集団投降した元ソ連軍第249狙撃師団(第22狙撃軍団)のエストニア人志願兵を編入して大隊本部と4個中隊により編成。(ヴィエリキエ・ルーキ付近での戦闘では約1,100名の赤軍エストニア人兵士が集団投降したが、同時に1943年1月までの包囲戦によりエストニア人義勇兵1個大隊が壊滅している。) 1944年4月国境地帯での防衛戦に投入。 1944年9月Schoenewarking(ダンチヒ近郊:東プロイセン)に送られ、兵員は他のエストニア警察部隊の補充要員となる。 1944年10月29日大隊の残余842名はノイハマー演習場(シレジア)へと送られ「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。


第288シューマ大隊
1943年2月レバルにて編成。北部白ロシアへ送られ戦闘団「イェッケルン」に配属。  1943年3月白ロシアより帰還。 1944年4月11日第1エストニア警察連隊へ編入。 1944年8月20日第1エストニア警察連隊は解散し再び独立大隊となる。 1944年9月降伏。

第289シューマ大隊
1943年2月編成途中の大隊から一部兵員が補充要員として第31シューマ大隊へ編入。  1943年10月新規募集兵員と一部は第36シューマ大隊からの兵員により編成を完了。  1944年6月解散。

第290シューマ大隊
1943年10月解散した第32シューマ大隊の兵員と第33シューマ大隊の残余から編成。 1944年4月捕虜収容所警備任務。 1944年9月シューマ(建設)大隊となる。 1944年12月大隊は解散し兵員は「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第291シューマ大隊
1943年10月編成。 1944年1月ナルバの南方地区で対パルチザン戦に従事。 1944年3月沿岸警備任務や前線での防衛戦に従事後、前線より後退。 1944年4月11日第1エストニア警察連隊へ編入 1944年8月20日第1エストニア警察連隊は解散し再び独立大隊となる。 1944年12月大隊は解散し兵員は「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第292シューマ大隊
1943年10月編成。 1944年1月ナルバの南方地区で対パルチザン戦に従事。 1944年4月11日第1エストニア警察連隊へ編入 1944年12月大隊は解散し兵員は「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第293シューマ大隊
1943年1月レバルにて編成作業開始。 1943年2月編成途中の3個中隊により第33シューマ大隊が再編成され、この大隊の編成は中止された。 


エストニア警察連隊/エストニア警察騎馬小隊

 1944年4月から7月にかけて8個エストニア警察大隊をまとめて2個エストニア警察連隊が編成されました。その他にエストニア警察騎馬小隊もありましたが、詳細は不明です。

第1エストニア警察連隊 1944年4月11日編成
第2エストニア警察連隊 1944年7月7日編成


エストニア警察騎馬小隊


第1エストニア警察連隊
 1944年4月11日第286、第288、第291、第292エストニア警察大隊により編成。装備、訓練ともに不十分であり沿岸警備任務のみに従事。 1944年8月20日解散。

第2エストニア警察連隊
 1944年7月7日第37、第38、第40エストニア警察大隊とエストニア警察戦車猟兵中隊により編成。連隊の編成の際には第29、第30、第31、第32、第33エストニア警察大隊を解散し補充要員として編入。連隊は戦闘団「イェッケルン」に配属されて防衛戦に投入。 1944年9月解散し各大隊はノイハマー演習場(東プロイセン)に送られ「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。エストニア警察戦車猟兵中隊は第38シューマ大隊に編入。一説によると「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入されたとも言われる。


エストニア警察騎馬小隊
編成時期は不明。 1944年4月ドイツ警察部隊の指揮下で対パルチザン作戦に参加。


エストニア国境防衛連隊

 ソ連軍がエストニア国境に迫った1944年2月30日、警察の管轄下で新たに6個の「エストニア国境防衛連隊」と1個補充訓練連隊が編成されました。各国境防衛連隊は3個大隊により構成され、連隊の兵力は約2,800名でした。しかしこれらの連隊は訓練も装備も不足しており、兵器はアメリカ製、チェコ製、オランダ製、フランス製、ロシア製の雑多な小火器とイギリス製の重火器をわずかに装備している程度でした。各国境防衛連隊は警察の管轄下で編成されましたが、当初より陸軍の命令系統に編入されており、制服も陸軍の物を着用していました。1944年5月から各国境防衛連隊は「SS国境防衛連隊(警察)」と改称されました。
 国境防衛連隊は第300特別編成師団にまとめられてナルバからペイプス湖にかけての戦線で防衛戦に投入されたほか、第207保安師団や第277歩兵師団に配属されて防衛戦に投入されました。各連隊は防衛戦で大損害を出し1944年9月には各連隊の残余はドイツ軍とともにラトビアやリトアニアへと後退しました。

第1エストニア国境防衛連隊 1944年2月7日編成
第2エストニア国境防衛連隊 1944年2月7日編成
第3エストニア国境防衛連隊 1944年2月7日編成
第4エストニア国境防衛連隊 1944年2月26日編成
第5エストニア国境防衛連隊 1944年2月26日編成
第6エストニア国境防衛連隊 1944年2月26日編成
第1エストニア国境防衛(予備)連隊 1944年2月26日編成

第300特別編成師団 1944年5月1日編成
エストニア国境防衛(予備)大隊 1944年4月編成


第1エストニア国境防衛連隊
 1944年2月7日歩兵3個大隊(兵力約2,800名)により編成。 1944年2月29日より「第207保安師団」に配属されてペイプス(Peipus)湖西岸での沿岸警備任務に従事し、その後ペイプス湖南方のプスコフ湖西岸に移動しやはり沿岸警備任務に従事。 1944年5月第XXVIII軍団の下でボル(Voru)及びプスコフ(Pskov)での防衛戦に投入。 1944年6月「第300特別編成師団」へ配属。 1944年7月Obtioki川での防衛戦に従事。 1944年8月「第207保安師団」に配属。8月16日ボハンダ(Vohanda)川の戦線でソ連軍を阻止。 8月19日までにエマ川(Emajogi)北岸のLunnja及びKavatsuへと後退。 1944年9月17日エマ川の防衛戦にて壊滅。

第2エストニア国境防衛連隊
 1944年2月7日歩兵3個大隊と砲兵大隊により編成され、第1大隊はタルト(Tartu)、第2大隊と第3大隊はボル(Voru)及びバルガ(Valga)、砲兵大隊はJagevaにて編成され、連隊は「第207保安師団」に配属されてペイプス湖西岸での沿岸警備任務に従事。 1944年3月23日連隊はナルバ河戦線のKurtnaの前線へ移動する予定であったが、「第58歩兵師団」に配属されPutki近郊で防衛戦に投入。 1944年5月「第300特別編成師団」へ配属されペイプス湖北部の前線に移動。 1944年6月「第277歩兵師団」の戦闘団に編入。 1944年7月再び「第300特別編成師団」へ配属され、第4連隊、第5連隊、第6連隊とともに防衛戦へ投入。 1944年8月現在連隊の兵力は1,500〜1,600名。 1944年9月18日〜20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中、連隊はPungerjaの森林地帯で壊滅し残余は小グループに分かれてソ連軍の包囲を突破。一部は戦後まで森林地帯での抵抗を継続。

第3エストニア国境防衛連隊
 1944年2月7日歩兵3個大隊と砲兵大隊により編成。第1大隊はPartu、第2大隊はWiliandi、第3大隊はサーレマー(Saare)島からの兵員により編成され、砲兵大隊はVlilaにて編成。連隊は「第207保安師団」に配属されてペイプス湖西岸での沿岸警備任務に従事。 1944年3月第13中隊、第14(戦車猟兵)中隊を新編成。 1944年4月連隊はTudulinna(Lohusuu地区)へと移動。 第1大隊はナルバ河地区で第XXVI軍団(ナルバ作戦集団)に配属。 1944年5月4日第2大隊及び第3大隊がナルバ河戦線のペルミスクラ(Permiskula)及びバスクナルバ(Vasknarva)へ移動。 1944年6月「第277歩兵師団」の戦闘団に配属。 1944年8月「第300特別編成師団」へ配属。 1944年9月18日〜20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中に壊滅。

第4エストニア国境防衛連隊
 1944年2月26日〜3月3個大隊と戦車猟兵中隊によりVorumma及びPetserimaa地区にて編成後、「第207保安師団」に配属されペイプス湖沿岸のムステベ(Mustvee)及びバルンヤ(Varnja)周辺に移動。 1944年4月「第5エストニア国境防衛連隊」と交替してPihkva近郊の前線へと移動。 1944年5月連隊は「第300特別編成し段」へ配属されることとなるが7月まで前線に留まる。 1944年7月ゴロデンカ(Gorodenka)近郊のナルバ河の前線へと移動し、「第300特別編成師団」に配属。 1944年9月18日〜20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中、連隊は包囲され壊滅し一部はソ連軍に降伏。

第5エストニア国境防衛連隊
 1944年2月26日〜3月歩兵3個大隊と戦車猟兵中隊によりVorumaa、Jarvamaa、及びViliaudimaa地区にて編成。連隊本部及び第2大隊はPaideに、第1大隊はTuriに、第3大隊と戦車猟兵中隊はPaltsamaaに駐屯。 1944年4月連隊は「第4エストニア国境防衛連隊」と交替してペイプス湖沿岸地区へ移動。第1大隊は4月12日、第2大隊は4月20日、第3大隊は6月に移動を完了。 1944年5月連隊本部と第1、第2大隊は「第300特別編成師団」へ配属。 1944年7月第2大隊Joepera-Mehikourma地区へ移動。エストニア郷土防衛大隊「タルトゥマ」が連隊に配属。 1944年8月「第207保安師団」に転属となりタルトゥ地区へと移動。 8月29日「第1エストニア国境防衛(予備)連隊」より2個大隊を編入。 1944年9月18日〜20日エマ川の防衛線で隣接部隊がソ連運に突破されたれたため連隊はVesmerに後退し、その後北方へと後退したが最後には強力なソ連軍に補足され壊滅。

第6エストニア国境防衛連隊
 1944年2月26日〜3月3個歩兵大隊と戦車猟兵中隊によりParnu及びKilingi-Nomme地区にて編成。(兵力約3,000名) 1944年6月23日「第207保安師団」に配属されペイプス湖西岸地区へ移動。 1944年7月Pihka地区の前線に送られる予定であったがVelikaya川沿いの防衛陣地構築作業に変更となる。7月中旬から再度ナルバ河戦線のペルミスクラ(Permiskula)地区に移動。 1944年8月「第300特別編成師団」に配属され、第2大隊はナルバ河のペルミスクラ島の防衛を担当したが、8月11日のソ連軍の攻撃により撤退。 1944年9月18日〜20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中、連隊は孤立しAlutaguseの森林地帯で壊滅。

第1エストニア国境防衛(予備)連隊
 1944年2月26日補充要員訓練部隊として編成され、第1〜第3大隊と第13〜第16中隊を持つ。 1944年4月予備役兵約5,000名を編入。 1944年8月第1大隊と第3大隊が第5エストニア国境防衛連隊に編入。 1944年8月29日ヴォルツ湖北東岸のJoesuu地区(エマ川への流出口でヴォルツ湖沿いの道路と橋があった。)で前線に投入。 1944年9月18日〜20日ドイツ軍がナルバ戦線から撤退を開始した際には足止め部隊として投入。 1944年9月23日連隊はラトビア国境まで後退に成功。一部の兵員はラトビア領内に留まりゲリラ戦を継続することを選択したが、大部分はリガに向かい海路ゴッテンハーフェンへたどり着いた。その後ノイハマー演習場に送られ「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」に編入。

第300特別編成師団
 壊滅した第13空軍地上師団の司令部要員をもとに特別編成師団司令部として編成。1944年5月1日第4、第5、第6エストニア国境防衛連隊を編入し、第28軍団(第18軍)に配属されてプスコフ湖西岸での沿岸警備任務に従事。 1944年7月後半から第3SS戦車軍団に配属となりナルバ河戦線へと移動。 1944年8月の時点で第2、第3、第4、第6エストニア国境防衛連隊を編入。 1944年9月18日撤退作戦「アスター」により撤退を開始。配下の連隊は撤退戦の混乱の中で壊滅したが、師団司令部はクールラントまで後退し戦闘を継続。

エストニア国境防衛(予備)大隊
 1944年4月警察部隊への補充要員訓練部隊として編成。詳細不明。


郷土防衛隊(民兵組織)

1940年6月のソ連による占領以来、ソ連に対するレジスタンス活動を展開していたエストニアの「森の兄弟」は1941年6月13日からドイツ式の「郷土防衛隊(Oma Kaitse)」として改編されました。さらに8月2日付けで郷土防衛隊は常設部隊として組織化され、それまでの臨時編成の警備部隊は一旦解散の後再編成されました。この新しい郷土防衛隊は全国を13の地域防衛隊(その他に1944年7月からタリンに鉄道防衛隊を設立)により管轄し、各地域ごとの4個郷土防衛大隊が編成されており、1943年7月の時点で約32,000名の兵力を保有していました。
ソ連軍がエストニア国境に迫った1944年2月始め以降、これらの大隊群は4個郷土防衛連隊、1個戦闘団および4個郷土防衛大隊に再編成され防衛戦に投入されましたが、1944年9月までの戦闘ですべて壊滅しました。※郷土防衛大隊はなぜか5個大隊ありました。

エストニア郷土防衛連隊「タリン/レバル」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛連隊「タナシルマ」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛連隊「ムストラ」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛連隊「ヴォル」 1944年2月始め編成

エストニア郷土防衛大隊「キサペア」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛大隊「ヴェシロ」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛大隊「ウダ-タルトゥ」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛大隊「ヴァルガ」 1944年2月始め編成
エストニア郷土防衛大隊「ヴィル」 1944年2月始め編成

戦闘団「ラエヴァ」 1944年2月始め編成


エストニア郷土防衛連隊「タリン/レバル」
1944年2月10日第1大隊に郷土防衛大隊「タリン」、第2大隊に郷土防衛大隊「パルヌ」、第3大隊に郷土防衛大隊「タルト」及び「ヴィリヤンディ」を編入して編成。 1944年2月13日編成途中の3個大隊から戦闘可能な兵員が抽出されトラックによりナルバの前線に送られ、砲兵や対戦車砲の重火器のないまま戦闘に投入され2月末までに壊滅状態となる。 1944年6月第1大隊の再編成がヴィリヤンディ地区で完了。 1944年7月連隊本部の編成と第2大隊の再編成が完了し、第285保安師団に編入。 1944年9月第3大隊の再編成が完了して戦線に到着。 1945年1月16日解散。

エストニア郷土防衛連隊「タナシルマ」 
1944年2月始め第1大隊(ヴィリヤンディ大隊)及び第2大隊(ヤルバ大隊)により編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛連隊「ムストラ」 
1944年2月始めパルヌ(ペルナウ)地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛連隊「ヴォル」 
1944年2月始めヴォル地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛大隊「キサペア」 
1944年2月始めタルトゥ地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛大隊「ヴェシロ」 
1944年2月始めタルトゥ地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛大隊「ウダ-タルトゥ」 
1944年2月始めタルトゥ地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛大隊「ヴァルガ」 
1944年2月始めヴァルガ地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

エストニア郷土防衛大隊「ヴィル」 
1944年2月始めヴィル地区の郷土防衛大隊より編成。 1944年9月までに壊滅。

戦闘団「ラエヴァ」 
1944年2月始め2個郷土防衛大隊を編入(第1大隊及び第2大隊)して編成。 その後第3大隊を新編成。 1944年9月までに壊滅。


1944年6月以降、郷土防衛連隊と郷土防衛大隊が追加編成されましたが、1945年1月16日時点まで残っていたエストニア人部隊はすべて解散されました。

エストニア郷土防衛大隊「バルマ」 1944年6月編成
エストニア郷土防衛大隊「タルトゥマ」 1944年6月編成

エストニア郷土防衛連隊「フェリン」 1944年9月12日編成
エストニア郷土防衛連隊「ペルナウ」 1944年9月12日編成
エストニア郷土防衛連隊「キビ」 1944年9月編成


エストニア郷土防衛大隊「バルマ」
1944年6月編成。 1944年8月エストニア郷土防衛大隊「タルトゥマ」とともに一時的に連隊戦闘団を編成。

エストニア郷土防衛大隊「タルトゥマ」
1944年6月編成。 1944年7月第5エストニア国境防衛連隊に配属。 1944年8月エストニア郷土防衛大隊「バルマ」とともに一時的に連隊戦闘団を編成。

エストニア郷土防衛連隊「フェリン」 
1944年9月12日郷土防衛大隊「フェリン(Pellin)」及び郷土防衛大隊「ヤベン(Jerven)」の2個大隊より編成。 1945年1月16日解散。

エストニア郷土防衛連隊「ペルナウ」 
1944年9月12日郷土防衛大隊2個大隊(第1大隊・第2大隊)より編成 1945年1月16日解散。

エストニア郷土防衛連隊「キビ」 
1944年9月郷土防衛大隊「オノ(Onno)」、郷土防衛大隊「レイスク(Leisk)」及び郷土防衛大隊「レイン(Lein)」の3個大隊より編成。 1945年1月16日解散。


陸軍の保安大隊/東部大隊と建設大隊

 1941年8月から陸軍の管轄下に第181保安大隊〜第185保安大隊と第186予備大隊を含む6個のエストニア保安部隊が編成されました。各大隊の兵力は700名であり、当初はエストニア国内での保安任務に従事しましたが、1941年10月からは第18軍の前線にも投入されて善戦しました。
 1942年10月23日、これらの保安大隊は第658東部大隊〜第660東部大隊と第657東部中隊及びエストニア予備大隊「ナルバ」に改編され、レニングラード戦線やナルバ戦線で前線に投入されました。1943年1月からエストニアの東部大隊は「エストニア大隊」と改称され、1943年7月からは武装SSの管轄下に移管されました。

第181保安大隊/第658東部大隊
第182保安大隊/第659東部大隊
第184保安大隊第13中隊/第657東部中隊
第184保安大隊/第660東部大隊
第185保安大隊
第186予備大隊/予備大隊「ナルバ」

 その他にも1944年4月に陸軍の管轄下で5個の建設大隊が編成されました。要員は新たに28歳から40歳までの予備役兵10,000名が召集され、建設大隊の他訓練のために「第1エストニア国境防衛(予備)連隊」にも送り込まれました。

第Iエストニア建設大隊 1944年4月編成
第IIエストニア建設大隊 1944年4月編成
第IIIエストニア建設大隊 1944年4月編成
第IVエストニア建設大隊 1944年4月編成
第Vエストニア建設大隊 1944年4月編成


第181保安大隊/第658東部大隊
第1〜第4中隊。 1944年5月〜6月SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)の第47SS義勇擲弾兵連隊に第2大隊として編入。

第182保安大隊/第659東部大隊
第5〜第8中隊。 1944年5月〜6月SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)の第47SS義勇擲弾兵連隊に第1大隊として編入。

第183保安大隊
第9〜第12中隊。

第184保安大隊第13中隊/第657東部中隊
1943年7月第2エストニア義勇連隊に編入。

第184保安大隊/第660東部大隊
第14〜第18中隊。 1943年7月第2エストニア義勇連隊に編入。

第185保安大隊
第19〜第22中隊。

第186予備大隊/予備大隊「ナルバ」

第Iエストニア建設大隊 
1944年4月3個中隊により編成。北方軍集団に配属。 1944年12月解散。

第IIエストニア建設大隊
1944年4月3個中隊により編成。北方軍集団に配属。 1944年12月解散。

第IIIエストニア建設大隊
1944年4月編成。北方軍集団に配属。 1944年12月解散。

第IVエストニア建設大隊
1944年4月4個中隊により編成。北方軍集団に配属。 1944年12月解散。

第Vエストニア建設大隊
1944年4月4個中隊により編成。北方軍集団に配属。 1945年2月「ステチン要塞」(オーデル河)に配属。


武装SS

 1942年8月、エストニア人義勇兵による「エストニア兵団」の編成が下令され、10月8日には最初のエストニア人義勇兵113名が訓練のためデビカSS練兵場へ送られました。「エストニア兵団」の兵力は1943年3月までに969名に達し、第1大隊が編成されてハリコフ方面へ送られ、「ナルヴァ」大隊として第5SS戦車師団「ヴィーキング」に配属されました。

エストニア兵団 1942年10月1日設立
エストニア兵団第1大隊/「ナルヴァ」大隊 1943年3月編成

 1943年3月23日、エストニア人義勇兵による第1エストニア義勇連隊の編成が下令され、5月には第2連隊も編成されてこの2個連隊により兵力約5,000名の「エストニアSS義勇旅団」が設立されました。1943年7月には第2連隊に第660東部大隊と第657東部中隊が編入され、1943年10月22日からは名称も「第3エストニアSS義勇旅団」となり、パルチザン掃討作戦に投入されるためリガ(ラトビア)に送られました。旅団は戦闘団「イェッケルン」に配属され、11月1日からパルチザン掃討に投入されましだが、11月1日からソ連軍の攻勢が始まると11月5日に作戦は中止され、戦闘団「イェッケルン」と共にドリッサ方面での防衛戦に投入されました。1943年12月31日現在の旅団の兵力は、将校178名、下士官864名、兵4057名でした。

エストニアSS義勇旅団 1943年5月5日編成
第3エストニアSS義勇旅団 1943年10月22日改称

 1944年1月24日、旅団は師団へと拡大されることとなり、旅団の2個連隊は「第45SS義勇擲弾兵連隊」と「第46SS義勇擲弾兵連隊」となり、「ナルヴァ」大隊の残余も「SS第20軽歩兵大隊」として再編成のうえ編入され、師団名も「第20エストニア義勇師団」と命名されました。2月始めには師団はナルヴァ戦線での防衛戦に投入されましたが、4月17日現在の兵力は7,760名であり定数の約半数にすぎませんでした。
 4月以降には「第45SS義勇擲弾兵連隊」と「第46SS義勇擲弾兵連隊」はそれぞれ2個大隊から3個大隊に拡大され、5月〜6月にかけては第658、第659東部大隊を母体として「第47SS義勇擲弾兵連隊」も編成され戦線に到着しました。1944年5月26日には師団名も「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」と改められました。

第20エストニア義勇師団 1944年1月23日編成
SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1) 1944年5月26日改称

 1944年9月18日、ドイツ軍のエストニアからの撤退作戦「アスター」が発動され、師団もナルヴァ戦線からの撤退を開始しし、リバウの防衛戦を経て9月末にはエストニア国境を越え、リガを経由して10月始めには東プロイセンのノイハマー演習場へと輸送され再編成が開始されました。
 1945年1月12日からソ連軍の大攻勢が発起されると、再編成中の師団にも出撃命令が下され、師団はオーデル川西岸のブリーク付近で防衛戦に投入されました。師団本隊はオッペルン南方で防衛戦を展開し、3月15日にはファルンケベルグ付近でソ連軍に包囲されたものの2日後には何とか西方への突破に成功しました。その後師団残余は第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴィッセル」とともに防衛戦を展開し、ライヒェンベルク(チェコ)で終戦を迎えました。しかしチェコパルチザンによる報復の標的となり、ごく一部のみが西方への脱出に成功してエルベ川を渡り、アメリカ軍に投降しました。


エストニア人義勇兵データ(1944年春)

ドイツ陸軍         5,000名(建設大隊)
武装SS         20,000名
国境防衛連隊       20,000名
シューマ大隊        9,000名(警察連隊を含む)
郷土防衛隊(民兵)     5,000名
海軍              400名
トート組織、空軍、RAD他 9,600名
合計           69,000名


2008.10.12 新規作成
2008.11.24 一部修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/