泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

第300特別編成師団
Division z.b.V. 300

 高橋慶史さんの労作「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」で「SS戦車旅団グロス」を読まれた方は多いと思いますが、ナルバ戦線で壊滅した「第300特別編成師団」を覚えている方は何人いらしゃるでしょうか? ラスカンでは「戦線を突破された」と書かれたこの師団はどんな部隊だったのか、ナルバ戦線撤退のきっかけとなった「ドルパトとエマ川の防衛戦」とはどんな戦いだったのか、気になりませんか?

1.壊滅と改編
 1944年3月末「第13空軍地上師団」はオポシュカ(Opotschka)~プレスカウ(Pleskau)の鉄道線をめぐる戦闘で壊滅し、師団の残余は4月1日付けで新部隊へと改編されました。
・ 師団司令部 → 第300特別編成師団司令部
・ 第13空軍砲兵連隊司令部 → 第1016特別編成砲兵連隊司令部
・ 第13空軍砲兵連隊第2大隊 → 第207砲兵連隊第1大隊
・ 第25空軍猟兵連隊の司令部と連隊残余(約1個大隊の兵力) → 第12空軍野戦師団の猟兵連隊に吸収
・ 他の師団残余 → 他の歩兵師団に吸収

 1944年5月1日より第300特別編成師団司令部には「第2エストニア国境防衛連隊」、「第4エストニア国境防衛連隊」、「第5エストニア国境防衛連隊」および「第6エストニア国境防衛連隊」が編入され、第28軍団(第18軍)の戦区であるプスコフ湖西岸での沿岸警備任務に従事しました。(補足-1)
 師団は1944年7月末より第3SS戦車軍団に配属となりナルバ河戦線へと移動し、戦線の南側の防衛を担当することとなりました。この時点で第3SS戦車軍団の配属部隊と第300特別編成師団の編成は次のようなものでした。


第3SS戦車軍団

第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」
第4SS装甲擲弾兵旅団「ネーデルラント」
第11歩兵師団
SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)
第227歩兵師団
第300特別編成師団


第300特別編成師団の編成(1944年7月現在)

第300特別編成師団司令部
  第2エストニア国境防衛連隊
  第4エストニア国境防衛連隊
  第5エストニア国境防衛連隊
  第6エストニア国境防衛連隊
6個砲兵中隊(重及び軽歩兵砲中隊)
1個猟兵(軽歩兵)大隊
工兵部隊
師団補給段列
師団管理部隊


 ナルバ河戦線は北部のナルバ湾~ナルバ市街地から南部のペイプス湖までナルバ河に沿った約80kmの防衛線で、1944年2月以来「ナルバ作戦集団」がここで防衛戦を展開していました。戦線の中央部から南部にかけての一帯は湿地帯であり、ナルバ市街地のすぐ南から中央部ではソ連軍の浸透により突出部が形成されていました。ソ連軍はこの橋頭堡から道路と鉄道のある北部への攻撃を繰り返しており、「泥だらけの虎」でおなじみの「第502重戦車大隊」とオットー・カリウスの戦いもここで展開されていました。1944年7月25日から26日にかけてついにナルバ市街地が放棄され、北部の防衛線は約15km西側の「孤児院の丘」、「擲弾兵の丘」、「69.9高地」を中心とした「タンネンベルク防衛戦」の新陣地まで後退しました。
 
 師団は「第227歩兵師団」と交代する形で戦区を引き継ぎ、これを機に以前から「第227歩兵師団」に配属されて防衛陣地に在った「第3エストニア国境防衛連隊」がそのまま師団に配属となり、代わりに「第5エストニア国境防衛連隊」はタルトゥ地区の「第207保安師団」に転属となりました。これ以後師団の配属連隊は「第2エストニア国境防衛連隊」、「第3エストニア国境防衛連隊」、「第4エストニア国境防衛連隊」、「第6エストニア国境防衛連隊」の4個連隊となり、このうち「第2エストニア国境防衛連隊」の兵力はこの時点で1,500名~1,600名でした。
 師団は指揮・連絡を容易にするため「北部旅団」と「南部旅団」の2個旅団に分割して運用され、師団司令部はKuremaeに設置されていました。師団の補給路は北部のJeweからJissakuまで通じる延長約30Kmの2本の狭軌鉄道を経由し、その先は師団の工兵部隊が建設した延長約30Kmの丸太道路が師団司令部を経由して「北部旅団」と「南部旅団」の後方へと通じていました。他にはペイプス湖の北岸沿いにVihtse村へと通じる細い一本道の沿岸道路があるのみでした。

2.タルトゥの危機
 1944年7月23日、北方軍集団第18軍戦区ではソ連軍の攻勢によりプスコフ(Pskov)~オストロフ(Ostrov)間で防衛線が突破され、さらに8月12日には新たな攻撃が第18軍の左翼のプスコフ地区に加えられ、8月13日にはプスコフ(Pskov)~バル(Varu)間でついに防衛線が突破されました。第18軍はプスコフ湖での防衛線を維持できなくなり、ソ連軍はプスコフ湖とヴォルツ湖の間をタルトゥ(Tartu)<=ドルパト(Dorpat)>へと進撃を開始しており、このままではナルバ戦線の「ナルバ作戦集団」の背後が脅かされることとなり、ひいては北方軍集団全体が危機に晒されることにもなりかねない状況となりました。この危機に際して8月14日には「ナルバ作戦集団」の予備部隊からタルトゥ防衛部隊として戦闘団「ワグナー」(Kampfgruppe “Wagner”)が編成され、タルトゥとエマ川に防衛線構築のため急遽投入されました。

 8月25日ソ連軍はタルトゥ南東部の湿地帯を抜けてエマ川南岸の旧市街地に突入し、その日の18時にはタルトゥ旧市街地に赤旗が翻り、守備隊は後退を余儀なくされました。エマ川南岸に残るドイツ軍守備隊はタルトゥの北西にある鉄道橋を渡り北岸へと撤退しましたが、ソ連軍もタルトゥ市街地からエマ川北岸へと進出しました。
 エマ川南岸でのソ連軍の攻撃はタルトゥ市街地からさらに西側へと続行されており、Katevereでは無傷の橋がソ連軍の手に落ちてしまい、ここでもソ連軍はエマ川北岸への進出に成功しました。しかしKatevereの北東のNoela村ではSS大隊「ワロニエン」の義勇兵が頑強に抵抗してソ連軍の前進を食い止めていました。
 エマ川北岸の2箇所のソ連軍橋頭堡は8月26日には連絡され、ソ連軍はさらに北へ向けて突破する構えを見せましたが、ドイツ軍守備隊は小部隊のみでソ連軍の突破を必死に食い止めており、タルトゥの北ではParma~Lombi~Keerduの高地線に防衛線が構築され、デグレールSS少佐の指揮するSS大隊「ワロニエン」は運転兵や輸送兵までかき集めて投入し、防衛線は断固として保持されていました。

 一方8月25日には第2軍団司令部と第87歩兵師団の先遣隊もポッサマ(Potsamaa)経由でタルトゥ地区に到着し始めており、8月26日には戦闘団「シュトラハヴィッツ」の本隊もヴォルツ湖の西側を迂回して到着し、戦車旅団「グロス」はエマ川西端のJoesuuでソ連軍の攻撃を撃退しました。8月27日早朝には第87歩兵師団の一部がソ連軍の前進を阻止し、やっと防衛体制も本格化してきました。
 8月28日、ソ連軍は砲兵の移動と部隊の再編成のために前進を停止しており、前線は一時的に安定しました。この機を捉えてソ連軍橋頭堡への反撃作戦が計画され、8月29日には持てる力のすべてをKatevere地区へ投入した反撃が発起されました。この攻撃には第87歩兵師団と第563歩兵師団の一部(ポッサマに緊急空輸された)、警戒部隊、戦闘団「シュトラハヴィッツ」、第393突撃砲旅団が投入されました。
 この攻撃はソ連軍にとっては奇襲となり、ポッサマ~Katevere街道に沿った攻撃はKatevereの橋までの突破に成功し、ソ連軍は橋の北側の森で包囲され、砲12門と大量の物資が鹵獲されました。8月30日までの戦闘でソ連軍のエマ川北岸橋頭堡は大幅に縮小し、タルトゥの北側市街地と飛行場を確保するのみとなりました。8月31日には残るソ連軍橋頭堡への攻撃が開始され、9月1日までにソ連軍はエマ川北岸から完全に排除され、防衛線は再びエマ川の線まで回復されました。

3.撤退作戦「アスター」
 1944年8月末までの戦闘によりタルトゥ地区のエマ川の防衛線は一時的に小康状態となっていました。しかし、9月16日よりソ連軍の新たな攻勢が開始され、タルトゥ東側でエマ川の防衛線を守っていた第87歩兵師団と第207保安師団の戦区でついに戦線が突破され、エストニア郷土防衛部隊の抵抗もあえなく粉砕されてソ連軍はペイプス湖に沿って北に向けて進撃を開始しました。2日後の9月18日には北上したソ連軍の先鋒部隊は早くもムストベ(Mustvee)に達しました。
 1944年9月16日のタルトゥ地区でのソ連軍突破を受けて9月18日には撤退作戦「アスター」が発動され、ついにナルバ河戦線~エストニア~ラトビア西部地区からの撤退作戦が開始されました。命令にはエストニアからの撤退手順が簡潔に述べられています。


 1.第3SS戦車軍団は日没後に西方への移動を開始し、ペルナウへと直行する。軍団の最後の部隊は9月19日朝にはヴェッセンブルクに到着すること。
 2.第2軍団は現防衛線を維持し9月19日に撤退を開始。
 3.ゲロック集団(ゲロック少将)は敵の接近に備えて防衛部隊を編成する。レバルの防衛及び港での乗船を監督する。
 4.東部バルト海海軍司令部はゲロック集団を9月22日までにバルト海諸島に輸送する。


 第3SS戦車軍団は3日間でペルナウまで一気に撤退する計画で、各部隊は20時をもって各陣地からの撤退を開始し、後衛部隊も23時まで拠点を確保した後、静かに撤退しました。第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」と第4SS装甲擲弾兵旅団「ネーデルラント」の自動車化部隊の撤退は順調に進み、9月19日の昼には最後の部隊がヴェッセンブルクに到着しました。第11歩兵師団では師団のすべての車両をかき集めて撤退し、馬匹牽引の砲兵も150Kmを走破して撤退に成功しました。SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)は一路リガを目指して撤退し、その後部隊刷新のためノイハマー演習場へと送られました。

 さて「第300特別編成師団」の場合はどうだったのでしょうか。
 9月18日8時30分、司令官のホッファー少将は作戦参謀のフライフェア・フォン・ハーマースタイン少佐から「エマ川戦線のタルトゥ東部で強力なソ連軍が戦線を突破し、ソ連軍は北上中!」との報告を受け取りましたが、これが不吉な前兆となりました。エンゲルハートSS中佐の指揮する「北部旅団」の西への撤退路は湿地帯を抜ける狭い丸太道路であり、「南部旅団」の方は「第6エストニア国境防衛連隊」のみはいくつかのルートに分かれて撤退できましたが、その他の部隊の撤退路はペイプス湖北岸の湖岸道路のみが頼りでした。師団の各部隊は丸太道路の終点Jisakuで方向を南に転じ、Tudulinna付近の橋によりPungerja川を渡った後、さらに約14km西に進んだAvinurmeで9月19日に「ナルバ作戦集団」のトラック輸送部隊と合流し、その後はトラック輸送によりさらに西へと向かう予定でした。
 師団は9月18日18時より撤退を開始し、師団の3個連隊、砲兵中隊、猟兵大隊及び補給段列が延長約25Kmの1本の丸太道路を頼りに撤退しました。各連隊には1頭立て馬車384両と4頭立て馬車16両が配備されており、これが輸送力の中核でした。馬車を引く馬はエストニア産の小型馬であり、丸太道と湿地帯の悪路で何度も何度も立ち往生を繰り返し、その度に押したり引いたりしての救出が繰り返されました。それでも徹夜の努力により撤退作戦は順調に進められました。

4.再び壊滅・・・その後
 ムストベに達したソ連軍はナルバ作戦集団の撤退にとって大きな脅威であり、9月18日には歴戦の第11SS装甲偵察大隊「ノルトラント」に第521SSロケット砲中隊を増強して戦闘団「ザールバッハ」(Kampfgruppe “Saalbach”)が編成され、阻止部隊として差し向けられました。しかしこの地域は装甲部隊にはまったく不向きの森林地帯であり、ムストベからAvinurme までは約15Km、Tudulinnaまででも約25Kmの距離しかなく、師団の撤退にとっては直接大きな脅威となってきました。
 Jisakuで方向を南に転じた師団はTudulinnaへと向かい、Pungerja川の橋に達したところでついにソ連軍と遭遇してしまいました。師団はなんとか橋を渡ることに成功はしたものの、ソ連軍との戦闘により大損害を被る結果となり、師団の兵力はこの時点で約1,700名に減少してしまいました。このため師団は3個の臨時戦闘団に分割され、バラバラに西方への突破を図ろうとしたようです。一方トラック輸送部隊のAvinurme到着もソ連軍との遭遇で遅れており、大きく北側を迂回したため9月21日になりやっと到着しました。
 師団各部隊はその後ちりじりとなり、多くは森林地帯でソ連軍第8狙撃兵軍団に捕捉され壊滅しました。エストニア国境防衛連隊の生き残りは小グループに分かれての突破を図ると共に、森林地帯に隠れてソ連軍への抵抗を継続するグループもあり、一部は反共産主義パルチザンとして戦後まで抵抗を継続しました。最終的にエンゲルハートSS中佐の指揮する一戦闘団に残った兵力は約600名にすぎませんでした。

5.クールラント橋頭堡の戦い
 1944年10月9日、ソ連軍はメーメル近郊でバルト海に達し北方軍集団は中央軍集団と切り離されましたが、将来の反攻拠点とするためクールラント橋頭堡の確保が厳命されました。クールラントの北方軍集団は1945年1月15日付けでクールラント軍集団と改称され、第16軍と第18軍に再編されて防衛線を構築して以後終戦までに6次にわたる「クールラントの戦い」が展開されました。
 第300特別編成師団残余は北方軍集団/第16軍予備としてラトビア~クールラントへと後退し、11月には第18軍予備となりリーバウ(Libau 現リエパヤ)北側のバルト海沿岸での警戒任務に従事しましたが、12月以降は警戒任務を「Oberst Kúhl司令部」(第749地域軍政司令部)へと引き継ぎました。
 クールラントへの後退後、師団にはナルバ地区から後退してきた第113保安連隊の残余も配属されましたが、1944年末には最後まで残った第3大隊(第972保安大隊)が解隊されると共に連隊も解隊されました。
 1945年1月、第300特別編成師団司令部は第16軍戦区に移動し、戦闘団「ヘンツェ」(第21地上師団(L)司令部)(Kampfgruppe "Henze")が配属され、トゥクムス付近でリガ湾沿岸の警戒任務に従事しました。12月時点で戦闘団「ヘンツェ」は次のような編成でしたが、12月21日からの「第三次クールラント戦」においてSS第6軍団戦区に配属されてソ連軍の攻撃の矢面に立つこととなり、大損害を被っていました。


戦闘団「ヘンツェ」(1944年12月)
Kampfgruppe "Henze"

第21地上師団(L)司令部
第12地上師団(L)/第24猟兵連隊(L)
第6特別編成空軍大隊
第9特別編成空軍大隊
第21戦車猟兵大隊(L)残余
第21通信中隊(L)
SS第106擲弾兵連隊(レットラント第7)
第21砲兵連隊(L)本部
郷土防衛大隊
第21野戦補充大隊(L)
第21衛生中隊(L)


 1945年2月に第300特別編成師は第16軍/第16軍団に配属されて前線の防衛戦に投入されました。戦闘団「ヘンツェ」の指揮官は2月16日付けでオットー・バールト(Barth)少将に交代し、戦闘団は補充として保安部隊や警戒部隊などの雑多な部隊を受取り、2月末には再び単独の戦闘団として戦闘に投入され、3月1日時点ではSS第6軍団戦区と隣接のドゥンダガ付近で防衛戦に投入されていました。


第16軍団(1945年2月6日現在)

第300特別編成師団
第81歩兵師団:1個保安大隊含む
第12地上師団(L):1個保安大隊、1個警察大隊含む
第281歩兵師団の一部(1個連隊規模?本隊はヴィッスワ軍集団へ移動中)
戦闘団「ヘンツェ」(第21地上師団(L)司令部)


第16軍団(1945年3月1日現在)

第300特別編成師団
第81歩兵師団
戦闘団「バールト」(第21地上師団(L)司令部)


第16軍団(1945年4月12日現在)

第300特別編成師団
第81歩兵師団
第205歩兵師団の一部
第218歩兵師団の一部
戦闘団「バールト」(第21地上師団(L)司令部)


 第300特別編成師団には保安部隊、訓練部隊が補充として配属され、4月1日の時点で2個補充大隊、4個保安大隊、1個警戒大隊、1個警察大隊が配属されて概ね歩兵連隊規模の兵力だったと思われますが、詳細はわかりません。師団は第16軍団に配属されたまま5月8日を迎えソ連軍に降伏しました。


【補足-1】
 「エストニア国境防衛連隊」は1944年2月に6個連隊が編成され、それぞれ後方地区での警戒任務等に従事しましたが、その後第207保安師団と第300特別編成師団に配属され、防衛戦に投入されて壊滅しました。

第1エストニア国境防衛連隊
 1944年2月7日歩兵3個大隊(兵力約2,800名)により編成。 1944年2月29日より「第207保安師団」に配属されてペイプス(Peipus)湖西岸での沿岸警備任務に従事し、その後ペイプス湖南方のプスコフ湖西岸に移動しやはり沿岸警備任務に従事。1944年5月第XXVIII軍団の下でボル(Voru)及びプスコフ(Pskov)での防衛戦に投入。
 1944年6月「第300特別編成師団」へ配属。1944年7月Obtioki川での防衛戦に従事。1944年8月「第207保安師団」に配属。8月16日Vohanda川の戦線でソ連軍を阻止。8月19日までにエマ川(Emajogi)北岸のLunnja及びKavatsuへと後退。1944年9月17日エマ川の防衛戦にて壊滅。

第2エストニア国境防衛連隊
 1944年2月7日歩兵3個大隊と砲兵大隊により編成され、第1大隊はTartu、第2大隊と第3大隊はVoru及びValga、砲兵大隊はJagevaにて編成され、連隊は「第207保安師団」に配属されてペイプス湖西岸での沿岸警備任務に従事。1944年3月23日連隊はナルバ河戦線のKurtnaの前線へ移動する予定であったが、「第58歩兵師団」に配属されPutki近郊で防衛戦に投入。
 1944年5月「第300特別編成師団」へ配属されペイプス湖北部の前線に移動。1944年6月「第277歩兵師団」の戦闘団に編入。1944年7月再び「第300特別編成師団」へ配属され、第4連隊、第5連隊、第6連隊とともに防衛戦へ投入。1944年8月現在連隊の兵力は1,500~1,600名。1944年9月18日~20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中、連隊はPungerjaの森林地帯で壊滅し残余は小グループに分かれてソ連軍の包囲を突破。一部は戦後まで森林地帯での抵抗を継続。

第3エストニア国境防衛連隊
 1944年2月7日歩兵3個大隊と砲兵大隊により編成。第1大隊はPartu、第2大隊はWiliandi、第3大隊はSaare島からの兵員により編成され、砲兵大隊はVlilaにて編成。連隊は「第207保安師団」に配属されてペイプス湖西岸での沿岸警備任務に従事。1944年3月第13中隊、第14(戦車猟兵)中隊を新編成。1944年4月連隊はTudulinna(Lohusuu地区)へと移動。第1大隊はナルバ河地区で第XXVI軍団(ナルバ作戦集団)に配属。1944年5月4日第2大隊及び第3大隊がナルバ河戦線のペルミスクラ(Permiskula)及びバスクナルバ(Vasknarva)へ移動。1944年6月「第277歩兵師団」の戦闘団に配属。
 1944年8月「第300特別編成師団」へ配属。1944年9月18日~20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中に壊滅。

第4エストニア国境防衛連隊
 1944年2月26日~3月3個大隊と戦車猟兵中隊によりVorumma及びPetserimaa地区にて編成後、「第207保安師団」に配属されペイプス湖沿岸のムステベ(Mustvee)及びバルンヤ(Varnja)周辺に移動。1944年4月「第5エストニア国境防衛連隊」と交替してPihkva近郊の前線へと移動。
 1944年5月連隊は「第300特別編成師団」へ配属されることとなるが7月まで前線に留まる。1944年7月ゴロデンカ(Gorodenka)近郊のナルバ河の前線へと移動し、「第300特別編成師団」に配属。1944年9月18日~20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中、連隊は包囲され壊滅し一部はソ連軍に降伏。

第5エストニア国境防衛連隊
 1944年2月26日~3月歩兵3個大隊と戦車猟兵中隊によりVorumaa、Jarvamaa、及びViliaudimaa地区にて編成。連隊本部及び第2大隊はPaideに、第1大隊はTuriに、第3大隊と戦車猟兵中隊はPaltsamaaに駐屯。1944年4月連隊は「第4エストニア国境防衛連隊」と交替してペイプス湖沿岸地区へ移動。第1大隊は4月12日、第2大隊は4月20日、第3大隊は6月に移動を完了。
 1944年5月連隊本部と第1、第2大隊は「第300特別編成師団」へ配属。1944年7月第2大隊Joepera-Mehikourma地区へ移動。エストニア郷土防衛大隊「タルトゥマ」が連隊に配属。1944年8月「第207保安師団」に転属となりタルトゥ地区へと移動。8月29日「第1エストニア国境防衛(予備)連隊」より2個大隊を編入。1944年9月18日~20日エマ川の防衛線で隣接部隊がソ連運に突破されたれたため連隊はVesmerに後退し、その後北方へと後退したが最後には強力なソ連軍に補足され壊滅。

第6エストニア国境防衛連隊
 1944年2月26日~3月3個歩兵大隊と戦車猟兵中隊によりParnu及びKilingi-Nomme地区にて編成。(兵力約3,000名)1944年6月23日「第207保安師団」に配属されペイプス湖西岸地区へ移動。1944年7月Pihka地区の前線に送られる予定であったがVelikaya川沿いの防衛陣地構築作業に変更となる。7月中旬から再度ナルバ河戦線のペルミスクラ(Permiskula)地区に移動。
 1944年8月「第300特別編成師団」に配属され、第2大隊はナルバ河のペルミスクラ島の防衛を担当したが、8月11日のソ連軍の攻撃により撤退。1944年9月18日~20日撤退作戦「アスター」によりナルバ河戦線から撤退中、連隊は孤立しAlutaguseの森林地帯で壊滅。

出典:Hitler’s Eastern Legions Vol.1(Axis Europa 1998)
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参考資料(2008.5.9)
Bridgehead Kurland (J.J.Fedorowicz Publishing,Inc. 2002)
Tragedy of the Faithful(J.J. Fedorowicz 2001)
Hitler’s Eastern Legions Vol.1(Axis Europa 1998)
Russo-German War (Summer 1944) (Valor Publishing 1987)

https://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Gliederungen/Armeen/16Armee.htm
https://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Gliederungen/DivisionsnzbV/300zbV.htm

2008.6.7 新規作成
2023.11.28 「5.クールラント橋頭堡の戦い」を追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/