sleepieは、Macユーザーである。一部からはMacおたくと呼ばれているが、本人はそれを否定して「似非Macおたく」であると主張している。傍目にはどこが「似非」なのか解らないという噂だが、まあ「おたく」というならもっと困った人が一杯いるというのが、本人の言い分であるらしい。Macを使い始めたのが1991年だから、すでに10年以上使ってることになるわけだが、それ以前には「ワープロ専用機」というものを使っていた。その頃は、友人達とミニコミのようなものを作るのに、きれいな字で出せれば良いなあ、などと漠然と考えていたのだった。
これまでに使ってきた機種をまとめると、下表のようになる。
購入年月
メーカー
機種
愛称
1986
Toshiba
1986
Toshiba
1989
Toshiba
1991.2
Apple
1995.12
Hewlett Packard
1997
Apple
1998
Apple
1999.7
Hewlett Packard
2000
Apple
さらに職場で使ってきたマシンもいろいろあったりする。
そもそもコンピュータなんてものを使うようになったのには、それなりの理由もあったわけで、そういったことを書いていこうと思ってるわけなんだが、それにしても、こんなにコンピュータというものが世間に蔓延することになるような気はしていたが、本当になるとは思ってなかったなあ。
最初に購入したのは、東芝のRupoだった。確か、Toshiba Rupo JW-R50FIIというモデルであったはずだ。
「RupoMAGAZINE」というサイトによれば、この機種は1986(昭和61)年3月に発売されたものらしい。まだ寒い頃に電気屋をウロウロした覚えもあるので、発売から然程間をおかない時期に購入したのではないだろうか。価格は128,000円で、40字×4行液晶表示がウリであった。今から思えばたった160字だが、当時のワープロは5文字だとか7文字だとか、せいぜい十数文字という表示文字数でしのぎを削っており、いきなり160字が表示できるという機能は、購入を即決させるに足るものであった。確か、ほぼ同じ時期にセイコー・エプソンかどっかからも同じ文字数の表示機能を持つ機種が発売されていたが、特別な機能キーの設定などが一目瞭然であるというキーボードの配列、ユーザー・インターフェースの良さを評価して、東芝に軍配を上げたのだった。
しかし、いざ使い始めると、不便なことも色々あった。JIS漢字第二水準は画面表示ができず、印刷はフロッピー・ディスクから読み取らなければできなかった。英語、ドイツ語、フランス語なども扱いたかったのだが、ウムラウトやアクサン、セディーユなどを組みあわせた文字は供給されておらず、外字をコツコツ作ることになった。この頃から視力がかなり落ちるのだが、バックライトのない暗い液晶画面で、16×16ドットとかの外字を作るために、幾度となく徹夜で作業に及んだ影響が大きいと思う。更に、原稿用紙への印刷機能がなかったことは、大きな不満だった。当時学生だった私は、レポートの作成などをワープロで行うことを目論んでいたのだが、原稿用紙での提出が義務づけられることも多く、印刷の自由度の低さには泣かされた。教育実習の教案などをこの機械で作ったりもしたが、何かをするよりも、何ができるかを確かめた位のところで友人に譲り、次の機種に移った。
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次に購入したのは、1986(昭和61)年8月に発売されたToshiba Rupo JW-R70Fだった。価格は138,000円で、表示文字数は40字×10行となり、実に原稿用紙一枚分を確認しながら入力、編集ができるようになった。確か、この機種は画面に第二水準の漢字を表示できるようになっていたはずだ。また、原稿用紙への印刷ができるようになり、印刷の字体もゴシック体から明朝体にデザイン変更がなされていた。卒業論文をこの機械で作成したのだが、通っていた学科では、恐らく最初のワープロによる論文提出者となったはずだ。印字のきれいさで、内容をごまかしたという噂もあるが……この時期、ワープロの文章は書き手の心がこもらないだの何だのという議論もあったが、実際に印字、特に原稿用紙などに印字する作業は非常に困難なものであり、機械任せで楽にスイスイという印象は全くない。というのも、文字位置などの設定を行うことがまず大変で、印刷する際には、塩ビのシートにいちいち原稿用紙をセットしてから、プリントせねばならなかったのである。手で書くよりも手間はかかったかも知れない。そして、作業の手間と内容の間には、ほとんど関係はないのである。また、一度に編集できる文字の分量は、原稿用紙にしてほぼ17枚程度だったはずで、長い文章になるといくつものファイルに分割保存せねばならず、前半を書き足してるうちに分量オーバーで編集不能になったり、後半とのつながりが変になったりと、些細なつまずきは依然多かった。それでも86年秋から89年春まで、2年ちょっとは使い続けた。その後は家族が使っていたが、最後は内蔵電池の寿命とともに内部ROMがいかれたらしく、おしゃかになった。
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1989(平成元)年に後継機種のToshiba Rupo JW90HXへと移った。前年11月発売で、価格は198,000円。バックライト白液晶で、画面は格段に見やすくなり、40字×20行が表示できたはずだ。画面分割やフロッピーに保存した複数(二つだったか)の文章を同時に表示し、それぞれを編集するなんてことも可能で、色々できると期待したのだった。だが、人工知能だか何だか、日本語の変換が機械的でなくなってかえって使いづらくなり、入力文字列の確定など、基本的な部分になじめなくなってしまった。また、住所録や読書録といったデータベース的な作業をやりたくなってきたのだが、そういった機能面でも不満が大きかった。
そうして徐々にコンピュータの使用を考え始めることになったのである。
しかし、当時圧倒的なシェアを誇っていた(んですよね?)NECの88とか98などの機種については、何をどうすればどうなるものなのか、さっぱりわからなかった。とりあえず勉強だろうと、コンピュータ雑誌(その頃は「ASCII」誌とかでしたね)を読んでみても、何が何やらわからない。(こういうことだったんだろうなあ、くらいには思えるようになったは、HP200LXを使うようになってからのことだ)しばらくすると、ASAHIパソコンとか、もう一誌、何だったかなあ、パソコン入門雑誌のようなものが出てきたが、ああ「EYE-COM」とつづって、「アイコン」と読ませたのなんかを読んでみても、やはり何だか今一つわからない。実際に、買って、使ってみないとわからないものなんだろうなあ、とは思うものの、その割に値段は高いものだったのである、当時のパソコンというやつは。価格の面と、音楽ができそうだということで、MSXやMSX-IIに手を出しかけたこともあった。
だが、大学の先輩が熱烈なマッキントッシュ・ユーザーであったことから、次第にMac購入を考えるようになった。たまたま読んでみた「MACLIFE」誌に四本淑三の文章があって、なんじゃこりゃと思ったりしつつ(まあ岩谷宏が「現代思想」に書いてたりもするがね)、それなりに書いてあることはわかるようにも思い、また、ショップが近くにあったこともあって、実際に触って、使えるものかどうか、何がどうできるのか、見ることもできたのだった。
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そして、1991年2月21日、ついにMacintosh IIsiを購入するに到ったのであった。ここから先も長いので、個々のマシンについて見ていこう。
で、このページの結論として、「オタクと呼んで貰って構わん!」という開き直りに到るのかな。でも、まだまだだと思うけどね……やだやだ。
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