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石見城

交通の要衝をおさえる鉱山本体から潮川沿いに仁万平野へ続く道の行く手をふさぐかのようにそびえる岩山に、石見城は築かれている。明確な史料がなくはっきりしないが、温泉郷の領主温泉氏の城であった可能性も指摘されている。

その縄張りは比較的小規模であるものの、丁寧な普請がなされている。とりわけ、仁万平野側ではなく鉱山本体側の防御施設がしっかりしている点は、石見銀山をめぐる争奪戦の動向と合わせて、興味深いところといえよう。
鵜丸城  (港の防衛)

温泉津防衛の拠点として築かれた鵜丸城は、「鵜之丸普請賦之事」という史料によって築城時の労働力分担がわかる数少ない城である。史料に見られる「杖」という単位は普請部分の広さを表しており、各郷村の規模に応じて杖数が割り当てられたと推測されている。縄張り上の特徴は東側の曲輪群とされており、階段状に三段配置された曲輪(帯曲輪) には鉄砲を持った銃撃手を並べ、銃陣を敷いたとも指摘されている。
山吹城  (銀山支配の拠点) 石見国内の城、1位・2位を争う名城

石見銀山の開発当初から毛利氏支配下の時期まで、山吹城が鉱山本体の支配拠点であったのは確実だろう。
その縄張りは標高四一四メートルの要害山頂上にある。方形の主部の南北に曲輪(くるわ)が連続し、主郭(しゅかく)東側の通路によって南北の曲輪群が連結されている。主こぐち郭北隣の曲輪の虎口に用いられた石垣は何らかの建物が存在したことを窺わせるものである。主郭北側やぐらだいの櫓台と併せ、ふもとから見た際の視覚効果を狙っていたのであろう。こうした遺構群が造られた時期は、その技術的な特徴から毛利氏あるいは江戸幕府の支配下であったと推定されている。

一方、曲輪群南端に多数残っている、斜面の傾きに沿った縦方向の堀(連続竪堀群)は、毛利氏時代よりも古い時期に築かれた可能性が高い。城主が幾たびか変遷したであろう、山吹城の歴史を伝える
矢筈城 (銀山西方を固める)

尼子氏と毛利氏が激しく戦っていた弘治三年(一五五七)、尼子氏方が確保していた城として矢筈城はみくす史料に見える。周辺の三久須・三ツ子といった城とともに、鉱山本体の防衛拠点の一つとなっていたと考えられよう。矢筈城は、山頂の主郭とやや降った曲輪群で主に構成されている。主部周辺には石が散らばっており、本来は石垣があったのかもしれない。縄張り全体は自然地形の急峻さによっているところが多い。
矢滝城  (温泉津沖泊道の要害)

標高634メートルの矢滝城山の頂上に築かれているため、一〇〇メートルから二〇〇メートル低い仙ノ山や山吹城を見下ろすことができる。鉱山本体から温泉津方面へ続く温泉津沖泊道の要害である=とと考え合わせると、「銀山旧記」が記した石見銀山のおさえの城としての位置づけも、うなずけるところだろう。縄張りを見ると、南北二つの頂部に平坦地(曲輪)群を設け、その間も曲輪でつないでいる。北方の主要な平坦地(主郭) には、平坦地入口の防御施設ますがたこぐち(析形虎口)とおぼしき部分が何カ所かあるが、残念ながら、戦後に構造物が建てられた際に改変された跡の可能性が高い。

石見銀山の城跡 (石見城・鵜丸城・山吹城・矢筈城・矢滝城)




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  銀山と城の争奪戦
宝の山である仙ノ山周辺と流通ルートである銀山街道の支配をいめぐって、戦国武将たちは周辺を取り囲む主要な五つの山城の争奪戦を繰り返した。
世界遺産石見銀山の魅力のひとつは、銀山本体だけではなく、すぐ近くのこれらの山城跡と街道がセットになって歴史のロマンをかもし出すところだ!