安芸の宮島
厳島神社 (いつくしまじんじゃ)
所在地
広島県廿日市市宮島町1-1

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朱塗りの大鳥居によって区切られた入り江、その上に建つ厳島神社(いつくしまじんじゃ)の社殿、さらに背後の弥山までもが世界遺産である。
自然につつまれ、自然とともにある、厳島神社を目の当たりにしながら神の島へ船は渡って行く。
安芸の宮島は昔から、丹後の天橋立と陸前の松島と並んで日本三景の一つに数えられてきた、ここには日本有数の自然の美しさに加え、平家一門の厳島詣でなど、平安時代以来の豊かな歴史と文化を持つ厳島神社がある。
青い海と緑の山、そして朱塗りの社殿。自然と人工がみごとに調和した宮島の景観は日本の原風景といってもよい。


厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。1400年の歴史をもつ。式内社(名神大)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社(現 別表神社)。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本三弁天の一つとされている。
厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、平家納経で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。

日本三景(にほんさんけい)とは、宮城県宮城郡松島町の松島、京都府宮津市の天橋立、広島県廿日市市の厳島(宮島)の3つの名勝地のことである。

 神の島
厳島は神の島である。神の住まう島というよりも島自体、島全体が神である。
島の最高峰である弥山は標高530mで、神が宿り、神を象徴する神休山で厳島は古代には人の住んではいけない神聖な島であった。
こうした山岳信仰のもとで厳島の自然が保護されてきた。弥山は全体がモミ、ツガ、カシなどの常緑針葉樹や広葉樹などの原生林でおおわれている。
弥山は古来より山岳宗教の霊地で、山頂には現代、御山神社や大日堂などが建っている。



広島の世界遺産

神をいつきまつる島」という事から「厳島」と呼ばれるようになったという。
また本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる主塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16.8mもある 重さは約60トン。主柱は樹齢5〜6百年のクスノキの自然木でつくられ、8代目にあたる現代の鳥居を建立するのに、巨木探しに20年近い歳月を
要したという。そして驚くことに鳥居は根元を海底に埋めることなく、自然の重みだけで立っている。
自然の共生、神との共生がここにある。


 海にうかぶ神社
厳島神社は,広島湾の入り口にうかぶ宮島の海岸にある神社です。本州から2キロほどの海峡を渡ると,湾の入り口にそびえる巨大な大鳥居,その奥に海にうかぶ神社の建物が見えてきます。すべてが,島の中心にそびえる弥山の原生林に砲かれているようにも見えます。
正面に本社,左には摂社客人神社(せっしゃまろうとじんじゃ),右には能舞台,そして,それぞれを結ぶ長い回廊。建物の高さをおさえ,海面からうきあがるようにつくられた神社は,まるで竜宮城か平安時代の寝殿造りを連想させます。山の緑と海の青のさかい日に朱色の柱,白い壁,黒い屋根の色が映えます。
その美しさは,江戸時代から「安芸の宮島」の名で知られ,松島や天の橋立とともに「日本三景」として有名でした。

 海の守り神
厳島神社の起源は,弥生時代かそれ以前にまでさかのぼると考えられています。厳島はもともと「伊都岐島」と書きました。「神をまつる聖なる島」という意味です。瀬戸内海にそびえる弥山を,神の宿るところと考えた人びとが,島全体をご神体としておがむとともに,海岸にきて祈りをささげたのでしょう。そのときに使われた弥生土器が見つかっています。
やがて平安時代になると,厳島神社は,安芸国(広島県)で最も位の高い神社とされるようになりましたが,まだ地元の人びとがおがむ,地方の神社にすぎませんでした。しかし平安時代の終わり頃,平清盛が登場して,厳島神社は大きく発展します。安芸国の国司だった平清盛は,厳島神社を深く信仰し、そして政治の実権をにざるようになると,神社は大拡張され,今日のような姿になりました。

 清盛と厳島神社の出会いには,つぎのような話が伝わっています。
清盛が若い国司だった頃,朝廷から高野山の塔の修理を命じられました。そのときにひとりの僧があらわれ,「厳島神社を信仰しなさい。かならずご利益がある」とつげました。いわれたとおりに厳島神社にお参りしたところ,清盛は,保元・平治の乱に勝って異例の大出世をとげ,
1167年,武士としてはじめての太政大臣になりました。清盛は,すべては厳島の神のおかげと感謝し,その後もあっく信仰したというのです。
清盛みずからも,「平家納経」(へいけのうきょう)の願文(がんもん)のなかで,そのような内容をのべていますから,単なる伝説ではありません。清盛の厳島参詣はわかっているだけで20年間に10回,それも自分や一族の運命に関わる重大な事件のたびに参っています。
清盛が太政大臣になった頃に社殿を大改装して以降,社殿の造営は朝廷の行事となりました。厳島神社は一躍有名になり,清盛の出世にあやかろうと,厳島参りが流行しました。
平氏も積極的に皇族や貴族を厳島に招待し,後白河法皇(ごしらかわほうおう)や高倉上皇(たかくらじょうこう)なども参詣しています。そんなときには,都の最新流行の舞や音楽にいろどられた,はなやかな行事がくり広げられました。
このように,平清盛が厳島神社を信仰した背景には,清盛が瀬戸内海を中心に勢力をのばしていったことがあります。
瀬戸内海は九州と近畿を結ぶ重要な交通路で,「水軍」と呼ばれる海の武士が活躍していました。清盛の家来の多くは水軍だったのです。
また,清盛は宋(中国)との貿易に日をつけて,九州の港町の博多から瀬戸内海をとおって大輪田泊(おおわだのとまり)(いまの神戸)までを結ぶ日宋貿易のルートをひらき,ぱくだいな利益をえました。
海を基盤として勢力をのばした清盛は,瀬戸内海の守り神としてうやまわれていた厳島神社を,平氏一族の守護神としたのです。
 現在の厳島神社のおもな建物は,1223年の火災のあとに再建されたものですが,基本的に清盛の時代の様式を守っていると考えられています。


 平家納経
厳島神社には,貴族や武士が寄進した数多くの宝物があります。なかでも有名なのが国宝の「平家納経」です。1164年,太政大臣になる直前の平清盛と平氏一族が,神への感謝と来世の幸福をいのって厳島神社におさめた33巻のお経です。金銀をちりばめた紙に美しい絵を描いたお経は,平安時代の美術作品のなかでも最高傑作のひとつとされ,武士出身の平氏の文化レベルの高さをしめしています。

 アジアにつながる道
平氏は1185年に壇ノ浦(だんのうら)で滅亡しましたが,厳島神社は,その後も霊験あらたかな神社として,鎌倉幕府や室町幕府,大名からも保護されて発展しました。瀬戸内海を行きかう商人や大陸との間を往復する貿易商人が,航海の安全祈願にもうでることはもちろん,商品を売り買いする市も立づようになり,この地方の経済の中心になっていったのです。
聖地であり経済上の重要拠点でもある厳島は,戦いの舞台にもなりました。
1554年,中国地方最大の大名(すえはるかた)と安芸の武将(毛利元就)が戦いを挑み、毛利軍は本土から嵐をついて奇襲をかけ勝利。 これが「厳島の合戦」である。
毛利元就も厳島神社をあつく信仰し,本社の西側にある能舞台を寄進しました。

その後も,瀬戸内海をとおって日本とアジアの間を行き来した,さまざまな人びとが厳島神社を信仰しました。
社殿の東の丘の上にある千畳閣は,豊臣秀吉が朝鮮出兵の戦没者のために建てた大経堂です。
明治から昭和にかけて,何度も戦争がありました。広島から、大陸に出征した軍人たちは厳島に武運長久をいのり,帰還した軍人は厳島に感謝しながら,宮島名物のしゃもじを土産に家庭へと帰っていきました。 厳島神社は,日本とアジアをつなぐ道を見つめつづけてきたのです

宮島 
海に浮かぶ朱塗りの大鳥居は厳島神社も見所。美しい海と山と神社によって形作られた安芸の宮島にただ見とれるばかりです。