法隆寺地域の仏教建造物(ほうりゅうじちいきのぶっきょうけんぞうぶつ)
法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳宗の総本山。別名:斑鳩寺(いかるがでら)。聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺をはじめとするこの地域の仏教建築物は聖徳太子と縁が深く、中国の六朝時代の建築の影響を多大に受けている。特に、法隆寺の西院伽藍は、建築年代に諸説あるが世界最古の木造建築として国際的にも著名である。
世界遺産・法隆寺が所在する斑鳩(いかるが)の里には、他にも法起寺、法輪寺、中宮寺など、聖徳太子ゆかりの古代寺院が存在し、この地が早くから仏教文化の栄えた地であったことがわかる。法起寺は法隆寺東院の北東方の山裾の岡本地区に位置する。この地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりとされている。
境内周辺の発掘調査の結果、掘立柱(礎石を据えずに地面に直接柱を立てる)建物の遺構が検出されたことから、法起寺創建以前に何らかの前身建物が存在したことは確認されている。創建当時の法起寺の伽藍は、金堂と塔が左右(東西)に並び、法隆寺西院の伽藍配置と似るが、法隆寺とは逆に金堂が西、塔が東に建つもので、このような形式を「法起寺式伽藍配置」と称している。なお、創建当時の建築で現存するものは三重塔のみである。
現存する世界最古の木造建築を有し、日本美術の宝庫としてあまりにも有名な法隆寺。
隣には弥 菩薩で知られる中宮寺があり、北東には法起寺、法輪寺の美しい三重の塔がそびえ、西には紅葉の名所竜田川が流れる。1300年もの長きにわたり、火災や地震の災害から木の建築を守り、現代に伝えてきた絶えざる努力は言葉には言い表しがたい重さがある。松並木(まつなみき)の参道(さんどう)を歩いて南大門(なんだいもん)を一歩はいると,飛鳥時代,まるで1400年も昔の飛鳥時代にタイムスリップしたような光景が広がります。参道の両側には,ぶあつい土壁,そのつきあたりが中門(ちゅうもん),その奥の左に五重塔,右の松の木の問からは金堂の高い屋根がかいま見えます。それが法隆寺の西院(さいいん)です。法隆寺といえば,「世界最古の木造建築」であるといわれてあまりにも有名です。斑鳩(いかるが)の里に昔と変わらぬ姿でたたずむ法隆寺と法起寺(ほっきじ)の仏教建造物群は,1993年に日本からはじめて世界遺産リストに登録された4つの世界遺産のひとつなのです。
法隆寺
法隆寺のある斑鳩は,奈良市から南西に10キロほどのところにあり,有名な聖徳太子(しょうとくたいし)が宮殿(きゅうでん)をつくった場所です。
聖徳太子は,本名を厩戸皇子(うまやどのおうじ)といい,574年に用明天皇(ようめいてんのう)の皇子として生まれました。592年に推古天皇(すいこてんのう)が 即位(そくい)すると,太子は摂政(せっしょう)となり,叔父(おじ)の蘇我馬子(そがのうまこ)といっしょに政治をリードしました。605年,太子は都のあった飛鳥から斑鳩に宮殿を移し,607年頃に斑鳩宮(いかるがのみや)の西どなりに法隆寺を建てたのです。607年といえば,有名な遣隋使(けんずいし)が派遣(はけん)された年でもあります。太子は,(ずい)(中国)に遣いや留学僧(るがくそう)を送ると同時に,都からはなれた静かなこの地に寺を建て,隋から伝わった新しい文化である仏教について深く学び,正しく日本に広めようとしたのでしょう。
法隆寺は,金堂,五重塔などのある西院と,夢殿(ゆめどの)などのある東院(とういん)からなっています。東院は,太子が瞑想(めいそう)にふけった斑鳩宮の跡に,奈良時代になって建てられものです。その中心である夢殿には,太子が生きているときに,太子とおなじ身長になるようにつくられたという救世観音(くぜかんのん)像が安置されています。
西院も,聖徳太子が建てたときのままではありません。日本書紀には「670年に法隆寺が火事で全焼した」という記録があります。そのとき焼けた寺の跡と見られる遺跡が,いまの西院の東南側に発掘されています。いまの西院は,その後に再建されたもので,奈良時代がはじまる直前の708年頃には完成したと考えられています。
法起寺
法起寺は,聖徳太子の宮殿のひとつ,岡本宮(おかもとのみや)を山背大兄王(やましろのおおえのおう)が寺にしたと伝えられています。706年完成の日本最古の三重塔が残されています。聖徳太子と仏教法隆寺をはじめとする斑鳩(いかるが)のこれらの寺は,聖徳太子の仏教への思いを伝える寺として,大切に守られてきました。聖徳太子は,斑鳩の文化財とは切りはなすことのできない人物です。日本に仏教が伝えられたのは6世紀中頃といわれています。しかし,その受け入れ方は,「異国の珍しいという程度のものでした。そうしたなかで,その教えをほんとうに理解した最初の人物が聖徳太子だといわれています。
聖徳太子は,朝鮮から渡来した僧について仏教を学びました。むずかしい教えを解説した,日本最初の仏教書「三経義疏」(さんきょうぎしょ)は,太子が僧たちとともに書いたものと考えられています。太子の政治は,「仏教の教えをもとにした天皇中心の国づくりをめざした」ものといわれます。当時の朝廷はまだ,それぞれの神と領地をもつ有力豪族の連合体で,天皇はそのなかのリーダーにすぎませんでした。それに対して,太子は有名な「十七条憲法」(じゅうしちじょうのけんぼう)の第1条で「あっく三宝(さんほう)を敬(うやま)え。三宝とは仏・僧・法なり」と定め,仏教を国の基本にすることを明らかにしました。また,「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)をあたえてしたが豪族を役人として従わせましたが,そのなかで位をあらわすのに「一位,二位」のようなランクだけをあらわすことばではなく,「智」や「徳」などのことばを使っています。こんなところにも,「位の高い者は人格の高い者でなければならない」という太子の理想があらわれています。太子は,遣隋使を中国に送っては進んだ文化と仏教を取りいれました。隋(ずい)の皇帝に書いた有名な手紙が,のちに「日本」という国名のもととなったように,その後の日本の国づくりは,聖徳太子の引いたレールの上を進んでいったといえるでしょう。聖徳太子は622年,49歳で斑鳩で亡くなりました。やがて太子は,「日本に仏教を広めた偉大な聖者」(いだいなせいじゃ)「仏の生まれ変わり」と考えられるようになりました。「太子は,10人の話を同時に聞きとることができた」などといった伝説も生まれて,人びとの信仰の対象となっていった。
法隆寺再建の謎
法隆寺が670年にいちど焼け落ち,その後再建されたことは先ほどのべましたが,このときの再建は,いくつかの謎(なぞ)につつまれています。そのひとつが,再建したのはだれかということです。朝廷の記録には法隆寺再建の記録がありませんから,朝廷が再建したとは考えられません。太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族は,蘇我氏(そがし)によって643年にはろばされていますから,再建したのは太子の一族でもないということになります法隆寺は,「太子の怨霊を封じこめるために再建された」という説があります。五重塔(ごじゅうのとう)のてっぺんの相輪(そうりん)に4本の鎌(かま)がつきでていたり,中門(ちゅうもん)の真ん中に通行をさまたげるように柱が立っているのは,怨霊が外にでないようにしているからだというのです。現在は,太子の死と一族の滅亡をいたむ太子の関係者たちが資金をだしあって,長い時間をかけて再建していったのではないか,という説が有力です。金堂(こんどう)には何年も工事が中断した跡があることや,質のおとる材木も使われていることが,その事情を物語っているようです。
中宮寺 (ちゅうぐうじ) 世界遺産リストには登録されていませんが、
近隣の中宮寺(ちゅうぐうじ)と法輪寺(ほうりんじ)も聖徳太子に関連のある寺です
法隆寺の東どなりにある中宮寺は,聖徳太子の母の宮殿を寺にしたもので,「斑鳩尼寺」(いかるがにじ)とも呼ばれます。簡素な本堂には,ほほえみをたたえたその姿から,飛鳥時代の彫刻の最高傑作といわれる弥勤菩薩像(みろくぼさつぞう)と,天寿国旦陀羅繍帳(じゅこくまんだらしゅうちょう)が安置(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)されています。天寿国皇陀羅繍帳とは,太子の死後,太子の妃(きさき)のひとりが,太子がいった天寿国(てんじゅこく)(天国)のようすを刺繍(ししゅう)で表現した大きな布です。
法輪寺(ほうりんじ)
法隆寺(ほうりゅうじ)から歩いて15分ほどのところに法輪寺があります。聖徳太子(しょうとくたいし)の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が,太子のために建てた寺です。その当時の三重塔が残されていましたが,1944年に落雷で焼失してしまいました。現在は,お堂の奥に三重塔が再建されています。
奈良の歴史
蘇我馬子(そがのうまこ)が飛鳥寺(あすかでら)を建てる
興福寺(こうふくじ)が建てられる
薬師寺が藤原京(ふじわらきょう)(奈良県橿原市)(かしはらし)
に建てられる都が藤原京から平城京(へいじょうきょう)に移される
東大寺(とうだいじ)が全国の国分寺(こくぷんじ)の中心となって奈良に建てられる
東大寺の大仏(だいぷつ)が完成する
東大寺大仏殿で大仏開眼供養(かいげんくよう)が開かれる
鑑真(がんじん)が唐招提寺(とうしょうだいじ)を建てる
桓武天皇(かんむてんのう)により都が平城京から長岡京(ながおかきよう)(京都府向日市)(むこうし)に移される
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奈良の歴史 仏教を国のいしずえにしようとした聖徳太子の思い鍾奈良県1993
法隆寺地域の仏教建造物 世界最古の木造建築群 奈良 法隆寺の世界遺産(文化遺産)