姫路城

姫路城の母胎を築いた豊臣秀吉

 姫路城と呼ばれた城の歴史は、中世にまでさかのぼる。古くは日女道丘(ひめじがおか)とよばれた姫山に城郭が築かれたのは1346年、足利尊氏(あしかわたかうじ)を助けて播磨(はりま)守護となった赤松則村の子貞範(さだのり)が築城したという。
 戦国時代の末期になると、各地の戦国大名たちは城下への家臣団の集住、それを支える城下町の建設を志向するようになり、その結果、これまでの山城から平山城、平城へと拠点を移していく。織田信長の安土城などはその早い例で、しょくぼう期以降は、政治・軍事・経済などの機能を担う本格的な近世城郭が相次いで建設される。これらの城郭は、堅固な石垣を築き、その上に空高くそびえる白漆喰塗り(しろしっくい)、総塗ごめの天守をのせていた。天守は古くは天主、殿守、殿主などとも記されている。
 
姫路城が時代の脚光を浴びるのは、や秀吉が活躍した天下統一のころである。1577年信長の命を受けて毛利攻略に向かった羽柴秀吉は黒田孝高の姫路城に抑えられ、孝高の協力を得て播磨の平定にあたった。平定をなしとげた1600年、孝高より姫路城を譲り受けた秀吉は、毛利との戦いに備え、3層の天守など、本格的な城郭を築いた。この秀吉の姫路城が、現代の姫路城の母胎となったのである。
 秀吉は、一方で城下町の建設も行い、町人らを移住させて商業機能を整備した。秀吉が姫路城を居城とした期間はわずかであったが、その後に弟の秀長を入れるなど、豊臣家の重要な拠点として位置づけられていた。
姫路城の完成と城下の発展

 天下の実験をほぼ掌握していた徳川家康は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、西国の抑えとして重要な姫路城に娘婿の池田輝政をいれ、播磨、備前、淡路を与えた。輝政は改めて縄張りを行い、翌年に起工し、9年の歳月を費やして慶長14年に大大名の本拠にふさわしい本格的な近世城郭を完成させた。これが現代の姫路城である。
 内堀・中堀・外堀と三重に配された堀は、城と城下町を地域ごとに区画している。中堀より内側は城主と侍の屋敷地とされ、中堀より外側の内町は足軽や中間の屋敷地、商職人の町屋敷地が明確な地域区分のもとに配置された。


明治期の破壊と戦火をまぬかれた姫路城


 江戸時代初期には各地に数多くの城郭があったが、これらの多くは、1615年の一国一城令によって取り壊される憂き目にあった。
 
 19世紀後半に幕府体制が崩壊し、近代的な中央集権統一国家の建設が進められ、社会が大きく転換するなかで、神仏分離令による廃仏きしゃく、欧化主義や旧物破壊主義などが横行した。「新たな土地に新たな魅力をつくる」といった風潮のもと、美術品や建造物など数多くの文化財が破壊されていった。また幸い保持されることとなった名古屋城も、第2次世界大戦の間に破壊されたりした。
 
 姫路城は、犬山城、、彦根城などとともに明治期に破壊を受けなかったごく少数の城郭のひとつであった。天守閣をはじめ小天守や櫓(やぐら)、門などほとんどの建造物が残り、今 存在する一握りの城郭の中でも、当初の姿をもっとも完全に近い状態で保存しているのが最大の特色である。なかでも姫路城は日本の城郭建築の頂点を示し、高度に発達した縄張りと防御のための巧妙な工夫をほどこした城郭建築技術の最高期の遺構であり、近世初頭の城郭建築のなかでもっともよく保存されている。また木造建築として高い技術的完成度を示している。実戦に使える機能的な役割ときわめて優美で人の心を打つ力を兼ね備えており、白漆喰の総塗ごめの大天守と小天守からなる建築群や千鳥破風・軒唐破風を飾った屋根の重なりの巧妙さなど、デザインと装飾の両方においても、もっとも優れた建造物である。こうした評価によって、姫路城は1993年(平成5年)・12月に世界文化遺産として登録された。

       
犬山城 国宝(天守)      松本城 国宝(天守)     彦根城 国宝(天守)
姫路城の規模と特色

標高45mの姫山に15mの石垣を築き、その上に32mの大天守を持つ姫路城は平山城の典型といってよい。本丸、二の丸、三の丸、西の丸などからなり、内郭と中郭のそれぞれに塀をめぐらして、渦巻き形の配置になっている。イ・ロ・ハ・ニと名づけられた渡櫓からなる天守群は全体としてロの字形の配置になっている。また、すべての建築は白漆喰で仕上げられ、屋根瓦の重なりに目にも漆喰を塗っている。別名、白鷺城(しらさぎじょう)(はくろじょう)という名の由来は屋根まで白い造形美によるのであろう。


美しさと戦国の知恵を兼ね備えた姫路城 (世界遺産)
 日本一の名城といわれる「姫路城」は、赤松 貞範(あかまつ さだのり)が1346年に姫山に山城を築いたのが始まりとされ、その後、羽紫秀吉や木下家定ら戦国武将が歴代城主として名を連ねた。
 現代の城郭は、池田輝政が1601年から8年がかりで建てたもの。平成21年(2009年)秋には平成の大修理が計画されている。
 
 姫路城は一度も戦災に遭うことなく、江戸時代以前に建造された天守閣が残っている珍しい城郭である。そして、白い漆喰(しっくい)の城郭が美しい。また、三角形の千鳥破風や丸みを帯びた唐破風を組み合わせた屋根が、いっそう天守閣の優美さを引き立てている。
 この城郭は戦国時代の要害として、外敵を防ぐ実用的な構造を現代に伝えている。例えば、現存する21箇所の門のひとつ「ほの門」は頭を打ちつけるほど低く、万一の場合埋めやすい設計になっている。さらに、門の隣には油壁があり、頭をかがめてくぐると、その裏側にある天守閣へと続く門が見えないよう工夫されている。
城壁には数多くの丸・三角・長方形の穴が開いている。これは狭間(さま)という射撃用の穴、長方形のものが「矢狭間」、他が「鉄砲狭間」である。

 
  腰曲輪の油壁         狭間(さま)


映像作品
地元のフィルム・コミッションの活動によって、映画やドラマなどのロケが多く行なわれている。ここでは特によく知られたものを挙げる。

数多くの時代劇
東映京都撮影所や京都映画撮影所から場所が近い事から、彦根城とともに、時代劇のロケが頻繁に行われている。特に実際の「江戸城」の代わりとして用いられる事が多い。例えば、『暴れん坊将軍』『水戸黄門』『大奥』など。1937年(昭和12年)には時代劇映画の撮影において城内で爆破シーンの撮影を行なったところ、ろの門が破損し飛散した石で死傷者を出す事故が起こっている。

映画『007は二度死ぬ』
ジェームズ・ボンドがヘリコプターより降り立ったのは三の丸広場である。なおこの撮影では、撮影中に城壁に手裏剣を投げつけて一部を破損させてしまう事故もあった。このことが原因で、今でも姫路城は海外からのロケはお断りであると言われる。

『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』
2001年(平成13年)9月11日放送分において「昭和の大修理」のエピソードが取り上げられた。

『日本沈没』(1974年 TBS系ドラマ)
♯1「飛び散る海」、♯4「海の崩れる時」の劇中、播磨灘地震に伴い大倒壊(この場合はミニチュア)。また主題歌・タイトルバック映像でも流用された(これは実物)。

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私が姫路城に行ったときは世界遺産の知識もなく、姫路セントラルパークに行ったついでぐらいでしたが、姫路城のほうが鮮明に覚えています。 
 鉄砲を撃つために土塀に丸や三角、四角の穴があり、矢を射るために長方形の穴が開けられている。鉄砲狭間・矢狭間という。また中に入った時の廊下の端には城の下から登ってくる敵に石や熱湯をかけたとされる穴もあった。
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豊臣秀吉

織田信長

徳川家康

池田輝政




姫路城
(兵庫県・1993・文化遺産)要塞としての機能性と優美さを備え「
白鷺城(はくろ城)」(しらさぎ城)の名をもつ。設計技術と装飾美の両方において木造建築の最高峰。

姫路城のイベント 毎年4月6日は城(しろ)の日 普段は非公開となっている部分が公開されるほか、多数のイベントが催される。 桜の開花の時期でもあるため 花見客も多い。

美しさと戦国の知恵を兼ね備えた

世界遺産 
姫路城
(ひめじじょう)

姫路城観光 料金