あぁ、全くどうしてあの部下は余計な知識を持っているのか。 いや、博識であること自体は構わない。 問題はあの子どもに、余計な知識が吹き込まれてしまったことだ。 |
++ その甘さは誰のせい ++ |
出勤時を狙った民間の女性や、司令部内ですれ違う女性や、その他理由も顔も知らない大勢から。 毎年恒例であるバレンタインのカード攻勢を何とかやり過ごしたロイ=マスタングは、いきなり朝から疲労困憊であった。 『いつも見ています』 ―――あぁありがとう出来るなら見ているだけにしておいてくれ。 『あなたのバレンタインより』 ―――いやいやいや待ちたまえわたしはキミの顔すら知らない。 『カードにわたしの思いを込めて』 ――― 一緒に怨念も入ってるんじゃなかろうか。 『わたしのバレンタインになって下さい』 ―――済まないがわたしにそういう権限はないんだ。何処かの豆のせいで。 しかしその疲労の原因を、厳格な部下が認めてくれるはずもなく。 「毎年のことなのですから、いい加減慣れていただかないと困ります」 との無慈悲な一言をぶつけて、早々に辞去していた。 残されたのはすでに勤労意欲の欠片もないロイと、何時の間にか服の裾やロッカーや郵便受けにねじ込まれていたカードと、そして部下が丁寧に山積みしていった要チェックの書類である。 早く済ませて家で疲れを取りたいと心底思っても、しかし時刻はつい30分前に始業を告げている。 さらにもし自宅へ帰れたとしても、ゆっくり休めるとはとても思えなかった。 その原因は、じきにこの部屋へとやってくるだろう。 はぁとため息を深く深く吐き、耳に届いたノックの音に諦めながら入室の許可を出す。 がちゃ、と扉から顔を覗かせたのは、金髪の小柄な少年だった。 「おっはよー、大佐。なに朝から暗い顔して」 「…原因が来たと思ってな」 「何それ」 けらけら笑い、エドワードはすでに勝手知ったる何とやらで、革張りのソファへ身体を沈めた。 あまりに勢いよく座り込んだので、一瞬エドワードの姿が埋もれたかと思ったほどだ。 この少年が黙ってソファに座って、それだけで済むはずがない。 大人しくしているように見えるほうが、内心で何を企んでいるものやら想像がつかないからだ。 心頭滅却、この部屋にいるのはわたし1人、と自己暗示をかけ、ロイは部下が見回りに来ないうちにと万年筆を手にした。 逃亡が無駄だと判明していれば、意外と大人しく執務に励む男なのであった。 が、例え本人が勤労意欲を抱いていたとしても、それを妨害しにかかる不埒者はいるもので。 「ねぇ、大佐ぁ」 「…」 「なぁってば」 「…」 「…この性犯罪者」 「人聞きの悪いことを言うんじゃない!」 だって事実だしやだね老人は記憶力ももう低下の一途? と先々日ロイの自宅へと無理やりに泊り込んだ少年は悪態をついた。 昨日は珍しく、弟と一緒に宿へ泊まったらしいのだが。 てっきりずっと自宅に入り浸るのではと内心危惧していたロイは、しかし少しばかり残念にも思っている自分に愕然としていた。 …自分はかなりほだされている。いやむしろ、積極的に負けに行っている。 「…で、一体何だね? 鋼の」 「予想はしてたけどさー、あんた、そのカード凄いね?」 「…これでも逃げた方なんだがな」 色とりどりのカードは、神経衰弱かポーカーくらい成立しそうな量である。 それにリボンや造花のラッピングが加わると、量も凄いが嵩も凄まじいことになってしまう。 「妬けるか?」 先ほどからやたらと絡んでくる様子に、まさかこのいつも余裕綽々の少年が悋気だなどと言うことがあるのだろうかと思う。 もしそうだとしたらどんなに可愛らしいことかと期待してみるが、やはりそれは期待で終わった。 「まっさか」 素っ気なく一刀両断に相手の言葉を否定し、エドワードはロイの前へと近づいた。 「…違うのかね?」 「違うね。だってさ、恋人が他からも人気あるなんていいじゃんか」 それだけ魅力的ってことだろう? 「普通は、やきもきするものじゃないか?」 「何で?」 何で、と当たり前のことを今さら訊かれてもどう説明したものやら判らない。 徹底的に、この少年と自分との思考回路は別次元で構成されているらしい。 「だってそうだろ? どうせアンタは心変わりなんてしないかんな?」 それ見てやきもきする女が大勢いるって、何か優越感。 非常に自己中心的なセリフを吐くエドワードであるが、そういう少年だからこそどうしようもなく惹かれている自分がいることも知っている。 要するに、こんな少年に惚れさせられてしまった時点で、ロイの運命は決定していたのだった。 この、金髪の天使によって。 (まぁ、生えているのは悪魔の尻尾だったがな) 「いま何か、よけいなこと考えたでしょ大佐」 「!」 (…おまけに勘も良すぎる) 少年に嘘をつこうとしてもどうしてか毎回見破られてしまうロイは、さっさと敵前逃亡代わりにと書類に戻った。 そんなロイを深追いするでもなく、エドワードは興味深げにカードをためつ眇めつしていた。 「ま、意外っちゃ意外だわな」 「…何がだね」 (どうして自分から声をかけるんだ!) 「アンタみたいのってさ、憧れの対象にはなるだろーけど、恋愛や結婚の相手にはならなさそーだし」 「それは要するに、観賞用か実用的かの差かね」 「そうかもね」 少年は、本当に猫科の血が流れているのではないかという滑らかな動きで、しなやかに執務机とロイとの間に割り込んだ。 そのまま両腕をゆっくりと男の首に巻きつける。 「アンタがけっこう実用的だって知ってんの、オレくらいじゃないの」 くくくく、と自分のセリフが結構的を射ていることに気づいたか、エドワードはしばらく笑っていた。 それはそうだろう。この飄々としたエリートが、意外や一途な面を持ち合わせていることを知る人間などそうはいない。 「…せめて有望株とくらいは言ってくれ」 「どっちでも一緒だって。あ、そうだ大佐。今日バレンタインだよな?」 「…だからカード攻勢に遭っていると思うんだが」 いま絶対に何か企んでます、と大書きしてある顔で、エドワードは絡めた腕を引き寄せた。当然、その腕に捕まっているロイの頭ごと引き寄せられることとなる。 「ん」 突然の少年からのキスは、何も今に始まったことではない。 ただ場所が場所であるだけにそうそう集中できないことも事実なので、ロイは程ほどにして身体を離そうとする。 するとその動きを察したか、エドワードの力が強くなった。そして同時に口内に広がる、甘い味。 いつの間にチョコレートを口に仕込んでいたのだろう、と彼の舌を絡めとリながら、いやに冷静にロイは考えた。 やはりこの少年は、何をしでかすものやら判らない。 その甘い香りに誘われるように、次第に男の脳裏からは遠慮が消えて行った。 「…ふ」 ようやく顔を離した時には、2人の間に伝う唾液はすでに透明なものとなっていた。 また乗せられた、とロイが己の意思の弱さを嘆いていると彼の膝上に陣取ったエドワードが満足そうに笑う。 「どう? 味は?」 「…甘かった。というか、いきなり何をするんだね」 「ん? ほらせっかくだからさ、倣ってみよっかなーと思って?」 そのセリフに、3日ほど前に繰り広げられたやり取りを思い出す。 バレンタインと、チョコレート。 そういえば興味津々といった風に部下にあれこれと聞いている少年の姿もそこにあった。 「それにさ、チョコレートってのが曲者なんだよなー」 「? チョコの何が」 「知らない? チョコレートってさ…」 再び、少年は男の顔を引き寄せて。 その耳元へかすれた声で囁いた。 「…媚薬、なんだよ?」 そんな菓子に愛を込めて贈るなんて、熱烈だとは思わない? だからオレも倣ってみました。 不意に、ロイは膝上の小柄な少年を抱きかかえると、執務机の上に乗せる。 またエドワードが乗ってこない内にとさっさと立ち上がった。 恨みがましい目で見上げてくる少年に、だから少しは場というものを知れと説教したくなるのを抑えながら、無視して扉へと向かう。 「ちょっとー、大佐ーっ」 「…口の中が甘ったるい。コーヒーでも入れてくる」 「アンタほんとデリカシーないよね」 それはお互い様だ。 扉に手をかけて、ロイは机の上から椅子へと座りなおし、行儀悪くも足を机上にあげてふんぞり返っている少年を振り返った。 さらにわざとであろうが、山積みになっていたカードも全て床へと叩きつけてある。 (嫉妬などしないと言っておいて) やれやれ、あとで掃除が大変だ。 「…上から2番目の引き出し」 「何?」 「クリップケースの隣だ」 それだけを告げて、ロイは部屋から出て給湯室へと向かう。 廊下には人影はない。どうかそのまま誰にも出会わないようにと祈りながら、目的地へと急いだ。 きっといま自分の顔は、気恥ずかしさと照れで崩れてしまっている。 何が1番恥ずかしいと言って。 少年がチョコレート付きでやって来ることを、どこか心待ちにしていただけではなく。 自身がその風習に、少しあやかってみようかと思ってしまったことだろう。 珍しく、駆け引きなしに嬉しそうな顔をした、某有名菓子ブランドの箱を手にした少年に抱きつかれ、マスタング大佐がせっかく淹れたコーヒーを床にこぼしてしまったのは、それから3分20秒後のことだった。 |