別に、准尉のセリフに心惑わされたわけじゃあ、ないんだけど。 でも、でもだよ? やっぱり、あやかりたいって気持ちはあるんだよ。 |
++ 恋人たちのキスをあなたに ++ |
此処までの準備は万全だった。 エドワードは貸し出し禁止の文献を読みに朝から図書館へと出かけて行き、1人で時間を忘れて閉館まで粘っていることだろう。 東方司令部近くに逗留する際、いつも使っている宿には簡易キッチンが備え付けられていることも幸いした。 これで夜まで、自分は1人でこの部屋を使用することができる。 朝方、出かけようとするエドワードが「することないんなら、一緒に図書館来るか?」とアルフォンスを誘ったのを、少し用事があるからと断ってまで、1人に拘った訳。 そう、今日は2月の14日。 本当なら前日に作っておきたかったのだが、何やかやとしているうちに当日になってしまった。 2人だけの旅の身であるために、照れもあって普段はバレンタインなどカードすら送ったことはない。 「ありがとう」もしくは「大好きです」をしたためる自分、を想像しただけで笑えてしまうくらいだ。 だから今年も何事もないままに終わるだろうと思っていたのだけれど、2日前の東方司令部でのやりとりから気が変わった。 ひとつの菓子に、ひとつの思いを託して。 あぁ、自分ってこんなに乙女思考だったかなぁ、とアルフォンスは苦笑しつつも、包丁を握る手は休めない。 塊のチョコレートがここまで硬いものだとは思いもしなかった。 もし疲れを感じる身体であったなら、翌日腕が筋肉痛くらいにはなっているかもしれない。 それでも、小説の中の女の子は必死で菓子作りに挑んでいたんだなぁと思うと、妙な親近感を感じるアルフォンスである。 なぜなら自分も、こうしてただ1人のために菓子を作る、という笑えてしまう行動を取っているのだから。 エドワードが子ども味覚で、甘いものに目がない人で良かった、と刻んだチョコを湯煎にかけながら思う。 温度計はちゃんと事前に購入しておいた。チョコレートとは、意外とデリケートな食べ物であるらしい。 少しずつ下がっていく水銀を注意深く見守りながら、アルフォンスはこれまた事前に買い込んでいた蜂蜜と生クリームとを鍋に入れ、火にかけた。 作ろうとしているのは生チョコレート。 いちおう未成年であり、おそらく酒に弱いだろうエドワードのために(何せ調理用ワインでへべれけになったことがある)、洋酒ではなく蜂蜜を代わりに入れることにした。 こんな鎧の自分が、キッチンで何をしているかと思えば菓子作りとは。 意外すぎて、誰も予想づかないだろう。 細かな作業には向かない指であるために、簡単そうなレシピに取り組んでいるのだが、もしこれで生身であったなら、いったい自分は何を作ろうとしていたのかいまいち推測できない。 自分で言うのも何だけれど、きっと馬鹿馬鹿しいほど大真面目に、これでもかとばかりに手の込んだチョコレート菓子をエドワードに誇らしげな顔をして差し出すのだろう。 あぁもう、本当に乙女思考だなぁ。 でも想像でここまで幸せなら、乙女でも何でもなっていいかも。 材料を全て混ぜ、なめらかになったところで火から下ろす。 さて、パッドに入れよう…とアルフォンスの目がパッドを探すが、置いておいたはずのそれが見当たらない。 「あれ?」 一体、何処に… 「何作ってんだ、アル?」 何処に… 「って、うわぁ兄さん!?」 「何だぁ!?」 いきなり大声をあげたアルフォンスにつられ、パッドを手にしていたエドワードも飛びのくように驚いた。 互いに互いを見つめ、しばし落ち着くまでに時間が流れる。 これまた生身であったなら、そろそろ心臓が口から飛び出しているんじゃないかとまでに動揺してしまったアルフォンスが、おそるおそる、といった風に呟いた。 「……兄さん、図書館に、行ってたんじゃ…」 「え、あ、いや…その、」 エドワードにしては珍しく、歯切れが悪い。 あちこちに視線を彷徨わせる少年の姿に、何となくアルフォンスにはその理由が判ってしまう。 「…もしかして兄さん、チョコレート、買ってた…?」 「っ!」 予感的中大当たり。 こういう場面での嘘が致命的に下手なエドワードは、どうあってもアルフォンスに真意を悟られてしまう。 何も言わずにあさってを向くその横顔は、今さら誤魔化せないほどに染まっていた。 「…兄さん、可愛い…」 「うっせぇ! って大体お前こそ、何やってんだよっ!」 「ボク? ボクはねー、チョコレート作ってまーす。兄さんへあげようと思ってv」 「てめぇ開き直りやがって…」 片一方が動揺すれば、もう片方が冷静になる。 長年兄弟をやっているだけあって、バランスが取れている2人であった。 「兄さん」 「…んだよ」 「ありがとう。嬉しいよ」 チョコレートはおろか、何も口にすることができない自分に贈ろうとしてくれたことを。 その味覚ではなく、香りでもなく、込めた思いを届けようとしてくれたことを。 「…おう」 あぁ、この人を好きになって良かったなぁとしみじみ思うのだった。 「で、何作ってんだ、アル?」 「ん、これ? 生チョコレート蜂蜜入り。多分兄さん好みの味だと思うんだけど」 「アールv」 「……はいはい」 どうして名前を呼ばれるだけで判っちゃうんだろうと思いながら、アルフォンスはパッドに流し込みきれなかった余りをゴムベラで軽く掬い上げた。 手ごたえでもう冷めかけていることを確認してから、零さないよう気をつけてそれをエドワードの口元へと運ぶ。 ちなみにエドワードはと言えば、親鳥の帰りを待ちわびる雛鳥よろしく今か今かとアルフォンスの肩にしがみつくようにその時を待っていた。 「どうぞ」 「んv」 べろりと彼の舌がゴムベラの凹凸をなぞり上げていった。 あらかた舐めてしまうとエドワードは満足げに唇の周りを舐め上げる。どうやらお気に召したらしい。 「んー、美味い」 「はい、終わり。これから冷やさなきゃいけないんだから」 「えー、もうちょっと」 「だぁめ」 このままではパッドの中身に彼の手が及ぶ。 アルフォンスは慌ててそれを階下へと持って行った。 宿の女将のところで冷やしてもらうためだ。 そしてアルフォンスが部屋へと戻ってきてみると、鍋とゴムベラに未練を見せたままのエドワードの姿。 (確かに、そういう残った部分とかって、妙に美味しかったとは思うんだけど。でもさすがに意地汚くないかなぁ。) 普段台所に立つことがないエドワードは、妙に不器用な手つきで鍋とゴムベラをかき回している。 すでに猫が舐めまわしてもこうはなるまいと思われるほど綺麗になっていた。 「こら、兄さん、何してんのさ」 「ちぇ。判ったよ」 ようやく諦めたエドワードが弟へと鍋を手渡した。 それを流しに持って行く途中で、エドワードが再びアルフォンスを足止めする。 「…なに? 兄さん」 「ついてるぞ」 え? と見てみると、鎧の肩口にはねたチョコレートの跡がある。 どうやら流し入れた際にはねたらしい。 ふき取ろうと布巾を手にしたところで、エドワードがすすすとアルフォンスへと近づいた。 「別にこれくらいいいだろ」 そう言って、彼の反応を待たずにぺろりと舐め取ってしまう。 「に、ににに兄さん!?」 「だぁ、耳元で怒鳴るな!」 「いきなり何するのさ! 汚いよ!」 いくら日常的に磨いているからと言って、オイルを使っているのだから身体に良い訳がない。 しかし弟の抗議に兄の方は全く耳を貸さず、いいじゃん別にとあっけらかんとしている。 それがきっかけとなって勃発してしまった兄弟げんかは、日が暮れてしまうまで続いた。 +++ 夜。 原因を忘れて喧嘩していた2人は、経緯も判らないままに和解していた。 「どう?」 「あぁ、美味いよ」 先ほどアルフォンスが切れ目を入れた生チョコレートを口にしながら、エドワードが答えた。 「やっぱり、冷やすと少し味が変わるんだな」 「でしょ?」 全部食べなくて良かったね。 はい、とさらにアルフォンスがエドワードの口元へと、フォークを運ぶ。 んあ、とそれをエドワードは口を開けて待つ。 ベッドへと腰かけたアルフォンスの膝上に、背を預けるように座り込みながら、エドワードはチョコレートを食べていた。 彼が運んでくれるひと欠けを順番に。 そして自分はといえば、大きなマグからコーヒーの湯気を立て、それを両手で抱えているのだった。 甘党なエドワードであるが、さすがにコーヒーなしにこれだけの量は食べられない。 「あぁそうだ、これも食べなきゃあ」 「ん?」 「兄さんからの、ボクへのチョコレートv」 「……寄越せ」 ぶっきらぼうな口調だが、顔に差した赤みに気づいてしまえば全く気にならない。 アルフォンスが弾んだ手つきで、エドワードからの包みを丁寧に開封していく。 やがて現れた綺麗に並んだトリュフを同じく彼の口元へと運びながら、アルフォンスは囁いた。 「…あなたのバレンタインより」 そして、エドワードも身体を反転させ、弟の身体を抱きしめながら囁き返す。 「…お前の、バレンタインより」 あぁ、甘ったるくて舌が溶けそうだとエドワードが笑う。 思いを込めすぎちゃったかなとアルフォンスも笑う。 どうして異国で、この菓子を愛を伝える術として選んだのか、その理由がよく判った。 甘さと恋人の抱擁は、何にも勝る幸せへの近道。 2人分のチョコレートを、2人で一緒に、1人が食べ、そして流れる静かな時間。 そうして過ごす初めてのバレンタイン。 |