東方司令部内において様々な意味で有名なロイ=マスタングが、司令部の男性諸氏から一様に恨みがましい目線を投げつけられる日が年に3回ほどある。
1度は彼の誕生日。
1度は年末クリスマス。
そして残る1度は、丁度この日。








++ バレンタインと拳銃と ++










「…相変わらずっすねぇ、大佐」


「丁度いいところにいるなハボック少尉。手伝いたまえ」


運悪くその現場に居合わせてしまった不幸なハボックは、何が楽しくてこんなことしているのだろうと自問しながら、上司宛てのバレンタインカードや花束を両手一杯に抱える羽目になった。
これが自分宛てであれば幸せに足元もふらつくだろうと思われるが、他人の、しかも目の前の童顔男の所有物とくれば世の理不尽さを嘆くばかりである。


「…邪魔じゃないっすか?」


「そうだな。これでも逃げたんだが。まぁ紙袋を2つ3つ貰えば何とかなるだろう」


あぁ憎しみで上司を殴り倒せれば。


「いつか夜道で刺されますよ」


「なら私は優しく包み込んでやろう」


「さっき中尉が怖い顔して探してました」


「…っ、それを早く言いたまえハボック少尉!!」


いきなり血相を変えた司令部一の色男は、ハボックに預けた戦利品に一切構わず、だだだだだと猪全力疾走のごときスピードで走り去って行った。それに気づいた何処かの課の女性が、たしなめるように彼の背へと叫ぶ。


「廊下は走らないで下さい!」


「…あー、悪いなジェニィ。一応あの人も人間なんでな」


怖いもののひとつふたつあるものだ。


「それと廊下は禁煙です!」


「…へいへい」





+++





無言で突きつけられた拳銃に本気で生命の危機を感じながら、ロイは両手を軽く上げた。『降参』である。


「今は何時ですか、マスタング大佐」


「…9時23分18秒だな」


「あなたの本日の始業時刻は何時ですか、マスタング大佐」


「…9時丁度だな」


がちゃ。


しなやかなホークアイ中尉の指が軽やかに撃鉄を起こした。


「…最期に何かありますか?」


「ま、待て待て待てっ、ホークアイ中尉っ! ほら、私にも色々と事情が…っ」


「23分超にかかる事情とは何ですか」


「き、今日はバレンタインじゃないか。世の麗しいご婦人たちが」


「締まらない最期のセリフでしたね」


「あ゛―――っ! いや、ちょ、本当に済まなかった中尉…っ」


情けなくも部下にコメツキバッタのごとく、頭を下げまくるロイである。
いまこの瞬間も、容赦なくリザの愛銃は彼の額をいつでも打ち抜けるようスタンバイされている。
この至近距離で、この辣腕な彼女が奇跡的に狙いを外してくれる可能性は億にひとつもないだろう。


「…では、今日はいっさい書類の遅延は認めません。それで良いですか」


遅刻を不問にしてくれるなら悪魔にでも魂を売れる心境で、こくこくとロイは頷いた。
仕事をやりおおせる程度で赦してもらえるなら、願ったり叶ったりである。


「それじゃあ、宜しくお願いしますね、マスタング大佐」


どさあ。


実に遠慮も慈悲も情け容赦もない質量の書類が、一気にロイの机へと積み上げられた。
一瞬、ひくりとロイのこめかみが引きつる。
しかしそれでは終わらず、来客用のテーブルにも、2段3段と山が形成されていった。
さすがにロイの顔面から少しばかり血の気が引く。


「…これ、全部かね…?」


幾らなんでも、この量は多すぎやしないか。


「それはそうですね。締め切りが5日後のものもありますから」


「…それじゃ!」


「珍しく働く気になって下さっているんですから、今のうちにと思いまして」


無論、これらも本日中に仕上げて頂きます。


(…鬼…)


ロイの内心の呟きが聞こえたか、リザはどこか据わった目で上司を見下ろした。


「何か?」


「…何でもない…」


完全に気迫で負けている。 ひそかにハボックを始めとした面々から『大佐調教師』との異名をつけられているリザは、まさに目に見えぬ鞭を振るって上司を仕事へと駆り立てる毎日であった。日常ともなれば、はじめは多少あった遠慮も影どころか埃すら残さない。
諦めて、ロイはくるくると回していた万年筆を改めて持ち直す。
デスクワークは苦手ではなく、むしろかなりのスピードで終わらせることができるのだが、いかんせん書類業務はやる気が起きない。
追い詰めなければやろうともしない、まさに子どもが溜めた宿題状態なのであった。


「それでは、私は私の仕事に戻りますので」


「ああ」


「30分おきに見に来ます」


「…そんなに信用がないのかね?」


「…そんなに信用されてるとでも?」


あっさりと言われただけにそれが彼女の本音であろうことを悟り、ロイは痛むこめかみを押さえた。
どうやら日頃の己の行動は、かなり信用失墜に貢献しているらしい。
それならもっと逃げられないよう、防止手段を講じればいいものを、と。かなり自分勝手なことを考える。


「それでは」


「あ、あぁ待ちたまえ中尉」


「…はい?」


ふと気づいた口調でロイがリザを呼び止める。
何か書類に不備でもあったろうか、とリザが真面目に考えていると、反して上司は至って真面目な口調で馬鹿馬鹿しいことを口にした。


「今日はバレンタインだろう? 何かくれないのかね?」


「差し上げる理由も物もありません」


この男、やっぱりさっき撃ち殺しておけば良かった。


あまりにも能天気なこの上司に、これまでで通算何度目だかも判らない本気の殺意を抱き、リザは後で書類を一山追加してやろうと心に決めた。
これだからこの男の下には、一風変わった部下しか集まらないのだ。
その『これだから』な男の右腕である自分は例外であると無視をする。


「それじゃあ私から、キミに夕食をプレゼントしたいんだが」


「…夕食ですか」


「あぁ。どうかな、今夜は空いているかね?」


「その書類を片付けて下されば、空いていますが」


決まりだ、と妙に子どもっぽい笑顔でロイは満足そうに頷いた。


「それを全て終えて、ですよ」


「ああ。判っているとも」


本当に判っているのか、この量がどれほどのものか理解しているのか。
それでもこの上司は終わらせて、自分と夕食に出かける気でいるのだろう。


「…それじゃあ、頑張って下さいね」


はぁ、と自分の甘さに内心ため息をつき、それを全く表に出さないままにリザは執務室を出た。


そして1人残された執務室の主。
部下が思いの外あっさりとオーケーを出してくれたことにかなり心は沸き立っていたが、いくら気分が高揚したとて書類が減ってくれるはずもなく。
ただ機械的に目を通し、サインをし、印を押さなければこの地獄からは開放されないのだ。
朝から女性たちに囲まれて要らぬ体力を消耗してしまったらしく、先ほどから目が重く、眠気に襲われて仕方がない。
たぶん8割方気疲れだ。
来年からは人員整理の整理券でも配ってくれはしないかと、世の男に殴り飛ばされるようなことを考えながら、手だけは器用に書類をさばいていく。





+++





マスタング大佐が必死で書類と眠気と格闘すること30分後。
小さくノックの音がして、ホークアイ中尉が入室してきた。手には湯気を立てたマグカップを乗せた盆を持っている。


「失礼します」


机へと向かいながら、その目は鋭くロイの仕事ぶりを観察しているようだった。おそらくどの書類をどれだけ片付けたかくらい、簡単に目測できるのだろう。


かたりと置かれたマグを見ないまま、「ありがとう」とだけ小さくロイは口にした。
そして取っ手を持ち、口元へと運びかけたところで、その正体に気づく。


「…これは…」


驚きのあまり、中身を噴き出さなかったことが奇跡的である。
書類を守らねばという自衛本能が働いたらしい。


「眠気覚ましです」


何でもないことのようにいうリザであるが、何処となくロイとまっすぐ視線を合わせない。
白い湯気を立ててマグに入っているのは、カカオの香りただようココアであった。


「…大佐が、眠そうな顔をされてましたので」


いかがですか?


「あぁ…驚くほど覚めたよ」


これではおそらく、今日一日は眠気など訪れやしないだろう。
いや、寝ようと思っても眠れやしない。
顎にカウンターを喰らったかのような衝撃だ。


「ありがとう、中尉」


「…また30分後に来ます」


そっけなくくるりときびすを返すリザを、それでもにこにこと見送っていたロイであったが。
振り返り、何気なく言われた彼女のセリフに、びしりと見事に固まった。


「そういえば大佐。某国では、チョコレートのお返しは10倍返しだそうですよ」


楽しみに、していますから。


「んな!?」


10倍って…ココア1杯でか!?


「夕飯! 今夜の夕飯ということで…」


「バレンタインとして頂いたつもりですが」


「……そうだな…」


いったい、10倍など何を返せばいいのだろうと思いながら。(…また、夕飯に誘えばいいのだろうか?)
そして、どうして中尉は10倍返しの義務がないのだろうと思いながら(後で『チョコレートのお返しが10倍です』と知らされた)。
ロイ=マスタングは嬉しいやら悲しいやら、何やら複雑な心境を抱えながら、それからの書類業務を進行させていったとか。
ココア1杯が大したものではないという事実に、浮かれた彼が気づくことはないだろう。





+++





ハボック少尉が昼食を終えて職場に戻ると、ちょうどファルマン准尉も戻ってきていた。
彼のデスクへと近づき、ちょっとした疑問を口にする。


「…なぁ、ファルマン准尉?」


「何でしょう?」


「チョコレートのお返し、10倍ってホントか?」


だとしたら、すげえ国だな。
しかし呆れた口調で、ファルマンは肩をすくめた。


「そんな訳ないでしょう。お返しは3倍返しが基本とされていますよ」


「はぁ? って、でもお前さん、こないだ中尉にそう…」


「中尉でしたら、相手の予想はつきますからな」


「……なぁ准尉。もしかして大佐のこと嫌いか…?」


「いいえ? 尊敬していますよ」


「…ならさぁ」


「大佐でしたら、言わなくても10倍返しくらいしそうですからな」


3倍としようが10倍と伝えようが、まぁ結果は似たり寄ったりだろう。


「あぁ、それは言えてるかも」


「でしょう? それに…」


中尉も、内心でお返しを待っているようですからね。


「…まぁ、そうかもな」


この東方司令部内で最も人物相関図を把握しているのは、この博識な男なのではないかと思いながら。
ハボックは当事者でなくて良かった、と薄情ながらも心底安堵したのだった。






>>>ロイアイ編。
最初も〆もハボ。そして趣味で准尉。





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