今ごろあの金髪の少年は、どうやって相手の機嫌を取り戻しているだろうかと考えながら。 目の前にいる、自分が機嫌取りをしなくてはならないらしい担当分を見つめて。 リザ=ホークアイは相手に判らないようにため息をついた。 |
「負けてたまるか」 |
カリカリと順調にペンが走ったかと思うと、何の脈絡もなしにぴたりと動きが止まる。 見ても、大して問題のある箇所ではなく、むしろ問題は心境のほうなのだなと容易に察しがついた。 こういう持久戦は嫌いではないが、仕事に差し障るのはどうにも困る。 ので、リザは仕方なしに折れてやることにした。 「…大佐。何か気になることでも?」 「いや、別に?」 子どもか、この人は。 可愛らしい少年に、キスのお返しをしただけではないか。 しかも、頬にごく軽いものを。 それで不機嫌なオーラが目に見えるほどだなどと、すでに呆れる気力もない。 東方の女泣かせの異名は何処に放り捨てて来たというのか。 リザは(仕事のためだから)と自分に言い聞かせ、ゆっくりと上司の顔を覗き込むように視線を合わせた。 視線が合ったのを確認してから、一瞬、掠めるように彼の頬に唇を走らせる。 驚いたロイの表情を思いのほか快く感じてから、リザは冷静に言い放った。 「…こんな『親愛のキス』が欲しいんですか、あなたは?」 「…まぁ、悪いものじゃなかったが?」 「では、次からはこれで行かせていただきますね?」 「そうとは言ってない」 軽い言葉遊び。 いつの間にやら、ロイの口の端が笑っている。 まずいな、とリザが思っていると、それを読んだかのように相手がつけこんできた。 「そうだ中尉」 「何でしょう?」 「優秀な君がせいいっぱい積み上げてくれたこの書類、全部片付けたら、明日わたしはオフにしたいのだが?」 「…オフですか」 「構わないだろう? 会議も、何も入っていないはずだ」 だいたいわたしは、もうこれで5日連続勤務だ。そろそろ体調回復をさせてくれてもいいと思うがね? 「…まぁ、いいでしょう。終えられたら、ですよ。1枚でも残っていれば、知りません」 「さすが中尉。話が判るね」 にこにこと、まるで自分は害がないですよ、と言いたいかの表情。 けれどそんな顔をしているロイが、一番面倒だと知っているのは他の誰でもない自分自身。 「それでだね」 ほら、来た。 「辣腕な君は、仕事の進行は完璧だろう? この書類を終えられたら、君も休みをとりたまえ」 「…無理です。明日一日も休みは取れません。」 「では午前中。今夜の終業時から明日の正午まで、君はオフだ。どうだろう?」 図々しくも、すでに今夜から借り切る気らしい。 相変わらずの人好きのする笑みで、ロイはリザの返事を待っていた。 ああもう、と。 自分の弱点が何なのかをじゅうぶんに自覚しながら、一旦リザは執務室を辞し、そしてまた結構な量の書類を抱えて戻ってきた。 「それじゃあ大佐。終業までにこれだけ、お願いしますね?」 「……増えていないか?」 「ええそうですね。いま積み上げたばかりですから」 いったい何を、と目で訴えてくる上司に。 リザは相手にも判るように肩を軽くすくめてみせた。 「これだけあげて下さらなければ、わたしは明日の午前も、休めませんので」 にこぉ、と満面の笑みをロイが浮かべる。 勝った、もしくはやった、か。 ころころ変わる表情に、軍属としてはどうなのだろうと思わないでもなかったが。 それではわたしは自分の仕事を、と退室しようとしたリザに、ロイの妙に弾んだ声が被る。 「ホークアイ中尉?」 「はい」 「今夜のメニューを、考えておいてくれたまえ」 「雑念が入ると、仕事に差し支えるのですが」 「おやおや、差し支えるくらいに、考え込んでくれるとは嬉しいね」 「ではWhite Labelでおすすめコースを。いま決まりましたので」 「ああ、あそこのタンシチューは絶品だからね」 楽しみだ。 最速とも言えるスピードで万年筆を走らせはじめた上司に、何も言わずリザは執務室を辞した。 どれだけ言い募っても、勝てる気がしない。 相手が悪すぎるのだと、そんなことは判っているけれど。 甘やかな睦言より、辛辣なやり取りを。 何より相手をどう引きずり込むか。その瀬戸際で。 ぜったい、あなただけには負けるわけにはいかないから。 「覚えてなさい」 |