「辛いよ。ぼくは兄さんのキスの感覚も判らないのに」 ―――ボクに。 残された、感覚は。 視覚と、聴覚と。 |
「唯一無二」 |
兄を担ぎあげるように宿の部屋へと戻ったアルフォンスは、いまだ不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。 先ほどからエドワードが何を言っても、ろくな反応がない。 弟よりも更に短気な兄の苛立ちがかなり高まった頃に。 ぽつり、とアルフォンスは口を開いた。 「兄さん、中尉のこと好きだよね」 「好きだぞ? 当たり前じゃん」 「…酷いよ」 「兄さん、あまりそういうスキンシップ取らないくせに」 エドワードには、その小柄な容姿も相まって、あまり深く他人と接触したがらない節があった。 それなのに、あの女性には。 自分からキスをしかける兄の姿など、アルフォンスは数える程しか見たことがない。 「あれは『親愛のキス』だろ?」 「だって」 はあ、とわざとらしくエドワードはため息をついた。 「…じゃ、ちょっとそこに座れ」 示されたのは、宿のベッド。 出かけている間にシーツはきちんと張られ、あまり上等な造りとは言えないがさぞ寝心地は良いだろうと思わせる。 ほらさっさと座れよ、と兄に促され、自分の重みでベッドがどうにかならないか心配しながら、アルフォンスはぎしりとベッドに腰かけた。 「…あの、兄さん」 「うっさい。ちょっとじっとしてろ」 腰かけたアルフォンスの膝に、乗り上げるようにエドワードが腰かけてきた。 いわゆる「横座り」というやつである。 「お前には、いま、感覚ないから」 言って、エドワードは膝立ちにアルフォンスへと顔を寄せる。 「…ん」 「兄さん?」 「いま、キスした。けど、キスしたのも判らない。そうだろ?」 「……そうだよ?」 「そこ。前見とけ」 ……前? 視線を前方にやると、備え付けの化粧台が見えた。 三面鏡が軽く開いている。その鏡には小さな金髪の少年と、少年を膝に乗せた鎧が映っていた。 鏡の中のエドワードは、こちら側を見ると不敵に笑い。 そのまま、鏡の中の鎧にするりと腕を絡めた。 鈍い青銅色の鎧に、白い少年の左手が奇妙なコントラストを描く。 いまだ鏡の中の少年は、こちら側のアルフォンスから視線を外さない。 そして、ゆっくりと。 こちら側のアルフォンスを見つめながら、己が腕を絡めた鎧の頬にあたる部分へと。 ―――唇を、落とした。 誰も見たことがないだろう、和らいだ表情で。 キスされた、という感覚はない。 ないはず、であるのに。 鏡向こうの少年の、強い視線にぞくりと何かが走る。 「何か、判ったか?」 ようやく、視線は鏡を通したアルフォンスではなく。 自分がキスをした相手へと戻して、エドワードはにぃ、と笑ってみせた。 実に兄らしい表情で。 「あのな、アルフォンス?」 再び、エドワードは弟の兜あたりに顔を寄せた。 ひそひそ話をするかのように。 「…中尉は、柔らかい匂いがしたんだ」 「柔らかい?」 「うん。女の人の匂いって感じで。けっこう落ち着いたりする」 香水などつけていなくても。 自然ににじみ出るもの。 例えばその人の人柄のような。 「確かに、落ち着くよ。でも、オレはきっと」 「きっと?」 「この匂いじゃなけりゃ、さ」 エドワードの腕では抱えきれない程の大きな鎧。 それが今のアルフォンスだ。 エドワードはぴったりと弟に身体をくっつけて。 大きく息を吸い込んだ。 「お前のこのオイルの匂いが、いちばんオレの身体に馴染むよ」 「…臭いと、思うんだけど」 「何言ってんだ?」 心底呆れたように、兄は笑う。 「だって、これは」 「お前の、体臭だかんな?」 それがいちばん落ち着くよ。 人間であっても、鎧の姿であっても。 お前の匂いが、そこにありさえすれば。 「オレはそこで安らぐよ?」 当然の事項として言い切った、兄に。 やはり敵わないのだと弟は思い。 そして「そうだね」と、せいぜい動揺を見せないように頷いた。 そんなこと、兄には完全にお見通しなのだろうけれど。 ボクが、ここにいることを認めてくれるのは、アナタだけで良い。 たった、1人だけで。 この金属の塊の肢体。 殆ど人として必要な感覚を失ってしまったこの身体。 ボクに、残されたのは。 視覚と。 聴覚と。 ―――そして、体臭だったのだ。 |