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「3日前の夜、何かの声を聞かなかった?」
 部屋に入って開口一番、彼女はそう言った。




++ 有限カタルシス 03 ++





「…何かって、何?」
「それが判らないのよ」
 困ったわ、と肩を竦めるリナリーを前に、更に困った顔をしたアレンはひとまず温かな飲み物でも持って来ることにした。正確には自分が持って来る訳ではない。メモに『コーヒー2つお願いします』と署名をつけて、使い魔に言付ける。ヒト科の常識の通用しないゴーレムは、可愛らしく空中で頷いて見せた後ぱたぱたと食堂目指して飛んで行った。
「…リナリーって、眠りが浅い方だっけ?」
「そうでもないんだけど。でもたまたま起きちゃうんだと思うのよね。科学班の皆も知らないって言うし」
 事の発端はつい先ほど。夕飯を終え、さてシャワーでも、と自室へと向かう途中のアレンに、同僚の少女であるリナリーが声をかけてきたのだった。何やら深刻そうな表情の少女に、不安を抱いたアレンが『何かあったの?』と訊いて今の状況に至る。
 それまでにも幾度か、何かの声で目が覚めてしまうのだという。
「あれじゃないかな、森の獣の鳴き声。時々、何の声?って思うのが鳴いてない?」
「あ、あれはね、獣じゃないの。昔兄さんがたぎる科学者魂から生み出した…ごめん後悔したでしょ聞いて」
「……僕あの森時々鍛錬に使ってんですけど…もの凄く行きたくなくなったんですけど…」
 よもや少女の相談に乗るつもりが、己の身の安全にまで関わってくるとは。黒の教団恐るべし。
 丁度そのタイミングで、いきなり白い壁にヒビが入った。戦士の条件反射か、素晴らしい速度で壁から離れた2人に、びしぃっと裂けた穴から飛び出してきた白い塊が飛んで来る。その塊にはこれまた白い羽があり、それを確認したアレンははぁと大きな溜め息をついた。
「…ナイスタイミング、ティムキャンピー…」
 ありがとう、と手を伸ばすと、ティムキャンピーの牙がびっしり生えた口が限界値まで開いた。既に開口角度の方が本体より大きいというレベルだ。そしてその中央には、ほわほわと湯気を立てるカップが2つ、ちょこんと置いてある。
「どうぞー」
「……ありがとう…」
 いつもテンションの高いあの食堂長は、一体どんな顔をしてこの使い魔がカップを飲み込むのを見ていたのだろう。そんなことを思いながら、リナリーは琥珀色の液体を味わった。平然と飲めてしまう時点で、常人から逸脱しているとは微塵も思っていない。
「これまでにもあったんだよね」
「えぇ。うめきとも叫びともつかない、気味の悪い声で。…もしかして、又兄さんてば何か作ったのかしら…」
「それあまり冗談にならないよ、リナリー…」
 月の支配する夜になれば冴えた空気が垂れ込め、木々のざわめきが深奥を貫くあの森の正体は、奇特な科学者の実験場だったのだろうか…。想像するだけで寒々しい。
「僕も時々徹夜したりするから、今度聞いたら言うよ」
「えぇ、お願い。私の聞き間違いならいいんだけど」
「コムイさんが原因でさえなければいいよ…」
「あはは、そうね」
 明るく笑う少女に、彼女の部屋まで送ろうかと申し出ればあっさりと断られてしまった。そもそも教団内で何の危険がある筈もないので、礼節の一角に過ぎなかったのではあるが。
「それじゃ、いきなりごめんねアレン。お休み」
「うん、お休み。よい夢を」
 ぱたり、と閉じられる扉。アレンは又も、困ったように肩を竦めた。
「3日前かぁ」


 ―――まさか、彼女の言うその晩には、僕は耳元で同僚の艶めかしい嬌声しか聞いていませんでした、とは。


「さすがに言えないしなぁ…」


 自分と使い魔以外いなくなった自室でぽつんと存在を主張するベッドに横たわりながら、アレンはふと今度彼がやって来るのはいつなのだろうと考えた。


有限タル


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