font-size       
 その夜は、酷く風が強かった。
 まるで誰かの悲鳴のように。




++ 有限カタルシス 01 ++





 ふと、眠れぬ夜にアレンは部屋を出た。
 過度な鍛練は逆に己を壊す。今は休息が何より必要だと知っていたが、精神の高揚は馬鹿馬鹿しい程に収まることを知らず、使い魔たる白いゴーレムを自室に残して真夜中の散歩を決め込む予定だった。
 冷たい、白く青い月の見下ろす夜は空気ですら鋭利な刃物と化して、アレンの露出した頬や咽喉を容赦なく切りつけていく。呼気は白く、両手を暖めるにはやや足りない。
「…寒い、な」
 自分の第二の家となったこの教団の立地条件もあるのだろう。標高数100メートル。段階上に容赦なく気温は下がり酸素濃度も薄まって行く。は、と息を吐きかけた手のひらがじわりと湿気を帯びた。
 ―――ざざざざ・ざ
 風が唸る。吠えている。
 本部を取り囲むように、守るように生えた木々(守ろうというのならば、本部が目立ち過ぎだとは思うが)が、空気の振動に身を委ね、更に大きな反響を生む。
 風の強く冷たい夜だった。
 暗闇の中、歩みを進めるアレンはふと、己以外の動きに気づいた。エクソシストとして戦いの中に生きることを余儀なくされてから、彼の生体察知能力は常人の比ではなくなりつつある。研ぎ澄まされることを余儀なくされる神経の余波だろうか。それは他の神の使徒も同様だろうが、先天的な寄生型イノセンスと後天的な呪を受けし左眼によってアレンへとかかる責任、期待は日々重くなっていくのだった。
 木々に見え隠れする人影。それは闇の中なお漆黒をまとい、そして自身も漆黒を己が色として立つ、同僚の―――
「……神、田?」
 そこにいたのはまさしく彼であった。東方系の顔立ちもさることながら、見事な腰まで届くほどの黒髪は黒の敷地内にあっても目立つ。何より、彼のまとうこの夜よりも冴え冴えとした鋭気は表面どころか、心の臓まであっさり斬りつけてくれそうだった。
「……っ・」
 神田、と彼の名を呼ぼうとしてアレンは止めた。彼の立ち上らせる空気が、それを拒んでいる。
 呼び止められることを。
 振り返させられることを。
 同僚と顔を合わせることを。


 ―――我に、返ることを。


 ざざざざざ、風が哭いている。
 何もかもを拒絶した同僚を無言のまま見送ることにしたアレンは、そっと胸を押さえ目を閉じた。


 全てを削ぎ落とした、ただただ無感情な顔。
 人間とは酷薄な表情こそ最も美しいのだと、安酒を呷りながら笑った師の言葉を、アレンは真実なのだと知った。彼が、此処までに美しい造形なのだということに、アレンは初めて気づいたのだった。白と黒の無彩色を織り上げて作られた、酷く綺麗な神の使徒。


(―――戻ろう)


 予期せぬ発見に心臓は妙な鼓動を訴えてくる。幾度も目の前に立ち、幾度も言葉を(まともな会話とは呼べないものが殆どだったが)交わした相手の刃物のような美貌ははっきりと記憶に残されてしまったようで、ちらちらと目蓋の裏にすら浮かびそうだ。ながらく旅路につき、処世術に長けてはいても、いや長けているからこそだろうか、アレンは美醜で人を見たことはなかった。外見で人を判断し区別する余裕など、無きに等しい人生だ。今更に沸いて出たあずかり知らぬ衝動に、対処する術を知らない。
 ふるふると寒気に顔を晒し、アレンはくるりときびすを返した。眠気はいまだに訪れないが、夜の散歩を続ける気も失せてしまった。しかし意外と自分がかなりの距離を歩いてきていたことにようやく気づくと同時に、背後から聞き覚えのある声がアレンの足を止めた。
「何を、してる?」
「神田……?」
 振り返れば、やはりそこには漆黒の似合う同僚がしなやかに立ってこちらを見ていた。
「…なんで、君……さっき」
「俺が?」
「…何でも、ないです」
 いつのまにアレンに気づき、アレンの背後に立っていたのだろうか。アレンは口を閉ざした。先ほどの彼の表情を、自分が見たと口にするのは何故か憚られた。己の抱いた感情が、透かして見られる訳はないと判ってはいたが。アレンの沈黙をどう解釈したか、神田は大抵アレンへとぶつけている苛立ちも嫌悪も何も見せずに、彼の方向へとゆっくり足を進めた。
「あぁ、何でもないな」
 アレンのすぐ目の前に、彼が立った。今はやや彼の方が背丈があり、アレンの目線はちょうど神田の首辺りだ。ほんの僅か首を傾け上を眺めると、先ほど見惚れたままの端正な無表情が覗き込んでいた。人形の容貌がやや崩れ、細い唇がきりりと吊り上がる。
「神田…?」
「これは夢だ」
「え?」
 夢だ、と神田は歌うように囁いた。小さな小さな掠れた呟きだったが、この耳鳴りのしそうな強風の中でもはっきりと耳へと届く。風のざわめきをあっさりと殺して、伝えられるまろやかなテノール。
「だからありえないことだって起こる」
 ニヤ、とはっきり笑みを浮かべ、神田は状況の飲み込めていないアレンの唇に己のそれを一瞬重ねた。からかうように赤い舌が自分の下唇をなぞり、白い歯が甘噛みする感触を、リアルにアレンは感じる。唐突すぎる彼の行動に、アレンは何一つ反応を返せない。
「妙な夢を見たな、お前」
 硬直したアレンの表情を覗き込み、神田は突き飛ばすようにあっさり身体を離した。そしてそれきり興味を失ったように1人、闇の中へと溶けて行く。
「……ゆ、め…って」
 何とか言葉を発するまでに回復したアレンは、自然に指先を口元へとやった。衝撃にアレンが我を忘れていた時間が長かったのか、すっかりそこは乾いていて、名残など何処にも無い。本当に、彼の言った通り夢のようだった。
 忘れろと、いう事なのだろうとは判った。一瞬の口付けは口止め料か、もしくは弱みを作り上げたか。普通なら、同性が同性にキスをされてうろたえる様など見られて気分の良いものではない。
 でも。 


「…訳判りませんよ、神田……」


 先ほどまでとは、違う意味で眠れなさそうだった。


 悲鳴のように、風の強い夜だった。


(この時は、彼の言動の全てなど、知る由もなかったのだ)


有限タル
>>>next
>>>back