この金属の身体へとのしかかってくるのは、金の光をまとう神。 唯一絶対の、ボクにとっての彼は―――世界。 |
++ 神の坐す玉座 9 ++ |
+ 至高を抱く腕 + |
「…え?」
震えたような、声。 兄の言葉が、聞き取れなかったのではなく。 兄の言葉の意味が、判らなかったのでもなく。 けれど頭の中は、それこそ大小様々な疑問符が飛び交っていた。 「聞こえなかったか?」 薄く笑う兄。 それを見上げるボク。 横たわらせられたボクは、兄に覗き込まれる格好でベッドへと沈んでいた。ぎしぎしと不吉な音がする。壊れやしないだろうかと頭の隅で心配しながらも、ボクは間近に迫った兄の顔に、ひどく動揺していた。 「……抱け、と言ったんだが」 何なら、あと2、3回は言おうか? そう言って兄はくすくすと堪えきれないように笑い出した。肩を震わせ、ボクの胸へくたりと額がつけられる。 濡れた髪が鎧の身体に透明なラインを引いた。それを見ながら、あぁ拭かなくては風邪を引いてしまう、とつい思ってしまう自分は、やはりこの状況についていけていないらしい。 ボクを雨の打つ表から引っ張ってきた(とは言っても、彼の状況から言えばボクが勝手についてきただけなのだけれど)時から、どうも彼の様子がおかしい。 おかしくて堪らないとでも言いたげに、鎧の腹に跨ったまま哄笑する兄の姿に。 じくじくと湧き上がってきたのは、欲と呼べるものだったのか。 このがらんどうの身体に、染み渡るほどの感情がまだ残っていたか。 「…エドワード兄さん…何、言って」 震える声は、きちんと彼の言葉が理解不能なのだと伝えることはできず。 自分の奥底にある、小さな濁りをかき乱されたことを彼に教えてしまった。 兄はやはりと言いたげに鼻を鳴らすと、口元を歪めた。そんな表情ですら、ひどく綺麗だと感じるだと伝えれば、兄はどう反応するだろう。 「あるんだろう?」 「…何が?」 「とぼけるな。…お前、この身体を抱いたこと、あるな?」 道理で、お前の前で着替える時、お前の目つきが違ったわけだ。 さも納得いったように、頷く兄。 着替えの際、隠す必要などないから平然と開かれた胸元に、独りよがりな罪悪感を抱いていたのは事実だった。 「だって…兄さんは、兄さん、だよ?」 そしてボクは、弟、だよ? どうかたしなめられますように。 自分の中にくすぶる欲に、この綺麗な人が気づきませんように。 けれどいともあっさりと、逆光の中で微笑んだこの人はボクの精一杯の努力を破壊し尽くした。 「じゃあ訊くけど。はじめに、オレを抱いたのは何でだ?」 「だから…」 「誤魔化すな。抱いたのか? 抱いてないのか? 言ってみろ。…ただし、嘘だけは許さない」 嘘なんて吐いたなら。 そうしたなら、お前の存在なんてオレの中から消してやる。 オレはもう1度、『トゥリア』に戻るよ? 耳元で、睦言のように囁かれる甘い言葉。 感覚はないけれど、きっと『感じる』というのはこういうことだ。 ぞくりと震えにも恐怖にも似た、嫌悪感1歩手前の快楽。 ボクが兄を失うことに耐えられないのを薄々知っていながら。 この人は、自然に『ボクを消す』とまで、言い放つのか。 「―――答え、は?」 観念しな、と優しく兜を撫でていくのは、最愛の人だった。 何時の頃だっただろう。全てを持っていたあの幼い頃、兄と自分は一心同体なのだと、本気で思っていたのだ。 それがただの錯覚であり、兄弟であっても別々の存在なのだと―――思い知らされたのはあの過ちの日。 互いに別々の物を失った。失う量も異なった。 そしてそれが、決定的だった。 ボクたちは離れようと思っただけで、簡単に別れることができるのだ。 思い知らされた簡単な事実に、ボクは心底恐怖した。 今は良い。兄はボクを置き去りにはできない。彼の中にある罪悪感ですら、利用したところで一向に構わない。 けれど、物事はいつかは終わりが来るからこそ始まりがあるのだ。 いつか貴方はその真っ直ぐな瞳を遠くに向けて。 その大きな背中を見せながら、何処かへと行ってしまうだろう。 想像の中の別れ。 作り物の恐怖に負けて、ボクは実の兄をこの身体でベッドへと沈めた。 あれは何時のことだったか。 事故に遭遇した3、4ヶ月前だったろうか。 そう、あの時から。 共犯の鎖がまた増えた。 「…で? 何回くらい抱いた?」 「………2、3回…」 「そ」 予想より多かったのか少なかったのかは顔色から読み取れなかったが、兄は伏せていた上半身を起こすと、濡れた上着を引き剥がすように脱ぎ捨てた。そのまま無造作に、床へと放り投げる。ぱしゃ、とかすかな水音がした。 そして邪魔だと言いたげに、肩口の留め具をがちゃがちゃ言わせていたかと思うと義手も外し、上着とは違う方向へと放り出した。 身軽になると、兄は再び顔を伏せ、囁くように小さく呟いた。 「じゃあ、これが4回目、な」 ゆっくりと、彼に残された1本の手で厳つい造りの兜が撫でられていく。 まるでそれが本当の人間であるかのように。 耳から顎にかけてのラインを骨に沿ってなぞり、くすくすと笑って目じりへとキスが落とされる。 恋人同士の睦み合いにも似た仕草ではあるがしかし、その白い腕が絡むのは鈍い銀に輝く甲冑。 錯覚の目まいを感じながら、ボクは。 4度目の禁忌を犯した。 +++ 久方ぶりに触れた身体は、以前よりも筋力が落ちていた。 普段から組み手だ鍛錬だと身体を動かしていた頃とは違い、いま彼はこの神殿に幽閉されているも同然の身だ。せっかくしなやかについた筋肉も、痩せてしまっていて当然と言える。 けれど基礎がしっかりとしているため、バランスの良い肢体は滑らかなラインを崩してはいなかった。 表に出ることもほとんどなく、屋内で過ごしていたせいだろう。ただでさえ白い肌が作り物めいた白さにまでなっていた。 アンダーシャツも脱ぎ捨てて、上半身裸になった兄は煩わしげに髪を留めるゴムを外した。 もうすぐ腰にまでかかりそうな、絹糸の金がゆらりと揺れる。 「…なぁ」 ボクの腹にまたがって、彼は言葉を発するたびにボクの耳元へと唇を寄せた。 肉体を持っていたならあまりに刺激の強い体勢に理性の1つや2つ、とうに擦り切れていただろう。 さぞかし手触りの良いだろう髪を梳くのに夢中になっていたけれど、ボクは兄にかすれた声で返事を返した。 「…何?」 「オレたち……どれだけ間違えば気が済むんだろうな?」 「兄さん…?」 「男で」 やはり頭だけを垂れながら、兄は額をボクの身体につけることで身体を支え。 残された左手でややせっかちにズボンの金具を外した。 「兄弟で」 自由になる右足をばたつかせ、ズボンから足を引き抜いた。邪魔になる靴はとうに彼自身の手によって床へと落ちている。 左足に絡んだズボンを苛立たしそうに脱ごうとするのを、ボクは右手を伸ばして手伝った。義足から脱がせる要領がよく判らず、びりりと生地の裂ける音がしたが気にする余裕は2人ともない。 「それにお前の……これ」 べろり、と彼は。 兜の目にあたる空洞に、赤い舌を差し入れた。 普通であれば、中にいる人間の眼球に触れていただろう舌は、虚しく空を舐めるのみだ。 そのまま淵をなぞるように舐め上げ、仕上げに軽いキスを落とされる。 「…お前、どういう身体してるの」 「ボクは…」 「オレたちは、何をしたんだ?」 ボクは言いよどんだ。 あれが最初にして、最大の間違い。 神に祝福される道を自ら捨て、地に落ちることを余儀なくされた哀れな人。 そう、哀れなのはこの人だけだ。 けして肉体を失った、ボクではない。 失うことに耐えきれず、更なる泥に塗れることを選んでしまったと誰が責めても。 ボクだけは、此処にいるから。 あなたのくれた、この身体で。 「…いいや、別に」 「え?」 「今は言いたくないんなら、後から幾らでも聞いてやる」 それよりも今は、することがあるしな。 ひくりと兄は肢体を震わせた。ボクが冷たい手で彼の背骨をなぞっていったのに反応したせいである。 他人からの接触に、敏感なのは変わらないらしい。 小さくそうだね、と同意して、ボクは意図を持って彼の身体に触れていった。 +++ はぁ、と彼のつく吐息は、空中ではなくボクの肩口にあたって消えた。 すでに彼の身体からは、自身の上半身を支える力すら失っている。 ただ逃げるように腰だけが浮いており、さぞやはしたない格好をしていることだろう。 飲み込みの早いボクは、簡単に彼を追い上げていく。どこで異様に反応を返すか、声の色が変わるか。もうあらかた把握した。 「…っ、あぁ、そう、だ」 切れ切れの嬌声の合間に彼は、あの野郎に感謝しなきゃなと皮肉げに笑った。 何のことかと訊くと、どうやらあの下世話な教祖は気の利くことに、夜の巡回を減らしてくれたらしい。 忌々しそうな兄の腰に、ボクはさり気なく手を回した。 「…いい度胸だね、エドワード兄さん?」 「え? ……っ、ん!」 「ベッドで他の男のことを口にするものじゃないよ?」 「んな、て…っ、ど…で………っっ!」 てめぇ、どこでそんなセリフ覚えてきやがった。 おそらくはそんな意味合いのことを言いたかったのだろうが、あいにくと手を緩めてあげるほど優しくはない。 追い上げて。追い上げて。 突き落とす。 目じりに涙を浮かべながら、兄が必死に己の下半身を嬲る腕に縋りついた。 「あ、ちょっと…手、止め…っ」 「どうしたのさ」 「だから…っ、ちょ、待……っ」 訝しく思いながらも手を休めてやると、ずるりと這うように兄はベッド脇に据えつけられたローテーブルへと手を伸ばした。 震える腕で引出しを開けると、筒状の薬入れを取り出し、ボクの手へと投げ出した。 「…なに、これ?」 「軟膏」 どうしてそんなものを、と一瞬思ってから。あぁ、と1人納得する。 義手を外した後の彼の肩。義足をつけてある彼の太もも。そして杖を支える上腕の内側。 消えることのない鬱血に、せめて症状が悪化しないよう塗りこんでいるものだろう。 彼の意図を察して、遠慮なくボクは蓋を開け、中身を指へと絡ませた。 体温がないボクは、あらかじめそれを温めてやることはできない。できるだけそっと触れたつもりであったが、新たな冷感に兄の身体は可哀相なくらいにすくんだ。 それでも、彼の身体を必要以上に傷つけることはない。 …いっそ、傷つければ少しは救われるのだろうか。 互いに何も残さない行為。 欲望を叩きつけられるわけでもない。体液を取り込むことでさえも。 相手の身体に、跡すら残せない。指で圧迫してようやくついた、刻みつけた赤もじき消えていくだろう。 感覚がないがゆえに、精一杯抱きしめることすらもできない、不毛な交わり。 いや、交わりとすら、呼べない。 性行為とは、互いに互いを殺し合う行為だ。 己の欲と相手の欲が、赤裸々にぶつかり合う行為だ。 けれどこの真っ白な部屋で行われているのは、一方的な行為。 ボクは快楽に溺れることはない。自分を見失うことは決してない。嬌声を上げ理性を彼方へ放り出されるのはいつでも、兄のほうだ。 兄の、ほうだけだ。 一方的な嬲り殺し。 合意の上での強姦というものが、この世界には存在する。 「ねぇ、名前、呼んで…」 「ぁ……アル、フォンス…っ?」 すでにその目はかすみがかっていて、普段宿している強烈な光は遠くへと放られている。 美しいその黄金の瞳が、溶ける瞬間がボクは好きだ。 けれど。 かすれた声に気を良くして、彼の顔を見上げた瞬間。 ボクは気づいた。 唐突にボクは上半身を起こした。 ボクに縋りつくようにしがみついている兄の身体も、持ち上げられて座り込む姿勢になる。 なに…? と舌足らずに尋ねてくる兄には答えず、その体勢のままに愛撫を再開した。 疑問符はあっけなく悲鳴に変わり、少しでも快楽を逃そうとしてか、彼はますます強くボクの首へとしがみついてきた。 これ以上、見てはいられなかった。 見下ろしてくる、兄の目を。 ようやく、ボクは気づいた。 この人が、このエドワード=エルリックという人が、実は残酷で薄情な人間だということに。 +++ ボクが生まれ落ちた時、すでに兄は世界にいた。 無条件で、ボクは兄の世界に居座っていたのだ。 弟である『アルフォンス=エルリック』を彼は愛してくれていたけれど。 互いの境界線すらなくしてしまおうとでもするかのような、狂信的な愛し方をする人なのだけれど。 ―――目が、告げていた。 自分たちは別々の存在なのだと。 いくら身体を重ねても、2人のままでしかないのだと。 快楽にどれほど身を委ねても、自分たちの距離は変わらないのだ。 そう、彼は言っていた。 目の前の人がいま見ているのは、『弟のアルフォンス』ではなく。 赤の他人の『アルフォンス』だ。 他人を見る兄の視線。 それを受けて初めて、ボクは兄の世界がひどく狭いものだったのだと気がついた。 彼の愛情が、とても狭く深すぎるものなのだと、今さらになって。 「…兄さん」 広い室内に、響き渡る濡れた音。 思い出したように上がる悲鳴。 鎧に抱かれ、快楽に踊る細身の少年。 現実感などカケラも見当たらないにも関わらず、どこか神聖に見えるのは…彼が。 「…エドワード、兄さん…っ」 かき抱いて。その細い身体を抱いて。 けれどそれでもボクの声は、あなたを素通りしてはいませんか? どうして抱かれたんですか。 どうしてボクをアルフォンスと呼びながら、弟と呼んでくれないんですか。 中途半端に突き刺すような痛みを、あなたは無慈悲に与え続ける。 絶対的に君臨する、黄金に彩られたあなたは―――ボクの。 「……ごめん」 悲痛な色を漂わせるボクの声を、もう彼は聞いてはいないだろう。 だからこそ、よけいに。 満たし合いたくて、けれど何処までも虚しい行為を止めることなどできなかった。 これだけが、いまボクが彼を感じることのできる行為であったから。 「…ごめんね」 ただ、それだけを繰り返す。 ごめんね。 ボクは動きを止めることはなかった。 兄が耐えきれず、自分を手放して闇に落ちるまで。 彼の目が伏せられて、一筋の涙だけを残すまで。 |
to be ... |