まるで押しつぶされるような重みと痛みとを頭部に感じながら、オレはゆっくりと目を開けた。 視界がやや不明瞭だ。心なしか全身が倦怠感に襲われている。 …倦怠感というよりは、打撲を負ったような痛みだろうか。 見覚えのない真っ白な天井が見え、見覚えのない貧相な顔がこちらを覗き込んでくる。 何やら質問してくるその男に、何も判らないと正直に告げてやったら、男はえもいわれぬ表情を見せた。 それで良いのだと言いたそうな、酷薄に細まった瞳。 そして、横たえられたベッドを取り囲むように立ち上る、香の煙… |
++ 神の坐す玉座 10 ++ |
+ 目隠しの園 + |
薄く目を開けて、しばらく茫洋と考えてから、自分がベッドでうつ伏せて眠っていたのだと自覚した。 ゆっくりと身じろぎすると、容赦ない鈍痛が全身に襲いかかる。日頃身体を動かしていない上に、急に激しい運動をし、更には普通なら使わないだろう筋肉と神経とを行使すれば、まぁこういう結果は目に見えている。 更にはそれが、1度きりではなかったならば。 オレが起きたのに気づいたか、広いベッドの端に、申し訳ないような風情で腰かけていたアルフォンスがこちらを向いた。 「…はよ」 すると彼はどこか気まずそうな声音で、同じく挨拶を返す。 そして気まずさと重さを振り払うように、アルフォンスは朝食の用意をしにそそくさと部屋を出る。 ―――それが、あの日からの新しい風景となっていた。 +++ 容赦なく、己のそれより二回り以上も小柄なこの身体を好き放題にするくせに、その後で必ずこうした態度を取る彼を見ていると、まるで悪いのはこちらのような気さえしてくるから不思議だ。絶対、あの男は初対面の人間に好意を持たれるタイプだと思う。 (…いや、実際、そうかもな…) 彼が唯一の拠り所にしているのが兄である『エドワード』であることに、オレはとうに気づいていた。 彼の中身が、空洞であることを知った瞬間は、尚更に。 だからこの男は、この鎧の身体の弟は。 兄を必死で捜し求めて、こんな閉ざされた園までやって来たのだ。 見放されることを恐れる子どもであるかのような彼に、覚えたのは紛れもない高揚感。 ぞくりとオレの身体が熱を持つ。 彼の身体に顔を寄せるとふわりと香る、そのオイルの匂いにさえ欲情した。 これは、この男の匂いだ。 この金属の腕も。金属の指も。金属の足も。胴も。兜も。お前の身体を構成しているものは皆。 いま、オレの手の中にあるのだ。 ゆっくりと彼の身体である鎧を舌でなぞっていく。凹凸を辿って付けられた唾液の跡がてらてらと、彼の肩や腹にくまなく塗りつけられていく。愛撫というよりはマーキングだ。 熱を知らない彼の指に、身体の最奥を穿たれて快楽に泣き叫ぶような人間、オレくらいしかいないだろう。 肉体的な絶頂に浸りながら、オレは彼の肩にある突端に歯を立てて。 奥底から沸きあがってくる征服感に、酔い痴れた。 ―――逃がさない。 お前は優しい男だよ。アルフォンス。 例え記憶をなくしていたとしても、お前はオレと兄と呼び続けた。 お前自身が拠り所としたかった兄が、その役目を果たし得ないと知っても、だ。 そして本当に、オレがお前に兄であるのか、少なくともオレから見れば判らないというのに。 けれどもうこれで、大丈夫。 肉体を持たないがゆえに、お前の中でのその行為は禁忌以外の何者でもないだろう? それが実の兄であるならば尚更に。 だからもうお前は、その厳つい指で切り拓いたオレを見限ることができなくなった。そうだろう? もしこの口が、喘ぎと嬌声しか洩らせないほどにせっぱつまっていなければ、オレはきっと高らかに笑い出していた。 おかしくて、おかしくて。 嬉しくて。 うっとりと蕩けた視線の先にいるのは、お前だけでいい。 自分でも馬鹿みたいに求めるものができた。 まだたっぷり残っていたはずの軟膏は、とうに底が見えかけていた。 一応言っておくが、3分の1はちゃんと腕や足の鬱血に使用した分だ。そして残りの3分の2をどうしたかと言うと…まぁ、それは置いておくとして。 じんわりと、アルフォンスという男がオレの内に侵食していっているのが判る。はっきりと、徐々に、だが確実に。 食い尽くされる、という予感とそれでも構わない、という切望。 何処までも相手に絡め取られることを望むオレは、要するに自虐的なのだ。 あの男の優しさは底なしだ。引きずられて、染み込んでいき、いつしかそれなしにはいられなくなる。 しかしそれを失うどころか、相手から求めてくるとあれば。 (…ふふ) お前は果報者だよ……と、オレは記憶をなくした男に呟いた。 +++ 外の世界から切り離された傲慢な神の園で、食べて寝て礼拝に出て奇跡を起こし、そして賛美の視線を浴びる。 下らないほどにパターン化された日常は、いつまでも続くはずの生活だった。 いつからだろう、それがひどく味気ないもののように思い出したのは。 いや、味気なさ、下らなさは感じていたのだ。最初から。 ただそれでも、別に構わなかっただけのことなのだ。 だとしたら今は、構うようになったとでもいうのだろうか。 「なぁ」 礼拝後、いつもならさっさと自室へと帰るのであるが、オレは教祖へと話しかけた。 彼は信者たちに香台の片付けなどを命じると、オレのほうへと歩み寄ってくる。 相変わらず顔色の悪い男だ。土気色というのはきっとこの色を指しているのだろう。 「オレが御子を辞めるってったら…どーする?」 「……あの男か」 途端に、苦虫を5匹ばかり噛み潰したような表情になる。 さすが、聖職兼詐欺を務めているだけあって、洞察力はあるようだ……まぁ、それまでろくに意見も言いやしなかったオレの行動の転機なんざ、あの男くらいしか思い当たらないだろうけれど。 「どうでもいいだろ。…言っとくけど、アンタにゃ止められない。だろ?」 真っ白の記憶に目を覚ました時、ロムルスはオレにこう提案した。 『生活の面倒はすべて私が見よう。その代わり、君の腕を寄越したまえ』と。 腕? と言われて、ようやくその時オレの身体が五体満足ではないことに気がついた。 奴は顎をしゃくって義肢整備士らしき男にオレの身体の寸法を測らせながら、やや大げさに天井をあおいだ。 『君のその才能は、おそらく天の思し召し。使わなくて何とするかな、トゥリア』 『…トゥリア?』 『君がうなされながら呟いていた名だ。綺麗な名じゃないか。神の子に相応しい』 『…あ、そ』 思えばその時から、欠落を感じていた。 何かがいない。何かが足りない。どうしてオレはたった1人でベッドに寝ている? 靄のかかった思考の中で、途端にオレは全てがどうでもよくなった。 同じだからだ。此処にいないのであれば、オレが何処にいようとも。 『…好きに、しろ』 オレとロムルスとの間には、利用するかされるかの2つしかない。 この男がオレの奇跡(要するに錬金術だったが)を使って、何をしようとしているのかすら、オレは知らない。 ロムルスだとて、信者たちや教団としての伝手を使えば、もしかすればオレの素性が判るかもしれないのにも関わらず、何も言ってこない。 食事と宿の礼に、術を行使しているだけ。 その結果すら考えなかった自分に、苦笑がこみ上げてくる。 「…君を崇める信者たちを見捨てて行くのかね」 「は。錬金術師を崇めてどうするんだ」 「……それも、あの男に?」 「ってことはアンタ、知ってたな?」 オレが、錬金術師であることを。 「アンタ、オレの情報握ってんじゃないの」 名前も、経歴も。 そして。 あの男が血縁であるかも。 「どうだろうな」 「っ、てめぇ」 薄ら笑いを浮かべて男はきびすを返した。反射的にロムルスの肩を掴んで引きとめようとする。 と、ぐらりと男の身体が揺れた。 「え?」 「…離したまえ。言っておくが君の邪推だ」 予想以上に相手の力は弱かった。何とか転倒だけは阻止した教祖はオレの手を振り払うと、邪険にそう告げる。 わざとらしく襟を直すと、そのままオレの次の言葉など無視した風に、さっさと奥へと歩んで行った。 「な…んだ、あのヤロ」 話を強引に終わらせられた上に結局、男が何処までのことを掴んでいるのか、判らなかった。一瞬虚を突かれたオレが悪いと言えばそれまでだ。 +++ 庭に出て、清浄な空気を肺一杯に吸い込んだ。いくらこの神殿内が人間の欲と欺瞞とに満ち満ちていたところで、自然は何も変わりはしない。 そういえば、あの日は雨が降りしきっていたっけ。 兜を失って座り込んでいたあの男を追いかけてきた場所。 何ということもなく、右肩にぶら下がる義手を見つめた。そして義足を。 ぽつりぽつりと、断片的に話されるアルフォンスの寝物語を、オレは肉体的にかなり疲弊しながら聞いていた。 2人揃って犯した罪と、オレが1人で犯した罪を。 正直言って、それほど衝撃はなかった。鎧で動き回るくらいだから余程のことなのだろうと思っていたからか。それとも錬金術師として、何処かで予測を立てていたせいか。 それでも、まだ我が身のことだという感覚は芽生えてくれなかったけれど。 動くことのない右手と左足。 罪のしるしとエゴの証。 (…右腕で、魂を、ね) いま、自分にそんなことができるかは判らない。 けれど、その時の『彼』の心情だけは、手に取るように判った。 (…業よりも、孤独を恐れた『お前』は) どれだけ地面に叩きつけられても、差し伸べられるだろう手を選んだか。 (あぁ、やっぱり) やはり、そうなのだと1人ごちる。 アルフォンス。 お前の行動は正しいよ。 オレはきっと、お前の言う兄なのだろうな。 オレは『エドワード』なのだろうな。 いまだ記憶はないけれど、それだけは判るよ。 何故ならば…こんな愚か者、1人もいれば十分だろう? +++ 身体に金具が触れているせいか、外気温の変動の影響は大きい。 ふと指先が動かしにくいなと思って改めて、かなり身体が冷えきっていることに気づいた。 いつまで空を見ながら呆けていたのだろう。 戻るか、と引き返す途中で、景色の中に異端分子を見つけた。 緑の茂みの中に覗く、茶色の物体を拾い上げる。 「…テディベア?」 つぶらな瞳をした、一抱えほどのぬいぐるみだった。この場所にそぐわないことこの上ない。 少し、泥や埃で汚れてしまっている。 軽くはたきながら、一体これはどうしたものかと、ためつすがめつひっくり返す。 首に巻きつけられた紺色のリボンの裏に、何か縫い取りがしてある。見ると、住所と名前が小さくその布に記してあるようだ。 『フィーレン市ダリア通バアル6ー3 キト=エーデルガンダ』 「…キト?」 我知らず、声が震えた。 オレは詰め所へと一目散に向かった。どういうことだ。 あの日彼女は、テディをしっかり抱えたまま、建物の中へと入っていったではないか。 ぬいぐるみをあの場所に落とすには、正門は全くの方向違いだ。 あんな小さな少女を再び放り出すような、冷血漢でもいたというのか。 それとも。 嫌な予感がする。 柔らかなキトの表情が、脳裏を掠めた。 扉を叩くのもそこそこに、オレは室内へと入り込んだ。 「邪魔するぞ―――…?」 がらんとした空気が、無人だと主張していた。 長机の上は綺麗に片付いており、コートかけにも何もかかっていない。 完全な、空き室だった。 普段であれば、常に数人は待機しているその部屋に。 (…人払い、されている…?) 静謐、と言ってもいいような回廊を、ひたすらに歩いた、この時ばかりは、疾走できない我が身が忌々しい。 見れば自室前にいるはずの見張りもいない。いやがおうにも、予感はいや増す。 「アルフォンス!」 扉を開け放ち、叫んでみても返事はなかった。 ぐるりと覗き込み、やはり誰もいないことを確認する。 「アルフォンス…っ?」 何かあったのだろうか。 教団の連中に何があろうと知ったことではないが。 あの幼い少女と。 あの不器用な弟と。 彼らの身に、何か降りかかったとでも言うのだろうか。 「落ち着け…」 高鳴る鼓動を抑えて、自らに言い聞かせる。 落ち着け。まずはゆっくり考えろ。 アルフォンスやキトのことはともかくとして、見張りや詰めている兵までを人払いするのは誰か。 この神殿内を、無人にできる力を持った者は誰か。 考えるまでもない。 がつ、と杖を振り回すように、Uターンしようとする。 向かう先は、教祖の自室だ。 が、くるりと振り返ったオレの頭上に、影が落ちた。 「―――なに…っっ!?」 ひゅん、と風を切る速度で、大ぶりの棍棒のようなものが振り落とされる。 オレの脳天を、迷わずにめがけて。 |
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