足りないんだ。


足りないんだ。


飢えることを思い出させたお前が、何処までも。





++ 神の坐す玉座 8 ++

+ それは、あってはならない筈の +





    
変わらない日々というフレーズが、奇妙に当てはまっているような、そうでないような数日間。
オレは心の奥底に、かすかに濁りが溜まり始めるのを自覚していた。
じりじりと、遠くから弱火で嬲られるような錯覚。
その元凶であるあの男は、今日も何でもない風を装ってオレの弟として振舞っている。


「子どもが?」


朝、瑞々しい赤の果実に齧りつきながらのオレの疑問符に、男はかいがいしく朝食の準備をしながら答えた。
以前にリンゴを小さな子どもにあげたという話を聞いていたら、ふと男が言い出したのだ。


「うん。聞いたことない? どの町も物騒になってきたね」


どの町も、という部分に比較的重点を置き、男はバターを塗りつけたブレッドを一切れ差し出した。
それを当たり前のように受け取り、オレは美味そうな芳香に目を細めた。
どうもこの男は、先天的に主婦として生まれついているらしい。
教団のほうでも食事の用意はされているのだが、こいつの腕には敵わない。
すっかりこいつの味に慣れ親しんでしまった自分は、要するに傍から見れば「餌付けされた」という具合になるだろうか。
おまけに朝の買出しまで自身で赴き、新鮮な上物を適度に値切って買い込んでくるので「お前、オレのトコ嫁に来るか」と言ってやったら、「そっちがドレス着てくれるんならいいよ」と返された。
その後オレが不機嫌になり、相手が機嫌取りに立ち回る姿があったのは言うまでもない。


「ふぅん? 物騒なんだなぁ?」


旅路でのことを指しているのは明白であるが、具体的な事実が思い出せないのだから仕方ない。
だいたい、こいつの思わせぶりな言い方が中途半端なのだ。
故郷のこと、幼馴染の話、軍部の一筋縄では行かない面々、旅先での様々な出会い。
作り話がすらすらできるほどこの男が器用ではないくらい、すでに判っているのだけれど、何かが欠けている気がしてならない。


例えば、どうしてオレたちは旅をしているのか。
どうして、ただの子どもに過ぎないオレたちが、軍の人間と知り合いなのか。
オレのこの欠けた手足は、事故なのか病気なのか。
そしてそんな半端な話を披露するお前は、どうしてその鎧を脱がない?


問い詰めたこともあるが、男はその内にと茶を濁すだけ。
そして、普段の自分であれば更に問い詰めているだろうに、オレはその先を訊けないでいた。


行ったら、戻れなくなる。


そんな予感だけが、不吉に頭を塗りつぶしていた。





+++





衛兵たちに話を聞いてみると、本当に子どもの失踪が発生しているらしい。
とはいっても、このハストの街での発生はなく、周囲2、3の町々でのことらしい。
それがハストにまで波及しないかどうか、子どもを持っている親は一抹の不安を抱えているらしいのだが。


「やれやれ、物騒な話だな」


自室に戻り、スプリングの効いたベッドに勢いつけて身を投げ出した。
ばすん、と空気の張る音とともにオレの身体は一瞬、ベッドへ完全に沈む。
そのまま目を閉じるでもなく(何せまだ夕方だ)、オレは天井を眺めながら物思いに耽っていた。


焦燥のようなものが生まれている。


この現実と、現在に。苛立ちを感じ始めている自分がいる。


細々とした心遣いも、先まで見通した気配りも、全てがおそろしいまでにオレの肌に馴染んでいる事実。
オレの日常に、すでに同化してしまっているその存在。


このまま心ごと乾ききって過ごせばいいと思っていたのに、表立っては糾弾しない、けれど責める目を向ける輩がいるのだ。
目の前に。


その男には実体がない。


身体はいつでも鎧に覆われ、声も思いやりも何もかもが、金属を介してこちらへと向けられる。


「…くそ」


自覚するまでもなく、明らかにオレは考え込む時間が増えていた。
どうしてあいつは、オレの元に留まり続けているのか。
何のためにと訊けば、果たしてオレのためだと答えるのだろうか。
シャワーを浴びに行く様子もなく、ベッドにも横にならず、食事も手をつけているようでひそかに捨てているのを知っている。
お前は修行僧か聖者かと皮肉を口にしたところで、あの男は曖昧に笑うだけだろう。


それがひどく、頭に来る。


オレに何も話さないくせに、ただ横にいるだけのくせに、そのくせお前はオレに何を要求するつもりだ。


こん、こん。


控えめなノックに返事をすると、律儀に挨拶してから鎧の男は入室してきた。
手には買ったのか摘んだのか判らないが、小さな桃色の花が束になっていた。
綺麗でしょう? と自慢げな男にそうだなと感想を述べるが、実際のところオレは花なんてこれっぽっちも見てやしなかった。


視線の先には、いつだって。


―――いつから。


「……っ!」


驚愕に目を見開いたオレに不審を感じたか、花を手にしたまま男はがしゃがしゃとこちらへと近寄ってきた。
どうしたの、具合悪いの、薬貰って来ようか、何だか顔色が悪いよ兄さん。


近づいてくる、数日前まで名も知らなかった―――忘れていた男。


誰だ、この男は。
当然のようにオレを慈しんで労ってくるこの男は。
ゆっくりと金属の手が、こちらへと差し伸べられる。


止めてくれ。


「触るな!」


思いきり弾くと、はらはらと幾枚かの花弁が散った。
柔らかな自然の匂いが鼻腔を撫でていく。


「どうしたの? エドワード兄さん?」


オレの突然の拒絶にも、それほどの動揺は見られなかった。
まるで全てを受容する母親の態度に近い。


だからだ。
だからオレは怖いんだ。


じわりじわりと精神の奥底まで簡単に浸透していってしまう、そんな優しさをお前は常に向けてくるから。
その手がなくなってしまう可能性を、いつしか考えられなくなってしまうその時が怖い。
すでにその兆候は見え隠れしているのだから。


「具合悪いんなら、横になってなきゃダメ―――」
「触るなっつってんだろ!」


心配そうに身を寄せる男を突き飛ばすつもりで振り回した腕は。
ひどく大きな反響音をさせて、兜を床へと叩きつけた。


がらがらがらん、からからから…


静寂と静止が、その時の世界の全てだった。
飛ばしてしまった兜の下からは、まだ見たことのない彼の顔が覗くはずであったのに。
そこには虚ろが広がっているだけだった。


「…え?」


空洞。


そんな単語がぽっかりと脳裏に点滅する。
何が?
彼の、身体が。


状況についていけなかったのはオレも同様であるが、男も一瞬硬直していた。
そしてその隙に、オレは見てしまったのだった。
頭だけではなく、全てが虚ろである…その中身を。


空気がかすかに蠢く独特の空間が広がっている、彼の内を。


(何も、ない?)


(じゃあ)


(彼、は)


「おま…」
「〜〜〜っ!」


彼は、オレが言葉を発そうとした瞬間に身を翻し、何も言わずそのまま扉を抜けて廊下を走り去っていった。
部屋にはただ呆然としているオレと、兜が虚しく残されているだけだった。
そして彼を追うように、はらはらと舞い落ちる桃色の花びら。





+++





礼拝後はしばらく自分には近づくなと言った時、彼はどうしてと訊いた。
どうしても何もない。薬の効果だ。
僅かながら、この身体に香りが染み込むのは避けにくいだろうし、それで図体のでかいこの男がどうにかなるとも思えなかったが、一応そう言い聞かせていた。
しかし男は、頓着した様子は全く見せなかった。
薬の効能をオレが懇切丁寧に、やや過剰気味に伝えてやったにも関わらず。
それだけ自分の頑健さに自信があるのかと思っていたら、それは間違いであったのだ。


彼には薬の影響を受ける、肉体そのものがなかったのだから。


「…そういえば、はじめの時もそうだったっけな」


すぐ摘み出されていたとはいえ、多少はハイになっていてもおかしくなかった。


「まぁ、大騒ぎはしてたけど」


思い出して、くく、と笑う。
笑いながらも、オレの足は義足歩行世界チャンピオンでも目指しているのではないかという速度で闊歩中だ。
オレの杖の音を知らない人間は、きつつきでも紛れ込んだかと思うかもしれない。
それほど焦ったように、オレは薄闇に覆われだした教団内で捜し回っているのだった。
どこで油を売っているか知らない、兜を失った半端な鎧を。


(…逃げんな)


彼が落としていった―――正確にはオレが弾き飛ばした兜の房を義手の可動部に引っかけ、当てもなくうろうろとその辺りを歩き回った。
それまでの焦燥とは異なる感情が、沸々と湧いてくるのを感じる。


それは、今までのあいつの行動への納得であったり、欠けている説明への朧な推察であったり。


そして、オレの目を避けるように逃げ出したあいつへの、怒りだった。


(逃げるな)





+++





茂みが揺れたような気がして、オレは歩みを止めた。
階段を下り、裏庭へと歩を進める。耳をすませば、くすんくすんと鼻をすするような音がした。


「…誰か、いるのか?」


低く、小さな声で問いかける。
ややあって、茂みがはっきりがさりと揺れた。やはり何者かがいるのか。
金属音ではないことから、逃亡中のあいつではない。警戒しつつも近づくと、そこにはうずくまっている小さな少女の姿があった。


「…なに、してんだ?」


「……ふぇ」


「あぁ、泣くなよ? 泣くな? オレは何もしないから。な?」


慌てて彼女の前にかがみ込み、両肩を抱いて優しく目線を合わせて話しかける。
こういう子どもの扱いは、もしもじゃなくあいつの方が上手いだろう。
見たところ5、6歳といったところか。黄のワンピースに焦茶の靴、ふわりとした髪をリボンでまとめた可愛らしい子だ。
右手には全長30cmはあるだろうテディベアを持っていた。


「…うん」


「よし、いい子だなー。名前は?」


「…キト。お兄ちゃんは?」


「えぇと…オレは……エドワードだ」


考えてみれば、エドワードと自己紹介するのはこれが初めてだった。
まるで他人の名前を口にするような、けれど妙にしっくりくるような、奇妙な感覚に襲われながらオレはキトの頭を撫でた。


「エドワードお兄ちゃん?」


「宜しくな、キト。それでキト、どうして、こんな処にいるんだ? お母さんは?」


どうやって入って来たのだろう。門には門番がいたはずなのだが、職務怠慢ではないか。
しかし考えうる説明としては、この子が外から迷い込んで来たというよりは、むしろ…


「お母さんとおばさんと、お祈りしに来たの」


「お祈りに?」


「うん……トニィが、見つかりますようにって」


「…トニィくんは、お友達?」


うん、と頷く少女を、オレは思わず抱きしめていた。
膝をつき、片手でしっかりと子どもを抱きしめている姿は、もしくは祈る姿にも見えるだろうか。


「どうしたの? 大丈夫?」


「…見つかるといいな。トニィくん」


「うん」


少女は無邪気に笑う。
それが目に痛いと感じ始めた時から、人は子供時代の世界から追い出されるのだ。


「…ごめんな。きっと、見つかるからさ」


縋る気持ちでこんな処までやって来たその心情が、どうしようもなく心に痛かった。


「キトは、何処から来たのかな?」


「えぇとね、隣の町から!」


「隣かぁ〜…」


小さな少女をテディベアごと抱き上げて、笑いあいながらオレは神殿内へと戻っていった。
義手側で強引に杖をつき、えっちらおっちらとやや危なげに歩いて行く。
兜を珍しがって突付くので、落とさないように気をつけながら。


「あ、雨!」


「あぁ、降ってきたな」


頬に冷たい水の粒が弾ける感触。
顔を上げると、曇った夜空からさあさあと光の線が引かれていっている。


「お母さん、心配してるぞ。きっと」


「うん…」


キトの表情が曇る。あぁしまった。失敗した。
礼拝の後にそこらを探検していて、母親とはぐれてしまったのだろう。
5、6歳時といえば、好奇心が服を着て歩いているような時代だ。


「雨か…まずいな」


「何が?」


「うぅん、何でもないよキト。それじゃあ、送ってくれる人の所に行こうな?」


空を見上げ、先ほどまでの自分の目的を思い出したオレは、キトを抱いたまま、衛兵たちの詰め所へと向かった。
ちょうどその時に、こちらへと歩いてくる1人の見張り役の男を見かけた。
過去に1度か2度ほどしか言葉を交わしたことはなかったが、気は弱くても善人の見本のような男であったと思う。
キトを預けると、少し戸惑っていたようだが二つ返事で了承した。


「ごめんな。この子、親元に返してやってくれる? 隣町の子で、親も捜してると思うから」


「あ、はい。判りました。えぇと…住所もあるみたいですし、大丈夫です」


見ると少女の持つベアーのリボン裏に、細かな字で住所と名前が記してあった。
やはりオレはざっくばらんな気性らしい。全く気づかなかった。


「じゃあキト。お母さんに宜しくな」


「うん」


小さな手をぱたぱた振る少女のあどけなさ。
眩しい、と思う自分の醜さ。


男に抱きかかえ直されて、キトはにっこりと笑ってくれた。


「ねぇ、お兄ちゃん。お祈りの時、綺麗だったよ」


「……ありがとうな」


そして、ごめんな。 こんな男を信じて、こんな処にまでやって来て。


彼らに背を向けて、オレは再び捜索に出かけた。


あぁ、もう。
誰も彼も、オレに何を期待しているのか。


あいつは、オレに何を期待しているのか。


そしてオレは、あいつに何を期待しているのか。


さっぱり判らない。判るわけないだろう。


お前が何を望むのかも判らないのに。





そうじゃないか―――アルフォンス?

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