綺麗に笑って。
柔らかな声音で。 貴方は凶器をこの身に向ける。 |
++ 神の坐す玉座 7 ++ |
+ 虚ろを抱える身体 + |
兄はボクが眠らないことを、眠れないことを覚えていなかった。 茶化したようにボクのタヌキ寝入りを咎め、そしてボクへと差し出した義手はかつて彼の幼馴染が苦心したそれとは違い、ひどく安っぽい造りのものだった。 改めて、兄の身体をしげしげと眺める。 兄の肩と腿にある機械鎧の接続部は、その直接神経へと繋がる場所から雑菌が入るのを防ぐためか布か何かで厳重に覆われており、そしてそれを包むように無理やりに金具で義手や義足を固定しているため、ぐるりと鬱血が見られた。 痛そうだな、とボクが思ったことが判ったのか、彼は「慣れてるから、平気だ」とだけ言った。 自分の身をあまり省みないことは、幸か不幸か変わっていないらしい。 ボクはどう答えて良いのか迷ったけれど、いつものように「無理しないでよ」と小言を言った。 +++ ゆるゆると怖いくらいに穏やかに、数日が過ぎた。 兄は2、3日に1度ほどの割合で礼拝とやらに出席しているらしい。 そろそろ勿体をつけるために、1週間に1度くらいに減らすべきかとロムルスという男が思案していた。 どうもこの顔色の悪い男は好きになれない。 記憶を失っていた兄を保護してくれていたらしいことには礼を言うが、兄を利用している現状がどうにも許しがたい。 兄は兄で、利用されているという自覚を持ちつつも、此処を出て行こうとする素振りは見せなかった。 「今日も?」 「あぁ、礼拝」 「…そう」 「止めねえの?」 止めて欲しいとは、思う。 さっさとこんな場所から出て行って、日の元で歩んで欲しいのに。 けれど。 それは兄の望みではない。自分の望みだ。 礼拝の終わった後、特有の残り香をまといながら兄は自室へと帰ってきて、そのまま何をするでもなく時を過ごしている。 彼が自発的に行動を起こすことは、殆ど皆無と言って良い。 そんな兄の姿を眺めている内に、ボクは判ってしまった。 これは緩慢な自殺だ。 彼は、ここでゆっくり朽ち果てていくつもりだ。 何も為さず、何も残さないままに、1人消えるつもりなのだ。 今日も出席するのか、兄はいつもの黒衣に着替えようとしていた。 礼拝の様子を、ボクはいつも控えから覗き見ていた。後姿しか見えない彼は、凛とした空気をまといながら、ボク以外の誰にも作り物だと悟られない笑顔を振りまいているのだろう。 それがひどく、痛ましい。 何を失おうと怖くはあるものか、とでも言いたいかのような、そんな彼の表情は。 その表情の先には、今ボクの姿はないだろうから。 しかし自由が利くのは片手と片足のみであるにも関わらず、器用に着替えていくものだ。 宗教家特有の黒の長衣が、金髪と白い肌によく映える。 細身のシルエットがすらりとした肢体のラインを綺麗に縁取っていた。 ボクのぶしつけな視線に気づいたか、兄は振り返ってにんまりと笑った。 「…男の着替え、見てて楽しいか?」 欲情する? 「ぅえ!? あ、そういうつもりじゃ」 「ばぁか。冗談だって」 お前面白いな、と彼は肩を震わせてくつくつと笑った。 ボクとしては、兄のその冗談が冗談と言い切れないような心境であったので、内心焦っていたのだけれど。 それから彼は自嘲気味に、 「こんな出来損ないの身体見たって、面白くも何ともないしな」 と呟いた。 手足が半分欠けた、兄の肢体。 けれどその内の半分は、彼がボクのために払った対価だ。 それを誰が出来損ないだと思うだろう。 「そんなことないよ」 「…え?」 「そんなこと、ない」 彼には何故ボクが必死になっているのか判らなかっただろう。 何と反応して良いのか困った、という顔で、兄は『どうも』とだけ言った。 +++ 何もなかったかのように。 去ろうとするなんて許さない。 逃がさない。 逃がさない。 ―――逃げないで。 +++ 兄の義手が壊れた。 それはもう、見事なまでに真っ二つ。 廉価な木製だから、一旦壊れるとこうなるという良い見本だ。 「何でお前そんなに固いんだよ!?」 「金属と木じゃ、木のほうが弱いの当たり前だよ〜っ」 「あぁもう! 錬成も出来ねーじゃねーか!」 どうしてくれんだよ!と兄は生身の腕でもって義手を振るい、ボクの身体を打ち据えてきた。 当然その感覚はないけれど、ぐわんぐわんと内部で反響するのには閉口した。 気のせいかもしれないが、目が回ったような感じになるのだ。 「わー、待って、待ってよ兄さん!」 「あ、くそ、更に壊れたじゃねーか!」 それはそうだろう。 そもそも義手が壊れた原因は、何かのはずみで(もう思い出せないので、恐らく些細な言い争いだろう)兄がボクの身体を義手のほうで小突いたことだ。 すでに痛んでいたのか、それとも打ち所が悪かったのか、いっそ気持ち良いくらいに綺麗に割れた。(反動で彼がよろけた瞬間に、変な方向に力を入れてしまったせいもあるに違いない) 義手が原型をなくしかけても、ボクが一向にダメージを受けていないのが余計に癪に障るらしく、兄は本当に17歳なのかと思うほどの幼い表情でむくれてみせた。 「ごめんって、兄さん」 「…だから」 「うん。ごめんね、エドワード兄さん」 彼を名前付きで呼ぶのに、ボクはすっかり慣れてしまった。 ありきたりな名前だけれど、その名を持つ人間が呼ぶ人間にとって特別であれば、名もそれに相応しい響きとなる。 ボクは彼から散々な目に遭った義手を受け取ると、それを床に置いた。 「ちゃんと直すからさ」 「……お前も錬金術師だったのか?」 「言ってなかったっけ?」 そういえば、すでに1週間近く経っているけれど、彼の前で錬成を行ったことはなかったと思う。 彼の記憶を刺激しそうな事柄(リゼンブールや、旅の途中の出来事などだ)をぽつぽつと話していたのに、肝心なところが抜けているようだ。 彼は興味津々といった風にボクが白墨で引いていく線を目で追っていく。 ときおり小さく頷いているのは、錬成陣の知識が頭の中に詰まっている証だ。 控えめな閃光と共に、陣の中央には滑らかなフォルムを持つ義手が1本現れた。 それを恭しく差し出すと、兄は満足したように右肩をこちらへと向ける。 毎朝、兄に義手と義足をつけるのは、すでにボクの役目となっていた。 +++ 静謐な、白に包まれた部屋の中央で、鎧の身体を持つ男が金に彩られた少年の肩に義肢を取り付ける。 誰に言っても、容易には信じてもらえないだろうおかしな情景。 義肢を装着した後、完璧に従者の仕草でボクは彼の髪を整える。 さらりさらりと絹糸の金がボクの金属の手指を流れていくが、当然その感覚がボクに伝わることはない。 痛みを与えても判らないだけに、ボクは細心の注意を払って髪を梳いていった。 気持ちよさそうに目を細めた兄は、細く息を吐いてボクにされるがままでいてくれる。 「……なぁ」 「何? エドワード兄さん」 「…お前さ、」 言うべきか、言わざるべきか、彼にしては珍しく迷った風に。 「どう、したいわけ?」 「…?」 「…お前は、何……いや、いいや。忘れとけ」 彼の途切れたセリフは、手にとるように判った。 (ボクは、どうしたいのか) 記憶を取り戻したいのだろうか。ボクにもう1度、「アル」と笑いかけて欲しいのか。 (彼は結局、ボクの名前をまともに呼んだことはない) それも確かにあるだろう。 けれどそれが何になる? 過去の罪も全てを忘れている彼を、今一度突き落とせば良いのだろうか。 …違う。 ボクは、兄によってこの世界に戻ってくることができた。 この半永久的に不死の身体を抱えて。 脳波も心拍も体温すらも存在しない、表情すらないこの無機質の身体で。 判っている。 だから、ボクは彼を失いたくないのだ。 ボクを呼び戻した彼を。 この異形の身体を与えた彼を。 そしてただ1人、ボクを無条件で弟だと受け入れてくれる彼を。 ボクが世界に存在していて良いと、認めてくれる最大の存在が貴方だから。 唯一の、肉親である貴方だから。 かつて、ボクを呼び戻したのは恐らく、兄のエゴ。 そして、彼を取り戻したいのは恐らく、ボクのエゴ。 「…エドワード兄さん」 呼んで、ボクは彼の肩に手をおいた。 相手が自分よりも大事であるはずなのに、結局考えているのは自身のことばかりなのか。 「何も要らないから…エドワード兄さんがいてくれればいいから」 「…あぁ」 それはきっと、呪文だ。そしておそらく、暗示だ。 自身への。 奥底にある願いに、けして自ら気づかないように。 ボクはそうして、蓋をしよう。 「…できたか?」 「うん。綺麗だよ」 「男に綺麗は止めとけ」 苦笑しながら、彼は億劫そうに立ち上がった。 そして、兄はボクに背を向けて歩みだす。 最後にちらりとこちらへ視線を向けて。 その目が、『臆病者』と嗤っているように見えたのは、果たしてボクの被害妄想なのだろうか。 (何を忘れてもいいから) (これだけは何度でも覚えて) (ボクを存在たらしめているのは、まぎれもなく貴方だけ) |
to be ... |