ゆらゆらと漂う、
胎児の記憶。 羊水ではなく、濁流の中の。 |
++ 神の坐す玉座 6 ++ |
+ 天国に溺れる者 + |
彷徨いながら、何処をどう歩いてきたのか、何時から歩いてきたのかすら、定かではない。 身にまとっている衣服はそこかしこが裂け、綺麗な箇所を探すのが困難なほどに泥にまみれていた。 髪は無造作に背に流れている。水分を含み、かなり重い。 そして他には何もなかった。 身一つでただ惰性のように歩んでいく。 大地が振動しているのではと錯覚するほどの轟音が辺りを埋め尽くした。 人間どころか村や町が1つ壊滅しそうなほどの土砂と奔流が、こちらへともの凄い速さで突き進んでくるのが見えた。 近くにいた親子連れが絶望のうめきを上げる。彼らも同じく、浮浪者のような出で立ちだ。 (…守らないと) 足元にすがる少年を庇いながらも母親らしき女性が、抱えている。 小さな、小さな、命。 (…オレが) 母親と、幼い2人の兄弟の構図に、何を刺激されたのかは判らない。 全てを飲み込み尽くす濁流が目の前に到達したのは、その時だった。 何かへと手を伸ばす。 掴みたかったもの。手に届くはずだったもの。 自分にとっての、光そのものの名は。 (…アル) (…トゥリア、母さん…) +++ 「……あー、くそ」 見事に最悪な目覚めである。 しかもどうやら寝違えてしまったらしく、首がやや痛むのが余計に癪だった。 そのまま起き上がりもせずに、オレはうんとベッドの中で背筋を伸ばす。硬くなった筋肉を解していく感覚が好きだ。 四肢(正確にはニ肢だが)を動かす間も思い出すのは、鮮明なその記憶。 (記憶、ねぇ) 新生児は、生まれて2、3年の間は母親の胎内の様子を覚えているのだという。 自分が誕生し、育まれた最初の場所を、覚えているのだ。 それはどうやらオレも同様であるらしい。 オレにとっての、最初の記憶。 途切れた思い出の先端。 幾度も幾度も夢に見る。感覚だけは、忘れない。 迫り来る土砂に、死を覚悟しながらも、オレは無意識に両の手を合わせていた。 現れる、巨大な土壁。せき止められる凶器の渦。 しかし耐え切れなかったか、土壁は次々と破片と化していく。 こちらが音を上げるのが先か、それとも自分たちが脇に逸れるのが先か。 次の錬成を行おうとした時に、四肢に鋭い痛みが走った。 極度の酷使に限界が来たか、手足がだらりと垂れ下がる。 (…あれ?) 夢に覚える、ささいな違和感。 (…両の手を、合わせて?) 「手、って・・・」 傍から見れば、ベッドに寝転んだオレの姿は不恰好極まりないだろう。 何せ右手は肩口からなく、左足も膝部分から下は存在していない。 ひどくアンバランスに見えるだろう受け合いだ。 そして、横に目をやると。 ベッド脇のサイドテーブルに、無造作に放り出してある木製の義手。 ベッド下に捨て置いてある義足。 (あの、野郎…っ) こけた男の憎らしい顔が目の前に浮かぶ。 苛立ち紛れに毛布を跳ね除けると、部屋の隅にいる男に嫌でも視線が行った。 まるで博物館に展示されているかのように、微動だにせず黙ったままでいる。 まさかずっと、あのまま固まっているように眠っているとでもいうのだろうか。 そういえば昨夜、その鎧をさっさと脱いでベッドに上がれといっても全く聞きやしなかった。 自分が強制的に連れ込んだとはいえ、全くよく判らない男だ。 そんなことを考えていると、突然のせわしない2度のノックと同時に、扉が開け放たれた。 「返事してねぇんだけど」 そんなオレの注文を綺麗に無視して入室してきたのは、ロムルスだった。 めったにオレの部屋にはやって来ない男が、何をしに来たのやら。 本日も教祖サマは美しい上質の宗教衣に身を包み、ご機嫌麗しいご様子で室内を不躾にじろじろと見回した。 「…拾い物をしたそうだね?」 「ん、まーね」 教祖の視線が部屋の一点に釘付けになった。 ロムルスが入ってきた時から、その目的は予想付いていたが、やはり拾い物が気になったらしい。 鈍く銀に輝く、質量およそ100s超の拾い物。 「そういや、アンタに訊いときたいことあんだけど」 テーブルに投げ出されたままの義手を左手で掴み、教祖を睨む。 「…オレの腕、どうしたわけ? 足も、あったはずなんだけど?」 あの記憶の中でオレは、確かに両の手を合わせて錬成を行っていた。 そして次に意識がはっきりするのは、この神殿で目覚めた時。 その時オレの身体からは、手足が1本ずつ欠けていた。 代わりに差し出されたのは、人形の部品のような木製の義肢。 「…その男に、聞いたのかね?」 「いいや。さすがにこーゆーのは、感覚で覚えてるもんでね」 少し、嘘をついた。 覚えているわけではない。 両の手があるという感覚が、今のオレは判らないから。 けれど、かすかによぎる記憶の残滓が、確かにそれが在ったのだと伝えてくる。 「…ふ」 ロムルスは、薄く笑ってやれやれとかぶりを振った。 てめぇこの野郎。すっとぼける気かよ。 しかしロムルスは特に焦った様子もなく、さも当然のような顔をしていた。 「仕方なかろう。この街には、相応しくないからね」 「…アンタにとっては、じゃないの?」 あぁ間違えた。 この宗教とこの神殿にとっては? 「…で、オレの腕と足は?」 「キミを助けた時には、もう壊れてどうしようもなくてね。破棄させてもらったが」 そして新しいのを見つけようにも、この街には機械鎧技師自体が存在していない。 「…あ、そ」 確かに夢の中でも、最後の辺りで身体の自由が利かなくなっていた。 それに。 男の言葉が嘘だろうと本当だろうとあまり差はない。 「さて、何か、変わることはあるかね?」 「いいや? 別にないんじゃねーの?」 特に今のままで、不自由極まりないと思ったことはない。 多少は不便もあるが、何せ両手両足の揃っていた時分の感覚がごそりと抜けているものだから、現状への適応に困難はなかった。 ロムルスはいまだ部屋の隅に突っ立ったままの鎧の男に目をやると、意味ありげにこちらを見た。 「なかなか迫力のある拾い物だ」 「捨てろって言われても聞かねーぞ」 「そんな無粋なことはすまいよ。夜の巡回を減らした方が良いかな?」 「殴るぞ」 こういう発言をしながら宗教者でまかり通るのだから、世の中は判らない。 ねめつけると、不快な笑いを浮かべながら教祖は退室していった。 「今日の礼拝にも出るように」との台詞を残して。 「ちっ、あの野郎」 ごろりと再びベッドへと沈みながら、オレは義手を手にとった。 人の手の形状を綺麗にかたちどったそれを。 肩にはめようとして、オレは男の様子に気づいた。 確かに僅かばかり、身じろいでいた。 「……タヌキ寝入りかよ、お前」 「…そういう訳じゃ、ないんだけど」 「起きたんなら起きたって言え。外見じゃ判らねーだろーが」 もしくはその、無駄に重そうな甲冑を脱げ。 そんな注文にも、男は困ったように笑うだけだ。 宥める雰囲気が板についた様子に、確かこいつは自分が弟だと言っていなかったかと自問する。 本当に、よく判らない男だ。 こんな、生きるともなしに日々を送っている男のもとへ、わざわざやって来るだなどと。 それとも、この男にとっては、意味のあることなのだろうか? 「…まぁ、いいや」 「何が? えぇと……−ド兄さ…」 「聞こえん」 「…エドワード兄さん…」 どうやら本当に名前を呼ぶのは気恥ずかしいらしい。 鎧を着ながらも器用に照れてみせる男に、オレは笑いながら手にした義手をずいと突き出した。 「着けてくれねぇ? コレ」 (なくした手が) (掴んでいたものを) (きっと、なくした) (渦巻く水の中で) |
to be ... |