大好きという思いだけでは、もう共にいる理由とはなりません。
あなたが必要としてくれる、それだけが。


存在していていい理由だと、ボクは己を戒めているのです。





++ 神の坐す玉座 14(Side:A) ++

+ 問いは虚ろに反響を返す +





    
兄は目を覚ますと、ボクが抱えた少女に気づき、くしゃくしゃと顔を歪め、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
そしてボクが外見をできる限り整えた子どもたちへと向き直すと、静かに頭を垂れ、死者を悼んでいた。その様がまるで、本当の聖職者であったようだなどとは、思ってはいけないのかもしれなかったが。


少女を抱え、立ち上がったボクに彼は先に行ってくれと頼んだ。ボクは何も聞かずにただ頷いて、彼を1人残して神殿を後にする。
兄には兄の、決着のつけ方があるだろうから。
結局、ボクたちが救えたのはこのキトという幼い少女だけだった。いや、救ったとは言えないだろう。単なる偶然の産物だと、言われなくても判る。
見た限りでは彼女に異常は見受けられなかったが、ボクたちの師匠の例もある。すぐにでも医者に見せ、そして親元へと帰してやりたい。
しかし兄はこのハストの町ではやや知られすぎているし、そしてボクはこの成りだ。覚えるなという方が無理である。今は人目をできれば避けたい。


兄の私室から引っ張り出してきた毛布で彼女をくるみ、身体が冷えないようにしておいて、ボクは仕方なく、本当に仕方なく、小さな町の診療所の玄関口へと、彼女を座らせた。毛布の裾に、メモ書きと札を幾枚か挟んでおいた。兄が何処かから拾ってきた、彼女の私物だというテディも一緒に隣に置いておく。


「…ごめんね」


起こさないように慎重に、もう1度毛布を肩へとかけ直してやり、ボクはその場を後にした。


「お兄ちゃん…?」


不意に、声をかけられる。驚いて振り返ると、薄目を開いた少女がこちらを見ていた。
そしてにこりと優しく微笑う。少女は笑ったかと思うと眠気に負けたのか、再び目を閉じてしまった。


そんな些細な少女の仕草に心から癒されるような、赦されるような、気持ちがした。





+++





すでに町には朝が訪れていた。恒例の朝市が今日も多くの人々で埋め尽くされている。
その喧騒が場違いであるように感じ、あぁ場違いなのは自分のほうかと1人納得した。
あまりにもズレのある、昨日と今日。
ボクよりはむしろ生活の場としていた兄のほうが打撃を受けただろう、昨日だった。
ボクは賑やかな市場の裏、家々の密集する細道を足早に通り抜けていく。数週間の買出しの結果、たぶんボクは神殿内より市場の裏道のほうが詳しいだろう。


「…そこの、でかいのん?」


「はい?」


勝手口だろう扉を背にし、低い階段に腰かけた白髪の女性が声をかけてくる。横で孫らしき男の子が野菜を洗い藤籠へと放り込んでいるのを見ると、これから出店に行くのだろうか。


「お前さん、信者さんかえ?」


よぉ、出入りしよっとやろ。


「あ、いえ。知り合いがいたもので…信者、ではないんです」


「…ほうかえ。なんぞ、熱心な目ぇしよるからの」


「そうですか?」


いつの間に知られていたのか。知らぬ内に、この人のところでトマトでも買っていたのかもしれない。確かにこんな鎧姿の客が来ては、最低でも2、3ヶ月は印象薄れることはないだろう。
見た感じおっとりとしているが、年の功かこの女性は人を見る目が結構鋭い。ただその熱意の矛先が教義でもなく奇跡でもなく、1人の人間であったことまではさすがに判るまいが。


「あの、お婆さんは? 信者さんですか?」


ボクが返して問うと、彼女は首を横に振った。おどけたようにこの年で新しい神など増やせないと笑った。
そして寂しそうに笑い、隣にいる少年を顎で示す。


「…あの子がこぉないな頃から、知っとるよってに。気になっとぉとね」


「あの子…ですか?」


深く刻まれた皺に覆われた目は、生きた証。ボクが手にいれることのない、しるしだ。
柔らかく目を細め、老婆は遠い日を思い出すように、焦点の合っていない表情で呟いた。


「…教祖、言うのやっとるわ。ええ子やったに」





+++





ボクは悟られないよう小さく息を呑むと、できるだけ威圧感を感じさせないよう気をつけながら、彼女の側へと近づいた。


「お知り合い…ですか?」


「うちの野菜で大きぃなったんよ?」


栄養満点やしぃねぇ?


ふふ、と老婆は孫を手招くと、その頭を優しく撫でた。無償の愛情を一身に受けているのだろう少年は、野菜の泥だらけになっていてもひどく眩しい。
己の血を引く子どもを見ながらも、おそらく彼女の目には昔の光景が広がっているのだろう。


「…昔ぃは、大人しぃ子やったに…人前に立つなんや、よぉせんかって」


「そんな人が、宗教団体を作ったんですか?」


「…しやね。おかしぃ話やろぅ? 親御さんが、宗教心厚いお人らやったしぃかね」


他では市民権を得つつある機械鎧も、奇異と排他の目で見られる地域である。
やはり余所者でしかないボクには判りはしないだろうが、この町では宗教の概念もまた、保守的であるのかもしれない。
親の信仰を受け継いだ息子が、どういう経路を辿ってあそこに行き着いたのか。
そんなボクの疑問を知ってか知らずか、老婆はふと表情を翳らせた。深い皺が感情を隠してしまう。


「……親御さんと子どもさん、両方おんなし病気でのうなりはってから…えらい塞いでたに」


最近はまた、表出るよぉなって、安心しとるんよ。


「子どもさん…ですか?」


「そぉよ? かわええ子ぉでねぇ……いややわ、こないな話して」


「いえ、お聞きしてたのはこっちですし」


堪忍え、と笑う彼女は話し相手が欲しかったようだ。少し水を向けただけで、この妙な出で立ちのボクにまで気さくに接してくれた。
そしてボクは会釈して、彼女とその孫と別れる。彼女は生き字引とも呼べる年月を生きてきたのだろう。この町と、町の人々と、そしてあの男とも、全て長い時間を同じ空間で過ごしてきた人だ。
もう少し突っ込んで訊いてもおそらく答えてくれただろうが、何故だかボクは続きが聞きたくない心境だった。
たぶん彼女が話そうとしたとしても、そのすんでのところで、ボクは彼女の口元に手を当てるだろうことが予想できた。


言わないで、と。


もう、彼は存在していないのだから。
これ以上、彼に対して必要以上の知識と感情とを、持ちたくはなかった。


最後の最後。
彼に決別をかざした、あの瞬間のことをまだこの手は覚えている。
感覚のない、この腕に。
確かにのしかかった、生命という重み。


『人は、変わるもんやしぃねぇ』
しみじみと老婆が口にしたそのセリフは、真実だ。
変わるのだ、人は。
かつて大人しい地味な子どもが神の名を唱え始めたように。
かつて肉体を持っていた子どもが金属の身体を得たように。


環境が、人格に影響を与えてしまうものならば。
ボクは、果たしてアルフォンスのままでいるのだろうか?


今まで、その疑問の支えとなってきてくれていたのは、兄だった。
彼はいつだってボクをアルフォンスと呼び気を許し、その横に立つことを許容していた。
それがとても誇らしく、嬉しく、あぁボクはアルフォンス=エルリックなんだと叫び立てたいほどの確信が、其処にはあった。


ならば今は、何がある?


兄は、ボクが自身をアルフォンスだと言ったから、ボクをアルフォンスと呼んでいるに過ぎない。
その彼が、今度はボクに向かいこう問い質せば、ボクは何と答えればいいのだ。


『なぁ、お前は本当にアルフォンスなのか?』


『うんそうだよ、ボクはアルフォンス=エルリック』
―――そう答えろと? できるわけないだろう!
何処にも、何もないのだ。その証となるものは、何も。
写真を見れば。
戸籍を見れば。
なるほど、アルフォンス=エルリックの存在は確認できるだろう。
しかしそれが、イコール自分であると、証明するものは何もない。魂を引きずり出して、さぁこれでどうだと相手の鼻先に突きつけられるわけがないのだから。
いっそ、掴み出せたなら。そうしたなら、ボクはここまで悩みはしなかっただろう。


そして、ボクがこの身体を得てから、すでに6年が過ぎた。
肉体のないままに、精神だけが時を重ねた。
肉から切り離され、欲から開放された人間―――まるで聖者の例えじゃないか。
神の恩寵など要らない。神の右手に座る気など毛頭ない。
欲にまみれ地べたの泥に叩きつけられたとしても、ボクは兄とともに這いずり回って生きることを選ぶ。


けれど、何故―――と。


この空っぽの身体の何処かで、唸る悲鳴がひそやかにこだまする。


使命感にも似た気持ちで、彼に止めを刺せた自分が。
躊躇いを微塵も感じないままに、腕を振り下ろせた自分が。


あぁ、お前は何を恐れたのかと―――詰問する。


『こんな』
『生きているとも、死んでいるともつかない身体で』
『生き長らえるなど』
『それならば』
『いっそのこと』


『この手で』


途端にくらりと錯覚の目まいに襲われ、ボクは立ちくらみを堪えるように眉間に指を当てた。
ぎりぎりと窒息しそうなほどの苦しさが胸の中で渦巻いているのに、ボクの身体は汗をかくこともなく、心臓が早鐘を打つこともない。


『…安らかに』


あれは、本心だ。


確かに、あれはボクの本心だ。


楽になれればいい。苦しみから解き放たれて、ゆっくりと眠ることができる。
放っておけば、おそらくじわじわと苦痛に喘ぎながら朽ち果てて行くしかなかっただろう彼を目の前にしての判断は、間違っていたとは思わない。


けれど。


今までの自分なら、殺せただろうか。
例え兄が気を失っていようともいまいとも、己の手で凶器を振り落とせたか。
鎮魂を祈りながら、己の手を汚すことができたか。


あぁ、どんどんと自分は変わっていってしまう。
少しばかり、兄が記憶を失っていることにも感謝してしまう。 比べられなくて済むから。 兄の知るアルフォンスとのズレが、すでに何処まで開いているのか、誰にも判らないから。
ボクはアルフォンスであり続ける。


そして。


『いっそのこと』


そのセリフを、誰かがボクに向かって言い放つ現実も、あり得るのだ。
誰かがボクの兜を剥ぎ取り、その血印をナイフで抉りながら慈悲深い声で告げる未来も、あり得るのだ。


(例えば、それは―――兄であるかもしれない)


想像の中で彼は、今にも泣きそうな、けれど何処までも深い深い愛情をその目に湛えながら銀の刃を振りかざす。
愛してるよと呟いて、兄はボクを抱きしめながら、ボクをただの金属へと還す。


記憶をなくす前の兄と自分とは、どこか共犯者のような、共依存のような、愛情とその他の感情とが複雑に絡まり合っていた。
彼なしにボクはなく、ボクなしに彼はいなかったと断言できる。
しかしそれも、すでに過去の話だ。
彼はボクがいなくても、何とか生きていけていたのだから。
彼は閉ざされた世界の中で、閉ざされた鳥かごの中で生きていたけれど、無理やりに押し入り籠ごと壊してしまったのは、ボクだ。


兄の世界を初めに壊した人間は、ボクなのだ。


だからこそ、兄はいつボクを見限ろうとするか判らない。
これ以上壊されてなるものかと、防衛本能のままにボクを拒絶する日が来ないとも限らない。
いくら兄がボクの名を呼んでくれたとしても、それにボクはもう、安堵できはしないのだ。


(―――いくらその声こそを、ボクが求めていたとしても)


名前をつけて、籠を壊して。
表の世界で最初に見た者を親と思う雛のように。
彼がボクに抱く感情は、全て刷り込みなのだと言い聞かせながら。


期待はしない。
彼に再び、兄弟としての愛情を抱いてもらおうなどと、そこまでの望みを持ちはしない。
せめて、隣に。
その隣に立つことさえ許してもらえるなら。


これから先、兄に拒まれる日が来ようとも覚悟はできている。己の血印を自ら壊すくらい、造作ない。
彼のいない未来などありえないから。
その日が来たのなら、ボクはせめて人間らしく、最期を己の手で閉じようと思う。


(最期―――か)


気づけば、すでに朝市の端まで辿り着いていた。
腕には、気もそぞろながらも適当に買いあさってきた食料品の袋が2、3ある。
いつものように買出しをして、いつものような顔をしながら。
ボクは、ボクたちは、この町にいるわけには行かない。


病に冒されていると告白した男は、何を思い出したのだろうか。
かつて己の親と子を、同じ病でなくした男は、何を思いついたのだろうか。
実際のところ、彼が本心で何を望み、何を掴もうとしていたのかは…想像つかないでもないが、あえて追求はしないでおく。
この世界には人は数多いるが、彼の望みを非難する人間として、ボクたちほど似つかわしくない人間はきっといないであろうから。


死者には、ただ安寧を。
安らかなる、永遠の眠りを。


「た、大変だ!」


転げるように、1人の男が走りながら叫び立てた。彼の指差す先を見た人々の中にどよめきが広がり、同じくかすれた叫びが洩れる。
信じられない光景が彼らの前に広がっていた。


「神殿が…」


「燃えてる!」


確かに、それは神殿だった。
市場から見れば、なだらかな丘に立てられている白き神の家。
その神聖なる場所からは、今まさに空へと続く黒煙が立ち昇っていた。


神の家が、燃えている。


「水、水だ!」


「バケツ何処だ、いや、ありったけ持って来い!」


町民たちは各々手に桶やバケツやホースを持ち、神殿へと飛び出して行った。心配げにその様を見守る女性たちも、また中にいる信者たちの安否を気遣っていた。
青い空に、いっそ見事なまでに伸び上がる煙。
全てを飲み込んで行く、内包の黒。


行かずとも、判った。


(兄さん…)


燃えて行く。街中で。
ただ一箇所だけが、切り取られたかのように。
丘の中央にあるというだけでは、他の建物に引火しない理由とはならない。


「兄さん…」


多くの哀れな信者の遺体と。
幾人かの犠牲となった子どもの遺体と。
そして1人、教祖を名乗っていた男の遺体とを。


呑み込み、それらは全て灰となろう。


世間に晒すわけには行かなかった。
脳を弄くられ判断力を削り取られた人間。
他者の望みの代償として、己の身体を抉られた人間。
盲信した先に望まぬ長寿を手にした人間。


全て、世に知らしめれば何となるか。


おそらく、彼の判断は正しいのだろう。
しかし正しいことを行うことと、良心のままに行動することとは違う。


兄は、いま泣いているのではないだろうか、と―――


煙が空に吸い込まれていく先を仰ぎ見ながら、ボクはふとそんな想像をした。





+++





ボク以上に、この街では兄が目立つ。
ただでさえ人目を惹く金髪金目をしている上に、これまで散々宣伝活動を行ってきたのだから。
彼はおそらく慎重に人目を避けながら町の外れにまで移動するだろう。彼に土地鑑はないだろうが、まぁそこは野生の勘で何とかしてもらうことにする。
ボクはその前に、もう1度少女の様子を見て来ようとUターンした。


やはりと言うべきか、街外れの木陰に座っていると、しばらくして兄がやってきた。どうやら本人は変装しているつもりか、地味で煤けたコートをすっぽりと被っているが、怪しさは逆に増しているように見える。見咎める余裕は、今人々にはないだろうが。


「お疲れ様」


「…あぁ」


ボクが立ち上がって静かに声をかけると、兄は一瞬驚いたようにこちらを見、そして少し俯いて頷いた。


「……キトは?」


「さっきね、親御さんが迎えに来てたよ」


「そっか」


心から安堵したか、強張っていた彼の表情が一気に緩やかになった。
ボクがこっそりと診療所の窓から中を窺うと、ちょうど泣きそうな顔をした母親らしき女性が少女を抱きしめている場面が展開されていたのだ。少女もその抱擁に応え、テディを離さないままに母親を抱きしめかえしている。そしてその傍らには、同じく目を赤くした紳士が顔をくしゃくしゃにして立っていた。おそらく父親だろう。


元気に明るく笑う少女の姿。例えその笑みがこちらに向けられたものではなくても、それだけで十分だった。


「なら…良かった」


「ねぇ、エドワード兄さん……大丈夫…?」


少女も心配だったが、ボクにとってはそれ以上に兄のほうが心配だった。
緩やかに過ごしてきた彼の4ヶ月。
その内の数週間、いったいどれほどの負荷が彼の神経と身体にかかったことか。
しかし兄はそんなボクの心配を鼻で笑うと、彼のシンボルとも言える、不敵な笑いを浮かべて見せた。


「余計な心配すんな。オレを誰だと思ってる」


「…天下のエドワード=エルリックさまでございます」


「あぁ、そうだとも。オレは…オレだ」


「…エドワード、兄さん?」


兄はボクの腕を軽く掴むとボクの目を一瞬覗き込み、そして結局目線をやや外しながらボクの胴へと左頬をつけくっついてきた。
強気な目の光と、対をなすように揺れた視線。
彼の中で、何かしらの感情が葛藤しているのか。


「…アルフォンス」


「なに?」


「オレは…思い出せるか、判らないぞ?」


判らないんだ、と。


震えるような、小さな声。
それが却って、彼の感情をこちらに顕著に伝えてきた。


「頭の中を引っ掻き回しても、たぶん今は出てこない。お前のことも、いつ思い出せるか。もしかしたらずっと、忘れてるかもしれない」


彼にとってのボクの認識は、数週間前に初めて出遭った、鎧の身体を持つ男なのだ。
かたかたとボクの身体に伝わってくる小さな振動が、彼の肩の震えだと気づいた時、あぁ兄も人間なのだなと当たり前のことを思ってしまった。


「オレは…なぁアルフォンス? お前の、知っている、オレには……なれないかも、しれないぞ?」


それでも、と声にならずに唇が動く。


「それでも、ボクは」


受け取って、ボクは彼の肩を落ち着かせるよう、優しく両手を置いた。
彼の不安が少しでも、払拭されますようにと。


「それでもボクは……エドワー…うぅん。あなたが、必要なんです」


この声が届きますようにと。
この時ばかりは祈りたい。


「…お前は、離れないか? オレが、オレでしかなくても?」


「当たり前でしょ? 思い出せなくても、あなたがいればいいから」


「…オレは信じちまうぞ」


「いいよ。信じて」


いっそ、盲目的なまででもいいから。
ボクを、求めてください。
それ以上の強さで、ボクはあなたを縛り付ける。


ボクの腕に置いてあった彼の腕が、ゆっくりとボクの胴をかき抱く。


「……さんきゅ」


柔らかく、綺麗に微笑んでくれるのは何より大切な人だった。


「オレも、お前と共に…生きたいよ」


「そうしよう。ずっと、一緒にいよう?」


「……そーだな」


何が間違いでも。
どれほど断罪されようとも。


貫けぬ思いなら、最初から抱かない。


「あ」


「…何だ?」


自分でもすっかり忘れていたものを、慌てて身体の中をかき回して見つけ出す。何でも体内に置けるのはいいが、目に付かない分忘れがちなのがたまにキズだ。


「銀時計」


そうしてようやく持ち主の手元に戻ったそれは、兄の機械鎧と同じく廃棄されかけていたものだった。
見つけたはいいが、その場で必要ではなかったために一旦兜の上から放り込んでいたのだ。


「これ?」


「……ボクたちが探し物をするためにね、兄さんが手にしたもの」


兄が、その首に嵌めたモノ。


「一応、返すね…つけなくても、いいから」


兄の手を取り、銀時計を握らせた。刻まれた紋様は兄が軍の狗であるという証。絡みつく六紡星は、彼が自ら身体にまとった呪縛だ。
1人で泥を被り罵声を浴びることを選ぶ。兄の強さはそういう類の、ひどく悲しい強さでもある。
だからこれを機に、彼が軍属を辞めると言い出しても…ボクは止める気はさらさらなかった。今度はボクが資格を取って、狗となればいいのだから。
ボクの思いは何となく伝わったのか。兄はしげしげと時計を眺め、そして小さく苦笑した。


「なぁ、アル?」


「…え?」


そしてあまりに聞きなれた声に、弾かれたように彼を見つめ返す。
兄がボクを愛称で呼ぶのは、これが初めてであったのだ。


「オレたち…さ、確か探し物、してたんだよな? 大事なもの、取り返すために」


「うん。そうだよ」


「じゃあ、行くか。オレも取り返したいもの、あるし」


「…?」


ボクの身体を突き放すように離れると、兄は太陽の光を浴びてきらきらと輝くように走りながら、宣言するように言い切った。


「お前の身体。元に、戻しに行こう?」


「…っ!」


全く、この身体は不便で不便で仕方ない。


ボクは心底そう思った。
例え不壊の盾として、兄の身体を守れたとしても。
例え眠らずの番人として、兄の全てを守れたとしても。


彼のセリフに、泣けない身体が恨めしい。


泣きたかった。
泣きたかった。
彼の胸に顔をうずめ、見栄も外聞も捨て去ってただ、柔らかな体温に包まれたかった。


しかし、それは今は叶わぬ夢。


そしていつしか、手にするだろう未来。


「…駄目だよ、エドワード兄さん」


だからボクはただ少し驚いただけ、という風を装って、彼の後を追う。


「ボクよりも、エドワード兄さんの手足が先。そっちを先に戻さないと、ね」


「だーめっ! お前のが先。オレが兄なんだろ?」


「駄目っ! ボクもこれは譲らないからねっ! それに兄さん、いま走ったら、また倒れちゃうよ!」


2人の旅人を、見咎める者は誰一人いない。
念には念を入れ、乗り物を使わず徒歩で2、3の街を越えようとボクたちは歩き出した。
何も持たない、あるとすれば幾ばくかの金銭と、古びたコートと、銀時計しか見当たらない。
余計なものは何一つなく、必要なものだけが此処にはある。


笑い合い、ふざけ合い、時には少し喧嘩もしながらの、旅の道中。


「そうだ。しばらくしたら、リゼンブールと軍部に顔出そうね。みんな、心配してるよ。きっと」


考えてみればボク自身も数ヶ月会っていない懐かしい顔を思い出しながら、そう提案した。


「あ? そーなの? じゃ、その時はお前、みんなのこと教えてくれな」


「任せてよ」


ほとぼりが冷めた頃、2人でまた各地を巡ろう。
全部ボクが教えてあげる。


こうやって、兄がボクを頼りにしてくる度、ボクの中には嬉しさと共に不安感も湧き上がる。


ボクの中にある軋みは、軽くはなっても消えることはないだろう。
ボクがボクである限り。兄が兄である限り。
それはきっと、消えない刻印。
この血印と等しく。


何度でもボクは己に問いかけ、兄に問いかけ、終わりなき迷宮の中へと迷い込むだろう。
それでもボクは浮かび上がる。何度でも、何度でも。


何故なら、ボクの欲しかったものは賢者の石でも生身の身体でもなくて。


「? どうしたんだ。アル?」


「うぅん、何でもないよ」


欲しかったのは、あなたの呼ぶボクの名前。
その隣にいることを赦される、ボクの存在。


旅をしよう。
2人きりで。


(ねぇ、ずっと一緒に)


前を行く兄には気づかれないよう、1度だけボクは振り返った。





―――『神』を弔う黒煙は、今はすでに細く消えかけている。

Side:A …end







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