ボクに記憶と呼べるものはあるのでしょうか。
ボクに思い出と呼べるものはあるのでしょうか。


あの日確かに聞いた音。


真理の腕に抱かれながら聞いた音。





++ 神の坐す玉座 13ーB ++

+ 開かれた扉 +





    
「生命とは何だと思う」


唐突に、男はボクたちにそう問いかけた。
兄は眉をひそめ、ボクはただ見上げることでその返事とする。
そんな、下らない質問に答える気はさらさらなかった。
しかし教祖はこちらの反応など、元から気にしていないようだった。


「生命とは、エネルギーなのだよ。肉の器に宿る、膨大な目に見えぬ力だ。それが消えれば、人は死ぬ」


ロムルスはゆっくりと錬成陣を確認するように一回りし、古びた台に置かれていた、深さ約30cmはある細めの遮光ガラス瓶を手に取った。
蓋を取りそれを無造作に逆さにすると、ばたばたと何やら粘度のある液体が滴り落ちる。赤黒く床を染め上げていくそれは見間違いでも何でもない、血液だ。人間のものなのか動物のものなのか、また人間だとして一体誰のものなのかは判らない。


「肉と力とは別物であると、私はずっとそう考えてきた。意識が何処から来るのかを知りたいがために、結果としてあぁいう人形も作れるようになった。まぁ、児戯に似た実験だな。肉の造りは、複雑なようで存外単純だ」


「だま…!」


れ、と続けようとしたのだろう兄のセリフは、がたりと何かの響く音で遮られた。
振り返ると、ボクたちが無理やりにこじ開けたその扉に、誰かが手をかけている。やがてゆうらりと現れたその人物は、焦点の定まらない目でこちらを見ながら、ふらふらと歩いてきた。
その衣服には覚えがある。
兄の着ているものとは若干デザインが異なるが、まぎれもなく教団関係者の制服だ。


よろ、よろ、と男は歩いてくる。
気圧されたように、兄とボクは自然に道を開けてしまった。
その様子を見て、ロムルスは不愉快そうに、そしてやや意外そうに唇を歪める。


「…1人も殺さずに此処まで来たのかね、君たちは?」


「無駄に殺してられっかよ。……お前のやったことの、尻拭いなんざご免だ」


「やれやれ。まだいたとはな」


初めから、使い捨てる以外の利用価値など見出していなかったのだろう。
どういう偶然か、この部屋まで辿り着いてしまった男は、しかし己をこんな状態に至らしめた犯人が目の前にいるというのに何の反応も見せない。いや、見せられない。すでに感情の鈍磨も、見当識の喪失も始まっている。


ロムルスが無造作にふところに手を入れると、其処から淡く光が洩れた。
どうやらボクたちがこの部屋の存在に気づくきっかけとなった錬成は、同じくふところの中のものでの錬成であったらしい。


そして光が放たれると共に、ゆらゆらしていた男がいきなり糸が切れたかのようにがくりと崩れ落ちた。


「な、おい!?」


「もう遅い」


教祖の言う通り、揺さぶってみてもとうに事切れているのが判る。
兄が男の身体を支えながら、何ともいえない表情を見せる。まさか、頭部が通常より軽いのが判るとでも言うのだろうか。例え判らなくても、心情としての錯覚なら当然起こり得るだろうが。


「…な、にを」


「役目を終えた人形は、人形に戻るべきだろう?」


「…全員、やったのか」


俯いたまま兄が静かに呟く。その声音に徐々に熱が篭っていくのが、肌で感じられるかのように判る。


「あの人数を、全員やったのかって聞いてるんだ!」


「1度手を加えてしまえば、後からの調整は比較的簡単でね」


脳幹ごと、全て潰してしまえば簡単なことだ。


恐らく、ロムルスの施した錬成は効力持続型のものだったのだろう。
乾燥地帯や痩せた土地で時折使用される、穀物を育てるだけの力を土地に与え続ける巨大な陣を、かつてボクは目にしたことがある。
代価さえ確保していれば、ほぼ永久的に反応し続けるそれを、彼は応用し…いや、悪用した。


すでになりふりなど、構おうとする気配すらなかった。


「…出て来い。今なら半殺しで勘弁してやる」


「お断りだ。せっかく、此処まで来たのに」


どうして判らないのかと、まるで子どもに優しく勉強を言い聞かせる口ぶりだった。


「そうだとも、せっかく……君を」


真っ直ぐに向けられた視線は、兄ではなくボクを貫いていた。
どこかうっとりと、焦がれたものを見つめる熱を含んだ濁った黒目。


「君を見て…すぐに判ったとも。魂だけの弟くん? 肉と力とを切り離されても、今尚そうして生きている希少な存在だ」


(…生きていると言えたら、ですけどね)
兄がすぐ隣にいるがゆえにけして口には出さないセリフを、今この男に突きつけてみても、聞く耳を持たないだろう。
すでにボクたちと彼の世界は、大きく分かたれていた。


「君の存在が、私の理論を裏付けてくれた」


「黙れって…言ってんだろっ!」


弾かれた衝撃の余韻にしばらく座り込んでいた兄が、ようやく動いた。
陣に触れない位置に下がりながら、手を合わせ床へとその両手をつける。ぼごりと大きく床が陥没し、あるいは隆起し、変形しながら津波のように錬成陣を破壊すべく突き進む。
しかし。


「…え…?」


防波堤に突き当たったかのように、錬成は陣のすぐ手前で急激に掻き消えた。
びしゃびしゃと陣を血液で浸しながら、男は苦笑する。
気絶している子どもたちの衣服や髪が、血を吸ってどす黒く染まっていった。


「残念だが…錬成陣はすでに発動している」


あまりに大規模で高度な錬成は、その錬成過程自体に途方もなく大きなエネルギーが生み出される。
大気は唸り、気圧ですら変化を呼び起こすこともあるのだ。
そう、かつてボクたちが、頑丈な地下室であの錬成を行ったように。


周りの建物に被害を与えることですら、可能なのだ。


「…だから、血を…」


彼が先ほどまで手にしていたガラス瓶は、その用途を終え床へと放られていた。かすかな残滓が円状に、床へ血飛沫の跡を描いていく。
血液、なのだ。アレは。
そう、今もこの鎧の奥で、兄のそれがボクの魂をこの金属の鎧に繋ぎとめている。
それほどの力を持った、だから『血』なのだ。
いま、彼が目的を果たすその触媒とするために。


「ロムルス! 錬成を止めろ!」


「無駄だ。…もう、止められやしない」


風が、空気の循環乏しいこの部屋に吹き乱れていた。
がたがたと年月のために安定の悪くなった本棚が幾重にも軋みを立てる。フラスコが倒れた。名も知らない爬虫類のホルマリン漬けが、ごろごろと間抜けに目の前を横切っていく。


「兄さん!」


「ちぃっ、駄目かよ!」


近づこうとすれば、弾かれる。
すでに錬成陣と…ロムルスと子どもたちと、そしてボクたちの間には厚い大気の渦が邪魔をしていた。


「答えろロムルス! お前は、何を!」


「…私の身体も、人間だ。そして忌々しくも、病に人は勝てぬ」


「だから何だ!? 病気だ? だから赦せと!?」


「…ふ、其処まで愚かなことは言うまいよ」


ごぅ、と鼓膜があるなら耳に痛いだろうほどの、風が室内に吹き荒れる。
ばたばたと鳴っているのは、開いた本がページをせわしく捲り上げている音だろう。


「君も錬金術師なら、判るだろう? 君も錬金術師なら、手を出さずにはいられないだろう? 目の前に扉があるのだぞ! 開けようと手を伸ばして、何が悪い!?」


「お前とオレは違う! 錬金術師が術に溺れ呑まれた。お前のしたことは、ただそれだけのことだ!」


「知った口を聞くな、若輩者!」


互いに声を張り上げなければ、互いの位置すら判らなくなりそうだった。
荒れ狂う大気の中心に立ちながら、狂気の術師は教義をとうとうと説く。その衣服を、撒き散らした血液の赤に染め上げながら。


血に濡れた宗教者は独り立つ。


「考えてみるといい。1個の肉に1個分のエネルギーしかないから、人はあっけなく死ぬのだ。だとしたら…どうすればいい? 簡単なことだ。……足せば、いい」


一瞬の後に、閃光が更に強く室内を照らし上げる。


完全に、陣は発動していた。


「…キト!」


「兄さん、駄目だ!」


我に返ったように、陣へと近寄ろうとした兄を、ボクは必死で引きとめた。
駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!
いま兄を錬成陣へと近づければ、おそらく反応に巻き込まれることになるだろう。


ロムルスが行おうとしているのは、生体エネルギーそれ自体の移動、だ。


魂でもない。人格でも、記憶でもない。
ただ心臓を動かし脳を働かせ細胞分裂を行っていくための、力そのもの。
エネルギー体を身体から、脳から引き剥がすために、彼はまだ全てが確立されていず、また活力に満ち満ちている幼い子どもを狙い、そしてその道筋として、己の血液を自身と子どもたちと陣へと振りまいたのだ。
血液こそは最も簡単に手に入り、そして最高級の触媒ともなり得る。


「離せ、離してくれ、アルフォンス!」


「駄目、絶対…離さないから!!」


こんな小さな身体の何処にそこまでの力があるのかと、それほどの力で、兄はボクを振り解こうとする。
しかし兄に駆け寄る理由があるのと同等に、ボクにはそれを留める理由があるのだ。


駄目だ、埒があかない。


「兄さんは行っちゃ駄目だ、ボクが」


行くから、と。


彼を留め置き自分が向かおうとしたその時、ボクは確かに耳にした。


それはもしかすると、錯覚であったかもしれなかった。
けれど、ボクにとってはまぎれもない、現実だった。


歪む空間の中央で、重々しく、どこか厳かに。
6年前のあの日、ボクら2人の全てを塗り替えた忌まわしい『真理の扉』の開く音が。


―――確かに、したのだ。





+++





目を開けて、始めに見たのは兄の血に濡れた弱々しい姿だった。
己の身体を削り取ってまで、ボクを必要としたこの人を。
この、ひどく孤独に弱いこの人を。


ボクは、守り抜こうと思った。





+++





一瞬、意識が遠のいていたような気がする。
現在地も、状況も、何処までが現実だったのかを思い出すまでに、若干の時間を要した。


ボクは兄を庇うように抱きすくめながら、部屋の隅で座り込んでいた。
こちらより先に気づいていたらしい兄が、ボクも意識をはっきりさせたことに気づいたらしく、もう大丈夫だという仕草をして見せた。
ゆっくりと腕を外し、改めて部屋を眺めたところで。


ボクたちは、業というものを知らされた。


「……え…?」


その部屋の中央に、すでに反応し終えた錬成陣の中央に、彼は立っていた。
先ほどまでと同じように。


『彼』は代価を払い、錬成を終えていた。
払うものはおそらく、不要となる子どもたちの肉。そして魂。
得るものは膨大な、幾人分もの純然たる力。それは生命力そのもの。


しかし、力を得た身体はただ1つきり。膨大なそのエネルギー全てを受け止め損ね―――そして、耐え得るために肉体は変質していた。


「…ロム、ルス…?」


「…っ、…っ」


『彼』は、先ほどまでと同じように立っている。
そして。


ぱく、ぱく、と。
緩慢に口が開閉運動を繰り返す。
その唇はひび割れ、乾ききっている。唇だけではなかった。


血色が悪いを通り越し、まるで墓場の土色のような色合いの肌。
あまりに水気というものが感じられず、堅く痩せた筋肉にぺたりとそのまま肌が貼りついたようにも見える。言うなれば、そう。
骸骨に、直接干し肉のような皮膚を無理やりに乗せた姿…
細い手足。関節だけがボールのように丸くくっついている。
目は落ち窪み、見えているのかすら定かではなく、髪の毛がふらふらと立っている今も、ばらばら抜け落ちていくのが見て取れた。
割れた唇をどす黒い舌が舐めまわすが、潤う気配は全くなく。


「…な、ぜだ」


何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ―――何が?


すでに体力の限界なのか、木の棒で膝を殴られたような勢いで彼は地面へと倒れこんだ。くぐもった、何かの折れる音はもしや、膝関節の砕けた音であろうか。起き上がる余裕もないのか、ぜはぜはと息をすることすら辛そうに見える。


「…なに、が」


間違っていたんだ―――?


ボクたちは、言葉もなく男をただ見ているだけだった。
一体どう反応すればいいのかすら、頭からは綺麗に抜け落ち、新たな考えが浮かぶ余裕もない。


罪を犯した兄弟の前にいま、新たに刻印を刻まれた者が横たわる。


変わり果てた姿となった教祖は、のろのろと目線をこちらへと向け、その目は薄らと兄を捉えた。なくしたものを取り戻そうとしてか、彼は兄へと必死で手を伸ばそうとしながらも、腕は5cmほどしか上がらない。そしてすぐに力尽きる。
兄は干乾びた男の視線を嫌そうに避けながら、ようやく1歩、踏み出した。
そして気づいてしまう。


男の周りで展開されている、惨状に。


血に塗れた錬成陣の周囲。
中央で生ける屍と化している教祖の周りに、広がっている新たな地獄絵図が其処にあった。


代価として『持って行かれた』子どもたちの―――残骸。


「…っ、キ…っ!!」


「兄さ―――」


この時、今まで感じたことがないくらいに、兄の身体が頼りなく見えた。
駄目だ、兄さん。
見ちゃ…駄目だ。
彼の顔を強引にボクの胸元へと押しつけ、彼の視界を塞ごうとした。
見なくていい。見なくていいから。
貴方には、まだこの光景は記憶に辛すぎる。


しかし兄は緩慢に、だがしっかりとボクの腕を外し、その光景を見続けることを選んだ。


「兄さん…兄さん、兄さん、兄さん……大丈夫、大丈夫だから」


「ア…ル、フォンス…」


優しく、ゆっくりと声をかけてやる。はっ、はっ、と荒い息がなかなか収まらない。過呼吸に近い症状を引き起こしながらも、兄は限界まで目を見開き、その惨状を余すところなく見つめていた。
何が大丈夫なのか、言っている自分でも判りはしない。
ボクの腕は固まったように、兄の肩から外れようとはしなかった。兄の腕は、ボクの腕から片時たりとも浮きはしなかった。
果たして、縋っていたのはどちらだったろう。


目の前には、肩口から円を描くようにはらわた全てを失っている少年がいる。
四肢を全て弾けたように分断され、そして胴体だけがなくなっている少女がいる。
あらゆる関節がガラス工芸品であるかのように、180度以上捻じ曲げられた幼子が顔をこちらへ向けている。


あぁ、そうだ。
この光景だ。
抱きたくはなかった、既視感に彩られたこの光景は。


ボクがこの虚ろの身体を得て、兄の次に目の当たりにした、現実の世界―――!





(複雑な錬成陣は血に塗れ、そして中央には肉塊が横たわっている。
肋を突き出し露に臓器は脈打ち、ごぷりごぷりと血液を吐き出すその肉。
人の顔となるはずであったその場所からは、絶望と無しか生み出さぬ穴がただ開き、爛々と罪人を捉えて離さない。


肉塊には、名があった。
今は墓石に刻まれている、その名が―――)





「…キ、ト…?」


兄は顔面蒼白になりながらも、ふらつく足を叩いて何とか立ち続けた。
しかしボクが柔らかく背を支えてやると、緊張の糸が切れたのだろうか。がくりと彼の身体から力が抜けたかと思うと、一気に彼は気を失って、そして倒れた。


「兄さん…」


仕方あるまい。
ボクは気絶できる身体ではない。
それに、機械鎧を繋げたことから始まって、今日は彼に負担が大きすぎた。慣れぬ負担に、彼の身体がいつ悲鳴を上げても、おかしくはなかったろう。
それに…今は、彼に眠っていてもらった方が都合がいい。


「ゆっくり、寝てて」


そっと、彼を部屋の隅へと横たえる。
ボクは、陣の中央で苦痛にのたうっている男の下へと、近づいた。


「…あなたの」


もし自分に表情があれば、今はどんな顔をしているだろうか。
憤りか、怒りか、蔑みか。おそらくは、沈痛な顔をしていることだろう。


「…望みは、叶いましたか…?」


「……ぁ」


すでに苦痛に身を捩る力すらもないのか。教祖であったはずの男は、ただ崩れた肢体を持て余すようにその場所に転がっているだけだ。
傷ついた皮膚からは、血が流れる様子もない。


『扉』は、罪人の望みを望みのままには叶えはしない。
かつて、1本の足と1人の人間と引き換えに、脈打つ肉塊を与えたように。


数多くの肉と魂の引き換えに、『扉』が…『真理』が与えたものは。


半死人のようになりながらも、おそらくは半永久的に生きられる、否、生かされるだけの身体…。


「あなたのしたことは間違ってた。それは、ボクにも判ります…」


聞いているのか、聞こえているのか、それすらも判別つきがたい鈍い反応しか、教祖は見せない。
ボクは部屋を物色すると、年代物だろう大ぶりの燭台を手にした。今は汚れが浮いているが、磨けばきっと見事な輝きを放つだろう。


「兄なら、国家錬金術師の兄なら、あなたを罰するべく動かなくてはいけないでしょう。あなたは、罪を犯しすぎた」


罪人が罪人を裁くのです。
何と愚かな行為でしょうか。


「でも…ボクは。ボク、だけは…」


神サマ。 すでに貴方に祈らなくなって、何年が過ぎたことでしょうか。
けれど、今だけは祈らせて下さい。赦して下さい。
全ての慈悲がこの目の前に横たわる哀れな男を素通りするとしても、ボクだけは与えたいと思うのです。


何故なら、この男は。この男だけは。


同類だから。


生きているのか。死んでいるのか。
生き物と呼べるのか。死はその身に訪れるのか。
世の摂理に反して存在するこの身体。


世界の均衡に片足で突っ立っているような、その境界に住むのは自分とこの男だけ。


「…ボクにできることは、たった1つしかない…」


似すぎているがゆえに。


ボクは、あなたを。


(開放してあげられる、その方法を知っている)


一気に精神を持っていかれるほどの絶望を、知っている。
いつでもすぐ隣にぽかりと口を開けている虚無を、感じている。
自分ですら信じきることのできない体を抱え、それでもまだボクがこうして生きている理由はただ1つだけ。
ボクをボクとして、必要とする人がいた。そんな些細なことに過ぎない。


だからこそ、見せられない。
兄に己の、このような一面を見せるわけには行かなかった。


「…手向けです」


標本として飾られていた熱帯植物を千切り取ると、白の花びらにして彼の頭上から振りまいた。
ボクの動きを気配で感じているのだろうか、乾いた眼球がごろりと動き、こちらを見上げてくる。
こちらの意図を察したのか。かすかに土色の唇が動いた。


紡ぐ言葉を、読み取る必要すらなかった。


「…安らかに」


心から祈りを捧げ、ボクは振り上げた燭台を渾身の力を込めて、振り落とした。





+++





彼の身体からは、血の一滴もまともに流れ出てはこなかった。人らしい逝き方すら、赦されないのか。
そんな思いを、どこか己に向けたもののように感じながら、ボクはあえてそれ以上何も考えないよう努めた。


倒れている子どもたちに近づき、せめてもと仰向かせ、できるならば顔の血を拭い、目を閉じさせて行った。
改めて見てみると、6、7人はいる。いなくなった子どもの総数は知らないが、他の事故・事件を差し引いても、いなくなった子どもの殆どが此処にいるのは明らかだった。
数週間前にアンジュという女性の嘆きを目の当たりにしていたために、親御さんのことを思うと居た堪れない、などという言葉では到底足りはしない。彼女の息子がこの場にいないことを、心密かに祈った。
彼らの冷たさを感じない身体で良かった、と心底感謝した。きっと、生身で行える作業ではない。


「…あれ?」


何人目かの、女の子を仰向かせようと小さな身体に手をかけたところで。
かすかに、小さな手が動いたように見えた。
ついで、ぶるりと確かに震える。


仰向かせた少女は、先ほどまで髪を飾っていたリボンが解け、表情の大部分を隠してしまっていた。
震える指先で、そっと髪をかき分ける。少女の愛らしく青白い顔が覗く。
薄い胸が上下しているのは、果たして期待のもたらした錯覚か。


お願いだから。
お願いだから。


少しでも神の慈悲が、この世に存在するのであれば。


「…キト、ちゃん…?」


しっかりと握られた指には当然感覚はなかったけれど。


そこに確かな生命を感じて、ボクはゆるゆると天を仰いだ。


(罪びとであっても)
(生命を感じられる身体があって良かったと思うのです)


(ねぇ、エドワード兄さん)


(あなたはボクを、今でも必要としてくれますか)





光ない部屋で天を仰ぐ、少女を抱えた罪人の姿。

to be ...











>>>事件自体は終わったかのように見えますが…
次はアルとエドそれぞれの視点から。最終章になります。


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