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―――戦争はヒトを殺す。
いや、そうではない。
戦争が殺すのは、いつも……





++ 星の残光 ++






かすかな空気の振動にも、張りつめた神経はいとも簡単に高ぶった。
浅い眠りから一瞬の後には、完全に覚醒を果たす。
薄っぺらい板のような毛布を剥ぎ取ると、エドワードは今まで仮眠していた名残など微塵も見せず、敏捷な動きで表の様子を伺った。
野営用のテントとも呼べないような布で空間を区切り、見上げる夜空には星々ではなく立ち上る煙だけが存在している。
今更麻痺してしまって何とも思わないが、鼻を蠢かせば火薬と血と、そして命の匂いがするだろう。


エドワードは静かに背後の気配を伺うと、ゆっくりとタイミングを計った。


(…2、いや3人か……見張りはやられたな)


手を合わせ、起こる錬成の光に彼らが気づくより早く、エドワードは。
地面に突き立てた両手で、彼らをあっさりを気絶させた。


すぐ近くで同じく仮眠を取っていただろう部下がいっせいにこちらへと駆け寄ってくるのに、エドワードは顎をしゃくって危険を知らせた。
この場所からは、離れたほうがいいだろう。
時は夜。地の利は明らかに相手方にある。


「ご無事でしたか、エルリック少佐」


心配げな部下たちに、エドワードは曖昧に笑うと野営の撤去を命じた。
むろん、捕虜となる男たちの身柄は拘束した上で。


厳しい声で発せられた上司の命令に迅速に従う兵たちを見つめ、エドワードは改めて星の浮かんでいるはずの空を見上げた。
手を伸ばしたところで、天に届くはずもなく。


(…空が、遠い)


星を見なくなってから、すでに3ヶ月が過ぎていた。





+++





一個小隊を任され、その部隊長として部下の前に立つのはわずか18歳の青年だった。
見れば兵はみな、若い。とは言っても、エドワードの年齢に近い者はちらほらとしか見られなかったが。
自分たちより若い司令塔。
反発や不審が芽生えて当然であろうその光景に、しかし男たちは己の上司を見ていっせいに背筋を伸ばした。
白い肌、金の髪と瞳。成長期特有の、青年のしなやかさ。
およそ争いには似つかわしくない、それらを全く感じさせないほどの。
顔つきが、眼力が、仕草が。
全てを語っている。
目の前に立つ男は、最年少の人間兵器なのだと―――


「Yes,sir!」


彼が己の名と階級を口にすると同時に、一様に敬礼を送る。
それが予想外だったか、エドワードは呆気にとられた顔をして見せた。そしてその表情があまりにも歳相応であったものだから、男たちは第一印象をやや書き換えたのだ。


彼は最年少の兵器にして、上司にして、そして―――何処にでもいる、若者であると。





+++





「トマス、地図を」


部隊長の命令に、飛ぶように地図が砂の地面へと広げられる。
周りでは次々と野営地の撤去作業が続けられている。作業は流れ作業であるかのように速やかに進められていたが、あちこちで小さく怒号と罵声とスラングが飛び交っていた。それを一睨みしただけで沈黙させ、エドワードは地図を睨みつけてやがて一点を指差した。


「クレバー中佐率いる第五部隊は今何処にいる?」


「此処からですと、右手の川を迂回するルートで進行しているはずです」


「反対からも?」


「えぇ、噛みつくべきは、咽喉元だけで十分ですから」


「…道理だな」


薄く皮肉げに口元を歪め、エドワードは次のポイントへと出立の令を出した。
仮眠を取り始めた時間がかなり遅かったのだろう。すでに空は白み始めていた。
エドワードが立ち上がると、ひらりと紙きれが1枚地面へと落ちた。副官であるトマスがそれを拾う。


「あぁ、済まないな」


「少佐、何ですかそれは?」


何の気なしに聞いたことであったが、トマスはすぐに好奇心を口にしたことを後悔した。
その瞬間彼が浮かべた、自嘲とも悲哀とも怒りとも、そして無表情とも言えるその顔を見たならば。


「…これ、か」


人差し指と中指で挟むように持ち、するりと軍服の後ろポケットへと滑り込ませた。
上から確認するように軽く撫で、そしてエドワードは副官を振り返り…笑った。


「俺を子ども扱いしてくれていた、大人がいた証拠だよ」





+++





悔しいような、哀しいような、それでいて嬉しいような。
ひどく混乱した感情を持て余しながら、アルフォンスにも何の説明もしないままに飛び込んだ先の部屋の主は、自分の来訪を半ば予感していたようだった。


「…どういう、ことだよ」


かすれた問いに、部屋の主は静かに顔を上げただけだった。
部屋にいた、彼の部下たちも同様に無言のままだ。


「兄さん、いったいどうしたの…?」


「どうしたも、こうしたも…」


「鋼の」


厳しい軍人の声が、どこか労わりを帯びて投げかけられる。
そうだ、とエドワードは思う。
自分はこの一見打算的な彼の声に、どこまでも人間らしい感情がまぎれていることを、心の片隅で知っていた。


「鋼の」


再度、部屋の主であり中央司令部所属である軍人、ロイ=マスタングは少年の二つ名を口にした。
その名は、少年が軍の飼い狗である証。
目的のために矜持でさえも投げ渡した、少年の覚悟だった。


「おととい、西方近くの街に行ったんだ」


「……そう、か」


エドワードの一言で事態を全て察したらしいロイは、深く深くため息をついた。
どうせなら、北の果てにまで行っていれば良かったものを。
普段なら単なる軽口であっただろうが、それが今の彼の本音であることを、エドワードは痛いほど理解していた。


この人は。


どこまでも。


「准将。俺に何か渡すものない?」


「…さぁ、知らないな」


すでに目の前の彼は准将にまで昇格している。
セントラル所属の軍人でも目をひいて若く、そして有能な彼のもとには彼を慕う部下たちが集い、それゆえに他の将校たちからは遠慮がちに、だが苦々しく思われている存在である。


「これ」


ひら、とロイの前に突きつけた1枚の紙切れ。
そしてそれが、軍人と民間人とを分けるほどの重みのある紙切れ。


鋼の錬金術師、エドワード=エルリックを名指しした、召喚状だった。


「あっちの大佐さんとやらに貰った」


「……そうか」


「これ日付見た? 10日前だよ? その時、俺中央にいたよな。あんたとも昼飯食ったしな?」


「そうだな、確かにキミと食べた記憶はある」


問いつめながら、しかしエドワードにはその答えは判っていた。
それでも、訊かなければならないのだ。
自分の甘さを。自分の幼さを。


自らに知らしめるために。


「じゃあ、あんたのトコにも来てたよな…?」


「さぁ、どうだったかな。心当たりはあるかね、ホークアイ大尉? ハボック中尉?」


「私に訊かれましても、さっぱり」


「大尉に同じく。オレ記憶力最近ダメで」


「だ、そうだが」


どこまでもとぼけるロイに、エドワードは顔を伏せた。


あぁ、どうしてこの人たちは。
こんなに罪に濡れた自分を、子ども扱いしてくれるのだろう。


すでに見た地獄。
落とされた絶望。
未だに夢にうなされる日々。


けれどそれを知りつつも、戦場というもう1つの地獄を見せまいと、その大きな両手で覆ってくれる大人たち。


「……准将」


「何だね?」


「大尉も、中尉も……ありがと」


中央司令部を出る時に、しきりに次の目的地を気にしていたわけも、定期的に連絡を入れるよういつもよりくどく言われたわけも。
全て、それらは彼らの優しさであるのだ。
軍の規律に明らかに反してまで。
露呈しようものなら彼らとて、どのような処罰が下されるか判らないというのに。


「しっかし、やだね年寄りはこれだから。余計な気ぃ回すなよ。老けるぞ」


「そういうキミは何時まで経ってもそのサイズだな」


全く羨ましい限りだよ、とロイが肩をすくめて見せる。エドワードの身長は長年の夢叶いようやく170cmの大台に乗りかけている。しかしそれでも、エドワードを豆と呼ぶ輩は絶えない。すでに愛称と化しているようである。
そんなロイの仕草に、一気にエドワードの眉根が寄せられた。
憎まれ口の応酬は普段の挨拶。
いつも通りの、やり取り。


「あ? 何言ってやがんだ。俺の成長期を舐めんな童顔」


「身長の話じゃない。精神面だ」


「うるせぇ! それに見たか? 俺の階級?」


指差した先に示されたエドワードの官位は、少佐。
いくら国家錬金術師が少佐相当地位であるとはいえ、従軍経験のない人間には破格といっていい待遇である。
そう、言ってみれば二階級特進にも近いそれ。


それが何を意味するか、判らない人間はこの部屋にはいなかったけれど。


「このまま行くと、准将くらい簡単に追い抜くな!」


「何を言うか。キミの風下に立つ日など、馬鹿馬鹿しくて考える気にもならん」


いつも通りすぎて不自然すぎる朗らかな、会話。


最後の、会話。





+++





戦争は、起こることは容易く、治めることは困難の極みである。
誰もが知っていることであるのに、誰もが簡単にそのことを忘れる。
原因が例え些細なことであっても、すでに動き始めた闘争心は行く先を定めず、ただ敵と認識できる相手を求めて彷徨い出す。
暴発した感情を、治めにかかるのが自分たちの仕事だ。


『正義』の。


(何枚、オブラートに包もうが…現実はどうだ)


崩れ落ちた廃墟。荒れ果てた道路。見捨てられた車が1台、2台…
現実の世界に、地獄を作り出す仕事だと言い切られた方が。
まだ、開き直るという道が残されていたのかもしれないのに。


正義の烙印は、あまりにも醜く腐臭を放つ。


エドワードは次のポイントに向かうべく、的確な指示を副官へと伝えていった。それがさらに下位の者へと伝わっていく。
戦において、情報の収集と伝達は生きるか死ぬかを時に決定的に分かつことを、18という年齢ですでにエドワードは知っていた。
戦だけではない。
この世で生きる上で実に簡単なことが、生死を運命を決定的に分けてしまうことを、彼の左足は知っている。
鈍色に輝く、その足は忘れない。
母を想ったその感情が、結果として自分たちにもたらしたことを。


「…止まれ」


「? 少佐?」


常人より、普通の軍人より、数倍磨き上げられた彼の感覚が、警告を放った。
近くに、敵がいる。
ここは敵側の最前線。エドワードたちが送り込まれた、戦争の最も熾烈な地点だ。
何処に何があり、どう仕掛ければ良いのか、全て相手側が一方的に握っているも同様の場所である。
自分が命じられた派遣地点を知った時、エドワードは笑ってその紙を破り捨てた。


『要するに少しでも多く殺してから、死んで来いってか』


さすがは軍部。人間兵器の使用方法をよくご存知だ。
古びたモノが使えなくなるくらいなら、新品の内に一気に使い切ってしまえばいい。簡単なことだ。
けして大切な弟には聞かせないような暗い声で、彼は笑いつづけた。たった1人で。
だからこそ、エドワードは諦めない。
何としてでも生きて、そしてあの腕の中へと帰るのだから。


「俺が先に行こう」


「駄目です、少佐。私が」


「先手を打つのは俺の方が早い」


腕には自信のある曲者ぞろいだろう人間たちが揃った中でも、指揮官であるエドワードに敵う者はいなかった。
腕力だけであるなら。
銃の腕だけであるなら。
兵法だけであるなら。
もしくは勝る者がいたかもしれないが。
人の上に立つ指揮官として彼の器に勝る者は、いなかった。


警戒を十分に、エドワードは先の様子を伺う。
息を細め、目を凝らしながら。
そして小さく響いたコンクリートの欠片の落ちる音に、エドワードの身体は反射的に動いた。
軸足で小さく回るように、その地点を見つめる。


「……子ども……っ?」


年のころは5、6歳であろうか。
ひどく煤けた衣服をまとい、足元がおぼつかないようにふらふらと歩いている小さな子どもがいた。
その衣服の特徴から言って、敵対側の逃げ遅れた子どもであろうと思われた。


「何で、あんなところに…」


保護しなければ、とエドワードが一瞬油断したのを見ていたのか。
黒い影が幾本蠢いたかと思うと、銃を構える連続音。


地面が連続して弾け、意志を持たぬ鉛は容赦なくエドワードへと襲いかかる。
そして無論、その場に無防備に佇む子どもにも。


「くそ…っ」


敵に背中を見せ、反撃する準備もないままに飛び込むなぞ、自殺行動ともいえない。例え子どもを助けるという目的があるにせよ、それは単なる愚行だ。
そんな初歩的なことなど、エドワードは百も承知である。


あぁ、でも。
仕方ないじゃないか。


だって、この子が。


―――遠い記憶と似た、くすんだ金髪とくすんだ金目でこちらを見るから。


自分が何を助けようとしているかも判らないままに、エドワードは銃弾の雨の中へと飛び込んで行った。





+++





召喚された国家錬金術師は、ほとんどが若い者かもしくは資格を取って10年に満たない者ばかりだった。
その理由は勘ぐるまでもなく、10年近く前に鎮圧されたイシュヴァールの内乱のせいであろう。
過去の内乱で、当時の国家錬金術師たちの大半は心を痛め、精神を病み、良心を削り、そして我が身を呪いながら生き延びてきた。
中には己の力と他の命を奪う業に魅せられ、完全に己を失ってしまった者もいるけれど。
内乱後も国家資格を返上せず軍人として生きてきたロイだとて、その奥底には醜くひきつれた傷跡がはっきりと残っているだろう。


人の命を奪う仕事。


いちどきに、多くの人命を消し去れる人間を、人々は人間兵器と恐れた。


だからこそ、なのだろう。
イシュヴァール経験のない若手ばかりを揃えた理由は。
軍は、またも過去の過ちを繰り返す気であるのだ。


人間兵器を使い捨てにする組織こそが、狂気に満ちた兵器であると誰もが気づいているだろうに。


銘と名と官位とが記された召喚状を手に、エドワードは宿のベッドへと腰かけていた。
出立は明日。
今まで袖を通したことすらない軍服も、すでにベッドの上へと放り投げてある。
この服をまとってしまえば、もう後戻りはできないのだ。


「…兄さん」


小さく遠慮がちに、アルフォンスが兄へと声をかける。
召喚状を受け取った時の、あの何の表情も浮かべない顔も。
マスタング准将へ礼を言った時の、あの妙に明るい笑顔も。


どれもこれも、全て兄の表情であるがゆえに、痛々しくて仕方なかった。


「兄さん、やっぱり、行くの?」


「…俺も軍人だからな」


命令が下されれば、絶対として従う。
それができなくて、どうすれば狗となれるだろう。


「……だって、兄さん」


「アル」


弟の声を遮るでもなく、まるで独白のようにエドワードは呟いた。


「オレは、子どもだったんだよ…ずっと、守られてた」


お前にも、准将にも。


「そんなことないよ、守られてたのは、僕の方だ」


「違うさ。お前は俺を守ってくれてたよ。全部から」


一度は全てに悲観した自分を呼び戻してくれたのは、あの食えない黒髪の男。
再び立ち上がろうと思った自分を何処までも支えてくれたのは、目の前にいる愛しい弟。


そして今も。


さり気なく恩に着せるでもなく、自分を子どもとして血なまぐさい現実から庇護してくれていたあの軍人がいる。
何処までも自分のことを最優先に思い、そのフォローに徹してくれる弟がいる。


ひどく甘やかされた現実で、強く前を見据えていられたのは彼らのおかげであると、エドワードは痛感していた。


「なぁ、アル」


「なに?」


「……俺さぁ」


国家錬金術師に、なってくるよ。


「兄さん…っ」


自分の手で、自分の望み通りに掴み取った首輪なのだから。
その首輪をはめ続けるに相応しい働きを、して見せてやろうではないか。


「兄さんは、それでいいの…?」


「あぁ、もう…決めた」


もうこれ以上ロイに甘えることは、エドワードのプライドが赦さなかった。
その優しさにつけいりそうな自分を恐れたからだ。


「なら、僕も」


「民間人はまだ、召集されてない」


「兄さん!」


エドワードは、それ以上の弟の反論を許さなかった。
この優しい男に。この善良で馬鹿みたいに純粋に育ってきた少年に。
血と硝煙で構成された世界で凄惨と立つ、己の姿を見せるわけにはいかなかった。


しかし。


「アル。ひとつ、頼みがあるんだけど」


「なに、何でも言って?」


「俺が…俺が、帰ってきたら、さ」


お前は、笑って俺を出迎えてくれるか?
その金属の優しい腕で、兄を抱きとめてくれるか?


その答えを貰わないことには、きっと自分は進めない。


明日を迎える、意味を見出せない。


今にも泣き出しそうなほどに、真摯に己を見つめる兄に。
アルフォンスはぎしりと鎧を軋ませて、その腕を伸ばした。


「当たり前でしょ、兄さん」


またこうして、ずっと抱いていてあげるから。


温もりは感じないが、その腕の中のまどろめるような愛情の中で、エドワードはゆっくりと目を閉じた。
大丈夫。絶対に、自分は帰って来られる。
この腕なしには、地獄へも落ちてやりはしない。


重くなる意識の中で、エドワードは最愛の相手へと冷たいキスを贈り。
完全に眠りへと落ちていった。


それは、最後の夜。











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