font-size L M D S |
整列した部下たちを一通り眺め、エドワードはやはりかと1人ごちた。 どいつもこいつも、『子ども』ばかりだ。 年齢ではない。身長でも、知識でもない。 『知っている』か、『知らない』か。 エドワードは知っている人間で、そして本人が望んで知ったわけでもなかった。 彼らはみな、あるいは名誉欲に、あるいは正義感に、あるいは最愛の誰か、もしくは自己矛盾を抱えながら、こうして戦場へ赴くべく立っている。 近いうちに、彼らも知ることとなるだろう。 それが、戦というものであるのだから。 部隊長として、エドワードは彼らの前へと立った。 齢18にして、一個小隊の部隊長とは。軍があまりにも人材不足なのか、それともエドワードの覚えが良すぎたためか。 どちらにせよ、あまり嬉しくはない。 そこまで大きく年齢に幅はないが、それでも年下の上司というものはやりにくいだろうとの危惧がある。 しかし彼の予想はあっけなく外れ、「鋼の錬金術師」の知名度か、それとも目の当たりにした彼の姿にか、部下たちは一斉にエドワードへと敬礼をしたのだった。 部下の信頼を彼が得るのは、早かった。 その時呆然としたエドワードの顔つきが、しばらく話の種になってしまうくらいには。 +++ ふっと昔を思い出す。 それは振り返るというには近い記憶ではあったのだが。 自分たち兄弟を密やかに保護し、見守ってくれていた大人たちが、ふと見せた軍人としての表情を。 きっと、今の自分は浮かべていることだろう。 イシュヴァール内乱の話を思い出す。 信仰の違い、縋るものの違い、文化の違い。 異なるというその1点はどれほどささやかであったとしても、簡単に人が人を殺す動機となってしまうのだ。 たった1発の、軍将校の凶弾がその後の10年近くを変えてしまった。 いや、それは単なる引き金に過ぎなかったろう。何があったとしても、争いは起こった。 ただ無意味に殺戮と暴力と破壊とそして、空虚のみの打ち捨てられる戦場を、エドワードを包み込む大人たちは生き延びたのだ。 軍人を軍人であるがゆえに忌み嫌った自分がいたことを、エドワードは苦々しい思いとともに思い出していた。 今さらながらに。 あぁ、ごめんなさい。准将、大尉、中尉、みんな。 世を知らぬ子どもの戯言こそが、どれほど心に突き刺さるか。 俺はいま、身にしみて実感しています。 +++ 地面を連続して裂く音が辺りにこだました。 「少佐!」 「少佐を援護しろ!」 飛び出したエドワードを狙い撃ちする狙撃手と、雨あられの銃弾から上司を守ろうとする若き兵たちの乱戦が展開される。 鍛え上げた脚力と腕力で、すくいあげるようにエドワードは発見した子どもを腕の中へと抱きとめた。 そのまま横転し、いちばん近い元はレンガの壁だっただろうそれの影へと身を潜めた。 「…大丈夫、か?」 「……」 返事はない。自分が軍服を着ているために、警戒されるのは仕方ないだろう。 エドワードは少し躊躇いながらも、優しくその子の頭を撫でてやった。 「ごめんな……怪我をしていないようで、良かった」 「…ぅ…」 堪えきれなくなったか、小さな嗚咽がその咽喉から洩れ始める。 「怪我なんてさせやしないさ。俺が、守ってやるから。な?」 もう少し気の利いた慰めはできないものかと、自分で自分の不器用さを恨めしく思いながらも。 薄く埃を被ってはいたがないよりマシだろうと上着を脱ぎ、少年へと被せてやった。 まだ完全には気を許してはいないだろうが、少し落ち着いた感のある表情にほっとする。 金髪で、利発そうな顔つきをした少年だ。 それが誰かを彷彿とさせる容姿でなければ、きっと自分はとっさに動けていないだろう。 こんな血臭漂う土地で、それでもまだ彼のことを思い出す自分に呆れ返る。 いや、まだ思い出せる己に安堵すべきだろうか。 ようやく、銃撃戦は一旦の終了を見たらしい。 部下の呼ぶ声に、エドワードは少年の手を引いて立ち上がった。 「…歩けそうか?」 「うん。大丈夫」 「よし、強いな」 くしゃくしゃと髪をかき回してやると、少し不服そうな少年の顔がこちらを上目遣いに睨んでくる。 あぁ、大人たちが自分の頭を撫でようとした気持ちがよく判る。 こんな顔で見られたら、まだ自分が人間なのだと判るじゃないか。 「絶対、立ち止まるんじゃないぞ。いいか? …そら!」 幼い子どもを、これ以上戦場に留めておくわけには行かない。 一刻も早く部下に少年を預けなければと、やや気が急いたのか。 走り出す、その後方からかすかに砂を踏みにじる音。 「少佐…!!」 ―――ダムダム弾、という弾丸がある。 改造を加え、撃たれた側からはあまり変化が見受けられないが、中で肉を巻き込み最後には10cmもの大穴を身体に開けて飛び出してくる恐ろしい武器である。 あまりに人道から外れた造りであるがゆえに、その製造・使用は堅く禁じられているにも関わらず。 そんな禁忌でさえも、この土地では無意味に成り果てるのか。 子どもを抱えていたがゆえに、錬成は間に合わなかった。 ぶちり、と聞こえた音が、肉の分かたれる音だと誰が認識できたろう。 右大腿を掠め、そして左肘を真中に捉えたその違法な凶弾は。 エドワードの左手を、肘からあっけなく引き裂いていた。 「……っ!!」 「少佐―――っ!!」 ぼとりと、肘から先が地面に落ちた。地に落ち軽く弾んだかつての己の腕は、まるで玩具か何かのようにただの物体としか見えなかった。 突然の大量出血に、一瞬目の前が暗くなる。走る感覚はもはや痛覚ですらない、鋭い衝撃だ。 ショック状態に陥らないことだけを祈りながら、エドワードは両膝を地についた。 数年前に経験した、肢体を裂かれる痛みを今再び感じながら、腕に抱いた少年が無事であったことだけにひたすら安堵する。 「…ぅ…っ」 引きずられるように、物陰へと身を滑り込ませた。 部下たちは形相を変え、上司を害した者をとっ捕まえるべく乗り込もうとしていた。 上司の敵討ちだとばかりに血気盛んになる彼らに冷静になれと告げ、エドワードは応急処置を行っていく。 「…適当な、布の切れ端と…消毒用アルコールを」 すでに左手は諦めている。 あぁ、またも生身が減ってしまったな、と何処か他人事のような感想を抱く己に気づき、エドワードは自身に呆れた。「周りだけじゃなく自分のことも考えなさいよ」としょっちゅう説教をしていた幼馴染がどういう表情をするか苦笑しつつ、ぼろきれで右手と唇を使い、脇をきつくきつく縛り上げる。 心臓に近い部分であるために、さらに違う布で傷口近くを縛り止めた。 動脈血の流出が、ようやく少し収まった。時折思い出したように雫が垂れるが、こればかりは仕方がない。強引に縫い合わせることのできる針など、この場にはないのだから。 「…エルリック少佐…!」 「いい。心配するな。……少なくとも、気絶なんて間抜けなことにはならない」 最後に消毒だと、あちこちに凹凸のあるブリキの水筒を一気に傷口へと振りかけた アルコール自体の質は良いものではないが(たぶん色んな安酒のちゃんぽんだろう)、贅沢は言っていられない。 とりあえず、残された腕が壊死する事態が避ければ良い。 気づくと、部下だけでなく少年までが、ひどく心配げな光を浮かべこちらを見ていた。 小さく笑いかけると、泣き出しそうな顔になる。 「大丈夫だから…な? 守るって言っただろう」 「……うん」 頼むから。 その金の目に浮かぶのは幸せだけでありますように。 少年の保護を1人の部下に任せ、そしてエドワードは再び軍人の顔を取り戻した。 目をやる先には、地面に落ちた己の左手が今も転がっている。 もし、賢者の石に近い力がここにあれば、あるいは左手を取り戻せたかもしれないが。 「…ふ」 あまりにもな己の想像に、笑うしかなかった。 まだ自分はこんなにも、甘い。まだぬるま湯が恋しいか。それほど我が身が可愛いか。 違うだろう。己の望みはそんなものではないはずだ。 四肢などいくらでもくれてやる。最後に頭が認識できればそれでいい。 ただいま、アルフォンスと。 それだけを再び告げるその日のために、エドワードは凄惨な戦場に立っているのだから。 「…上着を」 副官がエドワードの肩へと、上着をかけた。遠慮がちに触れてくるのを怪我人扱いするなといなし、エドワードは立ち上がる。 「全員、5分で準備しろ。……一気に潰す」 +++ 戦場に、神が舞い降りる。 手にした銃や刃物の用途を忘れたかのように、男たちはただひたすらに立ち尽くしていた。 自分たちの信仰を。土地を。権利を。 守るために始められたはずの戦争は、すでにその形を変えていた。 隣国からの水面下での干渉により、武器や資金は調達され、そしてそれらを手にした男たちは軍事国家へと立ち向かう。 これはまるで、代理戦争ではないか。 自らの矜持を守るためですらない、国同士の小競り合いに利用されているのは自分たちではないか。 そのことに気づいた者は数少なく、一旦始められた戦は終わる気配も見せない。 終焉のない永遠の戦火。 そんなものを望んだ訳ではないのに。 「…ひっ」 顎に髭を豊かに蓄えた男が、引きつった悲鳴をかすかに洩らし、1歩、また1歩と後退する。 周りの男たちも皆、気圧されたかのように固まっている。 更に周りには多くの同志たちがいたにも関わらず、すでにその気配は消え失せていた。捕虜にされたのか。もしくは。 少なくとも半径2km以内に、同朋はいない。自分たちを孤立無援に追い込んだのは、明らかに、目の前の。 彼らの視線の先に立つのは、たった1人の軍人だった。 いっそ穏やかと形容しても構わないほどの、頼りなげな立ち姿でありながら、男たちは完全に圧倒されていた。 夜の闇に浮かぶその姿。 長い金髪は緩やかに編まれ、冷たい風に晒されている。服の上からでも細いと判る、しかし鍛えぬかれた肉体が青の軍服に包まれていた。 そして彼の衣服は、風に煽られ一部分がはたはたとはためいていた。左腕のある筈のそこが、途中から風になぶられるままに揺れており、いまだ止血が完全でないのか、左袖はしとどに濡れている。 ぽた、と滴るその雫は、命の色をしているのだろう。 戦場に生きるにはあまりにも見慣れた犠牲者である筈のその姿を目にしても、男たちには余裕を掴むことはできなかった。 怪我人が何を、と銃を構えればあっけなく終わると判っていても、それでも。 「…躊躇しなかったな」 いっそ穏やかなまでに、金髪の青年は呟いた。 「子どもがいただろう? 小さな子どもが。俺を狙ってたんなら、当然、見えていたよなぁ? お前たちの側の子どもが」 右手を掲げ、夜の闇に一瞬鋭い閃光が走る。彼の嵌めていた手袋が裂け、鋼の刃物が覗いていた。 「何故、撃った!?」 鮮烈な、怒りを含んだ金の瞳。 野営地の中心に小さく焚かれた炎が艶やかなまでに照り映える。 幾度も生死の境を足先で辿った者しか持ち得ない研ぎ澄まされた鋭気に、空気までが恐れおののいているかのようだ。 1歩、青年が歩みを進める。男たちは一様に、1歩引く。 その様を眺めながら、軍人は淡々と彼らに告げた。 「加減は、しない」 「…っ、死、神だ…っ!」 1人の男が、恐怖を吐き出すかのように吐き捨てる。 死神だ。あれは。 奢る者を叩き落とす、御遣いだ。 見ろ、あの姿を。 片腕をなくしてまでも尚、戦場に立つ金色の―――死神。 「…死神…?」 金の青年は面白げに男の言葉を繰り返し、そして自嘲気味に笑みを浮かべた。 「神様なんていやしない…アレは、もっと公平に死を運ぶものだ」 「な、何を…」 「俺は単なる―――狗、だとも」 主に歯向かう愚か者の咽喉笛に喰らいつく、忠実な。 抗うな、と。 金の狗は蛇のように、男たちに囁いた。 +++ びくりと大きくのけぞった。 嫌なシーツの感触に、寝汗がひどいことを知る。 「…どうしたの、兄さん?」 「え?」 エドワードの身じろぎに気づいたのか、かけられたその声に、エドワードの動きが止まる。 「…ア、ル、フォン…ス?」 「やだな兄さん、寝ぼけてるの?」 また研究ばっかしてたんでしょ、仕方ないなぁとタオルを取り出し、兄の身体を拭っていくアルフォンスの姿を、ただひたすらエドワードは見つめていた。 「アルフォンス…?」 「ん、どうしたの、兄さん?」 お腹空いた? 菓子パンくらいならあるけど。 そう言って、荷物へと振り返った彼の背中に、飛びつくようにエドワードは抱きついた。 「アルフォンス…アルフォンス……アル、アル……」 「そう連呼しなくても、聞こえてるよ」 様子のおかしい兄を心配そうに、弟は覗き込んだ。いつも不敵な表情を浮かべている彼は、今はなぜか現実離れしたような、ひどく衰弱した表情を貼りつかせている。 「本当に、気分でも悪いの? 僕、薬貰って来ようか」 「行くな! 行かなくていいから…此処にいろ」 少しでも彼の身体を離せば消えてしまうのではないだろうかというほどの必死さで、少年は鎧の腕を掴んで離さなかった。 「…大丈夫、僕は、ここにいるよ…?」 「アル…アル、少し、少しでいいから……このまま…」 震え出す身体を持て余し、幼子が母親に縋るように。 しがみつく兄の背を、それに応えるようにアルフォンスも抱きしめた。 兄さん、と。 耳元で囁かれるその声は、麻薬だ。 清水に黒のインキが一滴、垂らされるように…その声は、エドワードの内を確実に深く抉っていく。 もうすでに自分は、この存在なしに独りでは立てない。 彼を追い求めることが、すでに自分にとっての生に等しい。 +++ 両の腕で、弟の存在全てを感じ取る。 両方揃った、腕。 千切れ飛んだはずの左手にも、すでに俺は疑問を持つことを止めていた。 戦争は、人を殺す。 しかし戦争の最中、死んでゆく兵はけして、戦争に殺されたわけではないのだ。 俺のような、ある程度の権力と、戦力とを持ちながら。 人としての感覚を殺された人間によって、殺されていく。 ヒトを殺すのはヒトでしかありえない。 アルフォンスは俺の身体をその腕に抱いて、温もりと柔らかさと心音とを、感じ取ろうとしている。 俺はアルフォンスの身体にその身を包まれて、己がまたヒトであるのだと思い込もうとしている。 愚かしいまでの共依存。 俺はすでに選択していたのに。 あの日、召喚状を受け取ったその瞬間にはもう、選んでいたのに。 それをどうしても、弟にだけは告げられなかった。 俺は殺せるんだ、アルフォンス。 人殺しを否定しながらも、俺はきっと、殺せる人間だ。 だってそうじゃないか。 あの時からそうだった。 俺はお前を殺してまで、母親を生き返らせようとしたのだから。 そして今度は己を殺して、お前を取り戻そうとしたのだから。 欲しいもののためには、ただひとつのもののためには、きっと俺は何も惜しまず、何も躊躇うことはない。 すでに俺はアルフォンスを選んでいる。それ以外など、すでに選択肢にすら入っていない。 俺自身と引き換えであるならば、まだ人を殺す決意など定まらなかったろう。俺の中で俺の存在は、意外と薄い。 しかしそれがお前であるならば。 お前のために。お前を守るために。 例えそれが間違いであったとしても、俺は手を血で染めたとしても厭わないだろう。 そう、罰なのだ、これは。 俺はあるはずのない左手を、アルフォンスを確かめるように滑らせた。 罰だ。これは。 俺が左手をなくしたのは。 あの少年に、弟の面影を見たからじゃない。 あの身体が欲しい、と。 あの身体なら丁度良い、と。 一瞬でも考えてしまったから―――! 弟を手に入れたいがために、他人ですら殺そうとしてしまうこの狂った思考に、罰が下されただけなのだ。 人から外れそうになる度に、磨り減っていくこの肉体。 幼子を躊躇いなく撃ったあの男たちに、俺は誰を重ねた? ゆっくりと、冷たい鋼の指が俺の首筋を撫で上げていく。その感覚も、どこか遠い。 此処は何処であっただろう。 名も知らぬ小さな町の、安宿か。 名を失った小さな町の、野営テントか。 あぁ、本当に…どちらだろうと、変わりはしない。 俺はじわじわと殺されていく。殺されていくんだ、アルフォンス。 左手はすでに失った。 じきにまた何かを失う。 それが目に見えるものであればまだいい。目に見えぬものも容赦なく削り取られて行く。 お前の前に再び立つ時、俺は俺でいられるだろうか。他の生き物に成り果ててはいないだろうか。 戦争に駆り出された兵士は、こうして消耗していく。俺たち兄弟に暖かい言葉をかけ、鷹揚に見守ってくれた軍人たちも、例外なく。 ぎしぎしと、俺の中で何かが軋んで行くのが判る。軋む音が耳障りで仕方ない。 目を閉じ再び開いた時、アルフォンスは果たして此処にいるだろうか。果たして彼はまだ俺を抱いているだろうか。 何処からか、火薬と血の混じり合った、鉄臭い空気が鼻をつく。 これは錯覚だろうか。弟の身体を再び抱きしめようとした時、その左手はまだ存在しているのか。 それだけが恐ろしく、祈るように目の前の弟に頬を寄せた。 そして彼の身体に上半身をもたせかけ、ゆっくりと目を閉じる。 きつく。 強く。 死神と呼ばれようと狗と蔑まれようと構いやしない。 俺は此処に帰って来られればそれでいい。それだけを夢見ている。 そうだ、夢だ。 これは、夢。 目覚めればすぐに落胆と諦念とが待ち受ける、残酷な幻想――― 窓の向こうから、小鳥の囀りが入ってくる。 薄く朝日が差しこみ、夜も明けるだろう。 一日が始まる。―――夢が、終わる。 俺は微動だにせず、弟を抱きしめ、そして抱きしめられていた。 心の中で、目を開ける勇気のない己を嘲り、罵りながら。 ずっと。 手を伸ばしても、とうに星はその手からすり抜けていた。 星は矛盾と欺瞞と自己嫌悪の鎖に絡まった、哀れな男を見下している。 1人空を仰ぎ星を探す、戦場の夜。 |