安芸藩浅野家の根尾氏は、文禄年間、三河国刈屋において、浅野長政に仕えた半四郎を祖としています。この半四郎は金森家にあった根尾将監の弟にあたりますが、太閤秀吉の朝鮮出兵のおり、浅野幸長に従い出陣。蔚山で討ち死にしています。
 この家は三代重次のとき、姓を母方の水野のと改めますが、五代尚之のとき、もとの根尾姓に戻しています。そして、江戸中期に分家を許され、二家となって明治維新を迎えました。
 子孫には、住友商事の重役を務められた方があったほか、東京、大阪、神戸、広島にも子孫がおられます。家紋は「五枚笹」を使用しています。
 昭和八年に刊行された『芸藩輯要』に収録の「藩士家系録」から根尾氏の項を紹介しておきます。

  根尾半四郎某 生国三河
       現主 根尾 徼
 根尾半四郎某(一に源四郎トモ)文禄の頃太祖公に仕へ処々御陣に従ふ。慶長二年正月再度の征韓の師起りて、御二代公援軍として精兵五千大阪発船の事あるや、半四郎また御供仕り、其年十二月蔚山彦陽の戦に我軍討死するもの多く、二十一日御二代公死を決せらるるの日、半四郎ら懸命の働きを致し、沖安兵衛、中島源兵衛、足助九兵衛、小鷹狩金太夫らその他の勇士共に遂に討死す。茲を以て其の遺孤垂憐を以て召使はれ累代奉仕をつづく。後年源右衛門某は享保十八年蒲刈御茶屋番、寛保二年御連枝方御付人など相勤め、藤五郎は文政八年小方口屋番たり、夫れより四郎衛門、源六を経て重作に及び御維新となり、永世禄二十五石権少参事請引の下に置る。現主徼其の後継者にて久しく浅野侯爵家従を勤務したり。国泰寺を菩提所とす。