この家は先のページで紹介した、根尾谷に隣接した「越前国小山七郷を与える」という、根尾右京亮ら3名あての『織田信長朱印状』を所持しておられることから、信長勢の陣中にあって、越前から越中侵攻に従い、やがて砺波の地に土着したものであろうと考えられています。
 「2千石持ちの根尾さま」といわれたこの家について、『富山県姓氏家系大辞典』(角川出版)より、その一部を紹介します。
 
 初代根尾宗四郎(幼名惣四郎)以来、七代宗四郎(幼名四一郎)まで、庄川廃川地の開拓に努めた、この地域の指導者であった。
 八代宗四郎(幼名嘉十郎)は明治三十八年、三十二歳で庄下村長に就任。以来昭和四年まで二十五年余の長期を努め、村の発展に尽くした。また、明治三十六年から四十年まで郡会議員・同議長、同四十年から四十四年まで県会議員、この間、同四十二年には議長にも選ばれた。銀行業にもかかわり、明治三十三年中越銀行取締役、大正十一年頭取に就任した。農村振興にも意を用い、明治三十八年から昭和十八年まで庄下村農会長を努めたが、この間大正十三年には民間人初めての全国産業組合中央会の富山県支部長に選ばれた。
 九代宗四郎(幼名達雄)は横浜正金銀行から中越銀行に入り、銀行合併により北陸銀行監査役になった。昭和二十六年庄下村長に選任されたが、時代の進展に即応した強力な自治体をつくることを痛感し、率先して町村合併に踏み切り、昭和二十七年砺波町誕生に参画した。
 根尾長次郎家は分家で、初代長次郎は二代宗四郎の弟。天明二年の分家であるが、本家の宗四郎と同様、代々長次郎を襲名した。本家との協力関係は極めて蜜で、二人三脚のようだといわれた。
 四代長次郎(幼名六四郎)は、酒造業を営み、大牧温泉を経営し、明治二十二年から三十八年まで、初代庄下村長を努めた。
 五代長次郎(幼名晋)は、教員として八年間勤めたあと、大正三年庄下村会議員、同四年議長、同八年から昭和二年の間に県会議員三期十二年、この間昭和十五年に議長に選ばれた。
 六代根尾千治は、庄下村におけるチューリップ栽培の先覚者である。大正十三年水野豊造らと、組合員十三人で庄下球根花卉組合を結成して、今日のチューリップ生産の基礎をつくった。」

 この家系が全国的にも一番多く分布し、さまざまな分野で活躍する人を輩出しています。NHKで記者として活躍される方もこの家系です。また、「熊谷組」の元社長の母も同様です。