中小路家は、西国街道に沿った住宅で、
敷地中央北寄りに建つ主屋に、
上質なつくりの座敷を備えた大形民家です。

敷地内には、高く腰板を張った土蔵造りの内蔵と外蔵、
落ち着いた佇まいの離れ及び内門が建ちます。

また西国街道に面して、南から、
軒まで漆喰塗り込めとした穀蔵、
出格子窓をつけた長屋門、
これらと統一的な外観を持つ木小屋と塀が連なり、
旧家の屋敷構えを伝えています。

外観

当家のある上植野町下川原の街道沿いは、
“河原町(かわらまち)”と呼ばれる町内です。

代々の当主の名が忠兵衛であったことから、
屋号を「河忠(かわちゅう)」といい、
古くからの農家でした。

中小路の姓は、当地に営まれた
古代の都・長岡京にちなむものかもしれません。

上植野にある向日神社の御旅所、
その前の東西に延びる一本道は、“中筋道”と称され、
長岡京の復元ではちょうど三条大路にあたる
由緒ある道です。

当家付近は、大極殿をはじめとし
諸官庁が建ち並ぶ都の中心部や、
メインストリートである朱雀大路にほど近い場所でした。

中小路家の先祖は、菅原道真の一族で、
太宰府へ左遷される道真に従ったのち、京へ戻り、
道真を祀る天満宮を、
現在の長岡京市開田に造立したと伝わります。

室町時代から戦国時代にかけては、
乙訓・西岡の土豪として活躍し、
本拠として開田城を築きました。

この地域の中小路家は、その子孫と思われます。

当家に伝来する延宝八年(一六八〇)以来の古文書などから、
四〇〇年近く前から現在地に住まい、
幕末には聖護院門跡領の庄屋を務めていたことがわかります。

座敷廻り

現在の主屋について、
弘化五年(一八四八)正月に
居宅建て替えを願い出た文書の付図や、
大正一四年(一九二五)九月の屋敷図と比較すると、
内蔵を増築し、土間を板間にするなどの手が加わるものの、
座敷廻りはほぼ一致しています。

弘化五年に造立され、今日まで大きな変更なく、
維持されてきた建物であることがわかります。